二十四、論理くん、私と一緒に鬼と対決する

目が覚めた。来て欲しくない日が来る。緊張しているのだろう、意識は冴え、眠気の残りはまったくない。

「論理くん…っ」

いよいよあのお母さんと戦うんだね。論理くん、どうしてるかな。私はスマホを手に取り、ラインの論理くんの画面を開いた。

『論理くんおはよう。とうとうだね。お姉さんはもう出かけた?』

既読はすぐに付き、リプが帰ってくる。

『池田さんおはよう。三日間がんばろうね!姉はまだいるよ。あと二時間くらいで行くみたい』

『そか。私も今から身支度するよ。今日は動きやすい服装がいいよね?』

私がそう書くと。やや間を置いて、論理くんの白い吹き出し。

『そうだね…。ほんとは池田さんの、Babyの黒いロリワンピ、見たかったんだけど』

『初めてのカラオケで着た服?』

『うん。あれ、めちゃかわいかったから』

こんなときでも、私の姿形を気にかけてくれる論理くんが嬉しい。

『ありがと論理くん。だけど、さすがに今日は無理だよね…』

『だよねぇ…』

『そのかわりさ、今からシャワー浴びて、うなじも剃って、かなり伸びちゃったけどしっかりヘアブローもして、おかっぱ作っていくから』

『うんありがとう』

にっこり笑う絵文字を三つも並べてくれる論理くん。

『論理くん、この試練、二人で力合わせて乗り越えようね』

『うん!クソババアに打ち勝って、俺たちの絆はより強くなるんだ』

今度は拳の絵文字が三つ並ぶ。論理くん、力強いな。よし、私も元気出てきた!さあいくぞ。論理くんとのラインを終えた私は、手際よくシャワーを浴びる。うなじも丁寧に剃ってすべすべにした。そしてヘアブロー。伸び気味だけどおかっぱを整える。荷物も持って準備万端。ぎゅっと拳を握りしめて、私は家を出た。外は雨。傘を打ちつける雨粒の音を聞きながら、私はアスファルトを踏みしめた。


二時間後。鬼ヶ島の入り口に立つ。池田桃太郎には、犬も猿もキジもいない。きびだんごすら持っていない。ひとりぼっちだ。でも私には、論理くんという、強力なパートナーがいる。だから、きっと鬼にも勝てるはず…きっと…!私は天を仰いで、意志を統一した。そうしなければ、今にも鎮魂歌が聞こえてきそうだった。しかし、雨の音がそれを激しく邪魔する。風も出てきた。天気予報では、台風が今夜のうちに尾風を通過するらしい。私は、傘越しに、鬼ヶ島、つまり、論理くんの家を見上げた。もう何度目かになる論理くんの家。三階建ての四角くて肌色の家。六つある窓の全てに厚い鎧戸が引かれていて、日光も人も拒んでいる。いかにも論理くんの家にふさわしいたたずまいだった。入り口は、アコーディオンカーテンのように、四つ折になっている。私は、手を入り口にかけた。さぁ、行くぞ、いざ、決戦の場へ!無事に勝利をおさめ、鬼が奪っていった人間の心を取り戻すぞ!大丈夫、正義は必ず勝つんだから!

「ごめんください」

と、私は、入り口を横に押し拡げる。ガタガタと大きな音がした。私の心臓も、これくらい大きな音で鳴り響いている。でも扉の向こうには、今いちばん会いたい人が、何故か玄関先にあぐらをかいて座っていた。

「論理くん!」

私は、思わず大声を出してしまった。その瞬間、論理くんは人差し指を口に当てて、シッというような素振りを見せたけど、私の声は、もう鬼に聞こえてしまった。

「論理!誰が来てるの⁉︎」

論理くんは、チッと、舌打ちをする。そして、私に小声で、

「せめて出だしぐらいはスムーズにしたいと思って、ここで池田さんを待って、こっそり俺の部屋に連れていきたいと思ったんだがな…。しかたない、挨拶するか。脅すようだけど、あの養女が飛び出したから、やつは酷く機嫌が悪い。いくら馬鹿なことを言われても、相手にせずに、俺の部屋に逃げ込むぞ」

と、言った。

「論理!聞こえてないの⁉︎論理‼︎」

鬼が吠えている。私は、早くも足が竦んできた。こんなところで怯えてちゃダメだ!がんばれ!私!私は、私の中にある勇気をかき集めて、奮い立たせた。

「論理‼︎いい加減にしておきなさいよ‼︎返事しなさい‼︎」

鬼の一声。勇気がどこかへ行った。も〜、無理だ。こんな鬼と三日間も一緒にいたら、食べられてしまう…あぁぁぁ…。

「今行く‼︎ちょっと黙ってろ‼︎」

論理くんは奥に向かってそう怒鳴ると、私の前で両手を合わせて、頼む!という仕草をしてから、私の手を取って廊下を歩き出した。その間にも、

「あんたはね!いつもいつもお母さんの言うことを聞くふりばっかりして!いい加減、あんたにも、お灸を据えないといけないと思っていたわ!」

というような、ぐちぐちとした声が聞こえてくる。この人は、いつも怒っていて疲れるだろうな。笑うことあるのかな。そして、とうとう私たちは、鬼の前に立った。お母さんは、私を見ると、目を大きく見開いて息を飲む。

「お前っ‼︎なんでお前がここにいる!論理!どういうことなの‼︎」

久しぶりに見たけど、怒りのスケールが違う。このお母さん、本当に鬼に見えるよ。

「お前っ‼︎何様か知らないけど、よくもまぁ、この太田家の敷居が跨げたものだね!何も言うことはない。ここから出て行きなさい。今すぐ!今すぐだ‼︎わからんかああああっ‼︎」

お母さんの口から何か光線が出ているんじゃないかと思うくらいで、私は跳ね飛ばされそうだった。相変わらず足は竦んでいる。はい、出て行きたいです。お望み通りに。でも、論理くんが、そんな私を片手を上げて守りながら、お母さんに相対してくれる。

「吠え尽くしたかよ?」

「…………っ!」

「いいか、池田さんと俺は、これから明後日までお母さんを世話する。池田さんの心証を害するようなことは、しない方が賢明だと思う」

「なんだって‼︎絵美(えみ)がそう言ったの⁉︎」

「そうだ。お母さんのかわいい絵美ちゃんが、俺たちにそう命令した。だからそうする」

「馬鹿げたことを言ってるんじゃない!誰がそんな小娘の世話など受けてたまるもんですか!論理!電話を持ってらっしゃい!」

「池田さんの家に電話するなら無駄だよ。了解はもう取ってある」

「違うわたわけっっっ‼︎」

耳をつんざくほどの雄叫び。お母さんの体には、やっぱり鬼の霊が憑依してるんだと思う。そうとしか考えられないよ。あぁ、逃げたい。でも、逃げたらいけない。そうだ、私、お母さんと分かり合わなくちゃ。でも、無理だよ。だって、こいつはお母さんじゃなくて、鬼だもの!

「岩下(いわした)に、どしゃべってやる。もう、今度という今度は許さん‼︎」

「お母さん。前もって言っておくけど、絵美ちゃんは岩下にはいないと思うぞ」

「減らず口はいらん!さっさと電話を持って来なさい!」

「はいはい」

論理くんは呆れた表情で、電話をお母さんのところに持ってきた。お母さんに受話器を持たせると、慣れた手つきでダイヤルをする。呼び出しが始まると、論理くんは私のところへ戻ってきて、小声で、

「岩下の町に、やつの実家がある。そこは養女の実家でもある。この実家に養女が逃げ込んだと思っているんだろう」

と、教えてくれた。やがて電話がつながる。そこから先のお母さんの怒り狂いようは、ここではとても文字にできない。激しく、そして執拗だった。かれこれ三十分、この人は怒鳴り散らし続けた。これはこれで賞賛に値するパワーじゃないかとすら思う。何やらお母さんは、お姉さんがそっちにいるだろう、帰せ、と言い続け、向こうは、絵美はいないの一点張りのように見えた。

「はぁ…はぁ…」

声も枯れかけたお母さんの手から論理くんは受話器を受け取り、電話機に戻す。

「あんたねえ!あんたも絵美のグルなら、絵美がどこにいるか知っているでしょう⁉︎」

「いや、知らない」

「論理‼︎お母さんの言うことがきけないのっ‼︎その娘に、ど性根を捻られ尽くして、こんなみっともないもんはないわっ‼︎」

その前に、お母さんこそが、論理くんのど性根を捻っているんじゃないですか?私はそれを直してあげてるんです。と、いうことは、口が裂けても言えるはずもない。

「池田さんのことを悪く言うな!お世話になるんだろっ」

「たわけっっっ‼︎誰が世話になると言ったっっ‼︎」

爛々と燃え盛る目が私を射抜く。

「出て行け…出て行けっ‼︎わからんかっっ‼︎」

お母さんはうなされるようにそう言いながら、お尻を動かして私ににじり寄ってくる。こ、怖い…。私は、つい後ずさった。まるでその姿は、ゾンビが地から這い上がってくるように見えた。声を出そうとしたけど、声が出ない。恐怖で声帯がやられてしまったかもしれない。論理くんは私を守る仕草をしながらも、お母さんに気圧される様子だった。論理くん…。

「いい加減にしろっ!クソババアっっっ‼︎」

論理くんは、ぱっと進み出た。そしてそのまま右足を上げると、お母さんの左肩へ、キーーック‼︎

「ちょっ!論理くん、何してるの‼︎」

「いい、これだけだ」

論理くんは軽く片手を上げて私に応えると、再びお母さんと向き合った。蹴りを入れられたお母さんは、もう怒髪天を突くなんて勢いじゃない。

「あ、あんた…はぁはぁ…何したの今…?」

「よく聞けっ!」

論理くんは激しくお母さんに怒鳴った。あの、私がいじめられて号泣したときに怒鳴ってくれたときのように。

「池田さんに何かしようとするなら、いくらお母さんでも情け容赦ないからな!これから三日間そのつもりでいろ!そしてとにかく、俺たちは何も知らないし、伝え聞いてもいない。今頃あいつはあの男と、どっかでラブラブだろ」

あの男、と聞いた瞬間、お母さんの頭は、今日百何度目かの沸点にたちした。

「やっぱり…やっぱり、あの島倉(しまくら)かっ‼︎どいつもこいつも私をコケにしてっ‼︎許さん…、許さん!許さあああああああんっ‼︎」

さすがのお母さんも、何度となく怒鳴り、果ては息子に蹴りを入れられてとうとう燃え尽きてきたか、この絶叫を最後に何も言わなくなった。

「よし一件落着だ。池田さん、俺の部屋に行こう」

論理くんはそう言い、自分の部屋に行こうとした。私は、お母さんを見る。鬼のようなお母さんだけど、私は、この人とわかり合うって決めたんだ…。怖いけど、めちゃくちゃ怖いけど、お母さんにまだ人の心が残っていれば、分かり合えるはず…と信じたい。

「あの、論理くん…」

二階に行く階段の手前で、私は、論理くんの手を引いた。

「どうしたの?」

「あのね、私、論理くんのお母さんと少しお話がしたい…」

「話⁉︎」

論理くんは、目を飛び出させた。

「うん…。話をして、どうにか私のこと、受け入れてもらえないかなと思って…」

「見てわかるだろ。もはやあのババアは、俺たちと同じ言語すら話していないぞ」

「でも、それでもちょっと話がしたい…。ちょっと行ってくる!ダメそうだったらまた戻ってくるよ」

「やれやれ。…でも、そういうところ、すごく池田さんらしくて、大好きだよ。それじゃあ俺は物陰に隠れて、いつでも飛び出せるようにしているから、行ってくるといいよ」

「ありがと!」

私は、居間にいるお母さんのもとへ向かった。私は、怯えていたけどどこか堂々としていて、なんとかなるような気もしていた。居間に入ると、お母さんはさっき萌え尽きたときと同じ姿勢で、ぼーっと視線を虚空に漂わせていた。

「お、お母さん…。先程は、失礼しました」

「……………」

お母さんは、何も言わない。言わないどころか、姿勢も視線もピクリとも動かさない。

「えっと…、お姉さんが、出て行ってしまって、その代わり私が本日から三日間、お母さんのお世話をさせていただくことになりましたが、到底、お姉さんのようには至らないと思います。でも、よろしくお願いいたします」

「……………」

お母さんは、冷たい岩のようにまったく動かない。私のことが見えているのかすらわからない。無視されてるのか…私…。まぁ、いい!このまま続けろ!

「論理くんは、お母さんのこといろいろ言ってますけど、根本的には、愛してると思います。憎いって気持ちには、愛がなければならないって思います。だからその、見捨てられたとか、思う必要は無いと思います。論理くんは、いつまでもお母さんの息子さんなんですから」

「……………」

かなり思い切ったことをしゃべったつもりだったんだけど、それでもお母さんは目の玉一つ動かさない。どういうこと…?

「はいはい、もういいでしょ」

論理くんが居間に入ってきた。

「池田さん。これが、こいつの『だんまりモード』。発狂したあとによくこうなるね。目を開けてはいるけど、意識がないのと同じだ。何も見えないし聞こえもしない。言葉を変えて言えば、この間は俺たち、こいつにやり放題さ!」

論理くんはそう言うと、いきなり茶箪笥の上の電話帳を手に取る。そして、それで思いきりお母さんの頭を殴りつけた。

「ちょっと!何するの!」

「大丈夫だよ!」

論理くんは荒っぽくそう言って、もう一発電話帳でお母さんを殴った。

「やめなさいったら!」

私は電話帳をひったくった。

「池田さんも、どう?俺は、こいつがだんまりモードに入ったらよくこうやって遊んでるよ」

「バカなことしないの!お母さんでしょ!今度からはしないこと!いいね!」

「そんなに堅っ苦しくならなくていいのに。じゃあ、俺の部屋に行こうか」

論理くんと私は居間から出た。振り返ってお母さんを見ると、今にも泣き出しそうな感じに見えた。はぁ…なんとかならないかなぁ…。この家庭は、もう随分と時計の針が狂っているようだった。私たちは階段を登り、論理くんの部屋に行く。試験勉強をしたとき以来の論理くんの部屋だ。

「さぁ、入って」

「お邪魔しまーす」

論理くんの部屋に入る。机も、箪笥も、オーディオも、落ち着いた色合いで男の子らしい。それにしても、どこにも埃一つ積もってないし、塵一つ落ちていない。

「論理くんの部屋、いつもきれいだね。自分で掃除するんでしょ?」

論理くんは、私にそう聞かれると、恥ずかしげに顔を伏せた。

「いや…。俺が学校に行っている間、毎朝親父が掃除してくれる」

「そうなんだぁ。論理くん、たまには自分でしなきゃねぇ」

私は、おどけた感じでそう言った。

「親父に頼りっぱなしなんだけど、でも、掃除は親父の趣味でもあるんだ」

「へぇ、すごいね。なかなかいないよね、そういう人」

「あちこちに、檜の柱が見えるだろ?妙にピカピカしてるって思わないか?これ、親父が毎朝丁寧にワックスがけしてるんだよ。あっちの座敷とかに行くと、実に様々なものがかっちり揃えて置かれてる。そうやって、物事をきれいにかっちり揃えておくのが、親父の好みなんだ」

「ふーん。じゃあ、論理くんの、かっちり揃ったおかっぱ好みも、お父さん譲りなんだね」

「うん、自分でもそう思う。それは、親父の血を引いた点だ。数少ない…」

論理くんは唇を引き結んで、無念そうに視線を伏せている。

「数少ないってことは…あとは、お母さん譲り?」

「あのババアに、似たくないのに似ているという点が多すぎる。髪の毛とか」

髪の毛…。論理くんの髪の毛は、細くて、量が少なくて、そして強いくせ毛だ。確かに、論理くんのお母さんもそんな髪の毛だったと思う。

「同じ坊ちゃん刈りをするにしても、髪がストレートで、うなじからの刈り上げと、頭のてっぺんから長く伸びた部分とが、かっちり対比してるほうがいい。父方のほうは、池田さんのようなストレートばっかりだ。そっちに似たらよかったのに」

論理くんはそう言って、憎々しげに自分の髪を掻きむしった。

「私は、論理くんのくせ毛、いいと思うけど」

「そう?」

「というか、論理くんなら、なんだっていい」

だけど私がそう言っても、論理くんは顔を晴らすことなく、苛立たしげに「はあああっ」と肩を上げて、乱暴に息を吸った。

「池田さんがそう言ってくれるのは嬉しいけれど、髪の毛にしても、この小太りな体型にしても、この捻くれた理屈っぽい性格にしても、なんにしてもこの、俺の存在の隅から隅までやつが生きてる気がして、どうにもならない。父方の血を引いてたら、こんなことにはなっていなかったよ」

論理くんは、忌々しげに自分の体のあちこちを見る。ここで、私が何か言えることはないかと考えるけど、何を言っても、論理くんは受け入れてくれないような気がした。私は、顔はお母さん似だ。私はお母さんが好きだから、別に似ていて嫌に思うことはないけれど、もし私がお母さんのことが嫌いだったら、論理くんみたいに自分の顔や体を嫌うことになるのかもしれない。そうすると、ますます自分のことが嫌いになってしまう。悲しい。

「でもね、論理くんは嫌いかもしれないけど、私は、世界でいちばん、論理くんの顔が大好きだよ。それだけは、覚えていてね」

「ありがとう、池田さん。こんな俺を、認めてくれるのは池田さんだけだ。この忌まわしい家にいると、なおさらそれが実感できる」

論理くんは、私の背後に立つと、両腕を伸ばし私の胸を抱いた。そして、口を私の左耳に寄せて、熱く囁いてくれる。

「池田さん、大好き」

両腕に力がこもる。

「論理くん、大好き」

私は、両手を論理くんの腕に添えた。しばらく私たちは言葉もなくそうしていたけど、いきなり階下で、ゴトッという音が聞こえた気がした。

「なに⁉︎」

私は、体を固くする。論理くんも息を殺して、下の様子を伺っていた。どれくらいそうしていたかわからないけど、論理くんは、やがて腕の力を緩めた。

「多分大丈夫だな。よその家の物音だろう。もしあいつだったら、騒がしくこっちを呼ぶだろうからな」

「大丈夫なのかな…」

私は、まだ論理くんの腕に縋っていた。この家では、おちおち安心して論理くんと抱き合ってもいられない。


「論理!降りてらっしゃい!」

それから一時間くらいして、お母さんはだんまりモードが終わったのか、下から鋭い声で、論理くんを呼んだ。

「しょうがない、行くぞ」

論理くんは私の手を引いて、階段を降りて行く。居間に出ると、そこには、大量のあられがふりまかれていた。

「論理くん」

お母さんが、さっきとは打って変わったような声で、論理くんに縋る。

「お母さん、あられをこぼしちゃったの。ちょっと片付けてくれない?」

論理くんは黙って、床一面に散らばったあられを手でかき集めていく。私もあとに続いた。

「まぁ論理くん、そこのお嬢さんはだぁれ?よその人にやってもらうわけにはいかないわ。さっさと帰ってもらいなさい」

論理くんは、私に、「続けて」と、目配せをする。私たちは、あられを集め続けた。

「帰ってもらいなさいと言ってるでしょ?」

黙って私たちは続ける。

「帰ってもらいなさい」

黙って私たちは続ける。

「帰ってもらいなさいと言ってるでしょう‼︎」

私に向かって、灰皿が飛んできた。一瞬、論理くんがそれをはたき落したので、灰皿は私に当たらずに済んだ。論理くんは、怒りを全身にみなぎらせて、灰皿を取り上げると、それをお母さんの額に何度も当てながら、憎々しげにこう言った。

「う・る・さ・い・だ・ま・れ・わ・か・っ・た・か!」

論理くんが一文字言うたびに、灰皿に残っていた灰が、お母さんの顔にかかる。お母さんも、論理くんも、やることがえげつない…。私、こんな家に三日間もいたら、私も侵食されて、私も何やるかわからないよ…。はぁ…帰りたい…。私たちは、床のあられをかき集めてもとの袋に入れる。でもあられには、埃や髪の毛、さっきの煙草の灰が混ざっていて、とても食べられるものではない。

「論理くん、これ、捨てたほうがいいんじゃ…」

「いや、お母さんは、俺が食べ物を粗末にすると、俺の髪を引っつかんで叱った。それだけのことをした人なんだから、このあられは、この人にいちばん相応しいだろう」

その論理くんの言葉を聞きながら、お母さんは、顔を真っ赤にしていたけど、私は論理くんに促されるまま、二階の部屋に引き上げた。

「ふぅ」

と、私は息を吐き、論理くんの胸に身を任せる。

「論理くん、あのお母さんとずっと暮らしてて、よくおかしくならないね。私、もう、少しおかしくなりそうかも」

「きっともう、俺もおかしくなっているんじゃないかな。毎日毎日、おかしいのが少しずつ重なって、大人になったときに、ドカンといくのかもしれない」

「そっか…。でももし論理くんがおかしくなっても、私、そばにいるからね」

「ありがとう」

そう言って、私たちが抱き合おうとした瞬間、

「論理!聞こえないの⁉︎」

と、声が聞こえた。

「さぁまた、お呼ばれだ」

私たちは居間に降りて行く。床にはまた、さっきのあられ。私は唖然とした。やっぱりわざとやってるのか…。

「論理くん」

子犬のような声を出すのは、この人は上手だと思う。

「またあられをこぼしちゃったの。拾ってくれない?」

私たちは黙って、あられを拾い始めた。

「どうして論理くんだけじゃないのかな」

「いい加減にしろよ。この三日間、俺たち二人でやるって言わなかったか」

「そんなこと聞いてない。聞いてないよ…」

そう言いながら、お母さんは、脇の大きなゴミ箱を手に取る。あぁ、次はこれが来るのか…。私は、身構えた。

「聞いてないから‼︎」

お母さんはそう言って、ゴミ箱を床にぶちまけた。論理くんは黙ってそれをしばらく見ていたけど、やがて転がっているゴミ箱を手に取り、お母さんの頭に被せてしまった。お母さんもお母さんで、黙ってそうされている。論理くんとお母さんの関係性ってなんだろう…。少なくとも、今私が見ている限りでは、親子には絶対見えない。私たちは、また何分もかかって、あられと髪の毛と埃とゴミを、袋の中に詰めた。

「池田さん、行くよ」

私たちは再び二階に引き返す。でも、私たちが論理くんの部屋に入ろうとした瞬間、

「論理!降りてらっしゃい!」

またかぁぁぁ…いい加減にしてくれ。それで、またあられをこぼしているんでしょう。お母さん、それでもあなた親ですか。親じゃない、子どもだよ。どうやって生きてきたら、そんな性格になるんだか。論理くんもかわいそうに…。

「論理くん、もう行かなくていいんじゃない?」

「そうだな。このステージについては、これが最後でもいいと思う」

「ステージって…。まだ、いくつもあるんだよね」

「うん、まだ序の口だ」

「はぁ…」

早くも限界が近い。池田桃太郎退散寸前。

「論理!なにやってるの!」

私たちは足早に階段を降りる。居間に行くと、三度、あられが散らばっている。論理くんの拳が、固く握り締められて震えている。

「論理くん、あられ…」

「食べたいんだよな?食べたいけどこぼれちゃうんだろ?それなら、俺たちが食べさせてやるよ」

論理くんはそう言うと、恐ろしい素早さでお母さんの背後に回り、その口をこじ開けてしまう。

「おんい!あいふふの‼︎」

「池田さん!今のうちに、そこら辺からあられを拾ってこいつの口に押し込め!できたら埃がいっぱい付いたやつ!」

「えっ⁉︎」

論理くんは、私に残酷な選択肢を与えた。やるか、やらないか。やってやりたい…気持ちもあるけど、そんなことしたらダメだよ…。そんなこと、できない!

「論理くん!お母さんの口から手を離して!」

「だめだ!こういうのは、最初が肝心だ!舐められてたまるか!池田さん、早く!そこの虫の死んだのが入ってるやつでいい!」

「おんい!いいはへんひひほひははひ‼︎」

「そんな荒いことをしちゃダメ!話し合いで解決しよ!お母さんもきっとわかってくれるよ!」

わかってくれるとは到底思わないけど、埃まみれのあられを食べさせるなんてできないよ。

「くそっ!」

論理くんはお母さんの口から手を離し、あられを踏みしめて、私の隣に戻ってきた。そして、荒々しく肩で息を吸い込み、お母さんに厳然と言い渡す。

「いいか、こういう優しい子なんだよ、池田さんは。その池田さんの世話になるんだ。少なくとも、絵美の世話になるより何十倍もいいと思うがな。わかったら、馬鹿げた駄々をこねずに大人しくしていろ。何度も言うけど、池田さんを困らせたり、泣かせたりしたら、お母さんと言えども容赦はしない。わかったか!」

論理くんは厳然としてお母さんにそう告げると、私の手を取って二階の部屋に戻ってきた。


夕方近くになって、外は雨風が強くなり始めた。窓を覆う鎧戸が、一層激しく鳴っている。台風がさらに近づいてきているのが肌身でわかった。

「ねぇ論理くん、ご飯どうする?台風が近づいてきてるから、何か買いに行くなら早くしたほうがいいと思うけど」

「そうだね。じゃあ悪いけど、池田さん、適当に買ってきてくれない?俺はここでやつの番をしている」

「わかった。何食べたい?」

「この前みたいに、カレーが食べたい。池田さんのカレー、おいしかった」

「ありがとう。じゃあ、今日はカレーだね」

「家の前の道を右に折れて、交差点を左に行って、しばらく行くとスーパーがある。そこで買うといいよ」

「ありがと。じゃあ行ってくるね」

私たちは、二人で一階に行った。論理くんは、居間のお母さんをひと睨みして、私を玄関へ送り出した。外に出ると、風雨は強いものの、とんでもない開放感が私を包んだ。はぁ、このまま帰りたいな…。スーパーで軽やかに買い物をして行く。お肉だけは別レジで、お肉屋さんの店頭で必要なお肉を買った。すると、お肉屋さんのおばさんが、怪訝な顔をしてこんなことを言う。

「あんた、見ない顔だね。この辺の子?」

「いえ、今日は、その…彼氏さんの家に来てます」

おばさんは、それを聞くと、にこにこと笑う。

「あんた、太田さんとこの論理くんと、仲良くしてる子でしょ。もうこの辺じゃいい噂だよ」

「えっ!そ、そうなんですか…」

噂って怖い…。どんな噂になってるんだろ…。

「でもね、最初あんた見たら、絵美ちゃんかと思ったよ。もう絵美ちゃんもいい大人だろうに、私も年だねぇ」

「え!似てるんですか?」

絵美ちゃんって、論理くんのお姉さんだよね…。

「いやぁ、それほどでもないさ。いやね、ちょっと思い出しちゃったこともあってね」

「何をですか?」

おばさんはちょっと遠い目をして、昔の記憶を思い返す様子だった。

「もうずっと昔にさ、絵美ちゃんの実の母親、昌子(まさこ)さんって言ったっけね、その昌子さんと、聡美(さとみ)さんと、絵美ちゃんの三人で、ここに買い物に来たのさ。そのとき私、何気なく『娘さん、大きくなったね』って言ったの。そうしたら昌子さん、いきなり、『これは、うちんとこの娘だよ!うちんとこの!』って叫ぶでしょ。私何言っていいかわからなくてね。聡美さん、えらく悔しそうな顔をしてたわ。昌子さん、帰り際にまた、『うちんとこ、うちんとこ』って繰り返して言ったしね。絵美ちゃんがもらわれっ子ってことはみんな知ってるから、そんなに繰り返さなくていいのに、って思ったもんだよ」

聡美さんって、論理くんのお母さんだよね。論理くんのお母さん、昔は歩けてたんだ。それにしても、みんな気性が荒いなぁ…。

「その頃のお母さんって、歩けてたんですね」

「そうだね。あれは、絵美ちゃんがまだ小学生だったから、聡美さん、あの頃はピンピンしてたよ。具合が悪くなり始めたのは、やっぱり、論理くんを産んでからだね。あんたの前でこんなことをいうのもなんだけど、店に来るたんびに聡美さんに、『子どもはやめておいたら。リウマチが悪くなるよ』とは言ったんだけどね。どうしても産むって、頑固で…」

そうだったんだ…。じゃあ、論理くんを産まなければ、お母さんは今でも元気に歩けてたってことなんだ…。自分の体と引き換えに論理くんを産んだってことだよね…。そりゃあ、論理くんのこと、大事すぎて独り占めしたくもなるかもしれない…。

「いやぁ、立ち話しちゃったね。はい、ビーフ三百グラム。仲良くおやりなさいよ」

「ありがとうございます」

私は、お肉を受け取って買い物を続けた。「具合が悪くなり始めたのは、やっぱり、論理くんを産んでからだね」あのおばさんの言葉が少し私には刺激が強くて、いつまでも頭の中に、フライパンの油のようにこびりついていた。


「ただいま戻りました」

アコーディオンカーテンの扉をガチャガチャと開ける。すると、やっぱり論理くんがあぐらをかいていた。

「ありがとう。台所はこっちだから」

論理くんは、袋いっぱいの材料を持ってくれて、台所まで運んでくれる。さぁ、おいしいカレーを作るぞ。でも──。

「論理!こっちいらっしゃい!」

「池田さん、台所でカレー作っていて。俺は、ババアをなんとかしてる」

論理くんは、私の肩を軽く叩いて居間に入っていった。居間からは、

「何やってるの!うだうだと!ちょっと汗をかいたから体を拭って!」

という声が聞こえてきた。私は、論理くんが気がかりだったけど、とりあえずお料理に取り掛かることにした。材料を切り終えて炒め始めたとき、論理くんが戻ってきてくれた。汗をびっしょりかいている。

「ごめんごめん。手伝うよ」

「いいよ、私一人でやるよ。論理くん、汗びっしょりだけど大丈夫?」

「あれでも、結構大柄だからな。体を全部拭うとなると、一苦労だ。親父は、毎晩あんなのを風呂に入れて、体を洗ってやっているんだから、偉いものだと思う」

「ねぇ、論理くん。当然お母さん、お風呂は今日も入るんだよね」

「あぁ、そうだな。まぁ、俺が入れてやることになると思う。うちゃうちゃ抜かしたら、風呂抜きで放っておけばいい」

論理くんは、いつもお母さんのことを言うときのように、怖い顔をしてそう言った。お母さん、自分を犠牲にして産んだ子どもにこんな顔されちゃあ、たまったもんじゃないよね。

「論理くん。もう少しお母さんのこと、大事にしてあげて。お母さん、論理くんと引き換えに、リウマチが悪くなったんでしょ」

論理くんは、私のその言葉を聞くと、不思議そうな顔をした。

「池田さん。その話、俺、池田さんにしたっけ?」

私は、さっきお肉屋さんのおばさんから聞いた話をした。論理くんは、小さく手を打った。

「あぁ、あのお肉屋さんか。ババアから何度聞かされたか知らない。まぁ、昌子おばさまも昌子おばさまだが、そんなことをおばさまにしゃべらせる理由がババア側にもあったんだろう。それに、自分の体を引き換えにしたと言うけど、結局俺の出産は、あいつのわがままだ。あの時点で、誰も得にならないことをしている」

「誰も得にならないって?」

論理くんは、怖い顔をし続けたまま、さらに言い継いだ。「はああっ」という、私の好きなブレス音を何度も聞かせながら。

「俺を身ごもる前にも、ババアはリウマチの治療剤を山ほど処方されていた。だから俺の妊娠が明らかになったとき、ババアの主治医は、『五体満足な子どもは絶対に生まれない』と、太鼓判を押していた。そしてまた、出産の負担で、リウマチが一気に進むことも確実視されていた。その一方で、あの養女の立場が宙ぶらりんになる。出産を強行するメリットはどこにもなかった」

論理くんは、淡々と、でもどこか寂しげにそう語る。

「そんな…。論理くんが、生まれなかったほうがよかったなんて…」

私は唇を噛みながら、一リットルの水を鍋に注ぎ込んだ。少し火を強めて、煮立って来るのを待つ。

「じゃあ、論理くんは、生まれてこなかったほうがいいと思う?」

「池田さんと出会うまで、本気でそう思っていた。俺は、やつのわがままの産物にすぎないってね」

そんなことを思う論理くんの胸の内が、私には計り知れないけど、きっとものすごくつらいんだと思う。私は、自分が生まれてこなかったほうがいいなんて思ったことはない。

「どうしてお母さんは、そんなにまでして論理くんを産んだんだろう?」

「あいつにそう聞けば、ただ一言、『産みたかったからさ』って言うだろう。母親にとって実の子どもを残すということは、自分の存在を証明することだと俺は思う。やつは、証明したい欲求に負けて、下手をすれば母子ともに障害者となり、養女の立場は宙ぶらりんという、三重苦に手を出そうとした。馬鹿な話だよ」

論理くんは蔑意を露わにして、首を軽く横に振った。

「うーん、私たちにはわからない、何かお母さんの強い意志があったんだと思うけどなぁ」

「そんな意志なんて、わからないしわかる必要もない。煮立ってるよ。アク取らなきゃ」

「う、うん…」

私は、お玉を取り出して、まるで私の頭の中のようにモヤモヤとしたアクを掬った。コトコトと煮立てていくうちに、論理くんは三回お母さんに呼ばれた。カレーができたとき、時計は六時を指していた。鎧戸が一層ガタガタと鳴り、ビル風の音が、ウィンウィンと不気味に響く。台風がいよいよ近づいていた。


論理くんと二人で、居間に行く。

「お母さん、ご飯できたよ。食べよう」

「ご飯?何作ったの」

「カレーだよ」

お母さんはそう聞くと、また目を見開いて怒った。

「誰がカレーでいいと言ったの!まず私のところに聞きに来るのが道理でしょう!」

「それは悪かった。しかしこちらにも、作れるもののあるなしがある。今日はこれを食べてくれ」

「あんたね…」

お母さんは、論理くんを荒い息遣いで睨みつける。でも、こんなときにもお母さんは、私を完全無視していた。

「調子に乗るのもいい加減にしなさいよ!あんたは最近、お母さんをお母さんとも思わなくなってきている。誰のせいかは言わなくてもわかるけどね!」

お母さんはこのとき初めて、私のほうをちらりと見た。それが少し嬉しかった。

「一度論理にはきついお灸を…」

「御託はそれくらいにしとけ。カレーが冷める。お母さんがどう言おうと、今この家の中にある食べ物はカレーしかない。食べたくないならそれでいいから、俺たちは勝手に食べる。一人で腹を空かせておけ」

「なにをっ‼︎」

「どうするんだ。食べるのか、食べないのか」

二人は、かなり長い間睨み合った。

「……お皿並べなさい」

私たちはうなづき合って、食事の準備をした。お母さん、私のカレー気に入ってくれるといいな…。それがきっかけで、お母さんと話ができるようになれればいいな…。支度が終わって、カレーが三皿、あり合わせの副菜と一緒に食卓に並べられた。

「池田さん。おいしそうだね、ありがとう」

論理くんが、お母さんに対するときとは露骨に違うトーンで、私にお礼を言う。それは嬉しかったけど、食卓の向こうから、お母さんが火のような目で論理くんを睨んでいるのが怖い。

「それじゃあ池田さん、いただきます」

「ありがとう。いただきます」

「………………」

私は、自分のカレーを食べる前にお母さんをチラッと見た。お母さんは、動きにくい両手でなんとかスプーンを操り、カレーを自分の口に運んでくれている。よかった…食べてくれるみたい。しばらく三人で黙々とカレーを食べていたけど、お母さんが半分くらい食べたところでスプーンをコトリと置いて、怒った口調で言う。

「玉ねぎが固い!」

私はハッとして、頭を下げた。

「すみません!」

「玉ねぎなんていうのはちょっとでも炒めればすぐしんなりする。それなのにこんな芯があるなんて、どれだけ雑なことをしてるの!」

怖い…。でも、そんなに固いかな…。

「おい、玉ねぎ全然変じゃないぞ。おかしなこと言ってるなよ!」

「論理は何も言わなくていい!あんたに料理の何がわかるの!こんな青々とした玉ねぎ、聞いたこともない!」

「すみません…」

ちょっと泣きそうになってきた。やっぱり、このお母さん怖いよぉ…。

「さっきから聞いていれば、すみませんすみませんと…。すみませんで済むこととすまないことがあるの、知らないの⁉︎」

「す、あ、…ご、ごめんなさいっ!」

「謝れば済むってもんじゃないでしょうっっっ‼︎」

お母さんは鬼になって怒鳴り、やにわにスプーンを取り出すと、自分のカレーの皿をスプーンで思い切りひっくり返した。皿が割れて、カレーが食卓に散乱する。今まで積み上げてきた、お母さんへの想いという砂の城が一気に崩れ落ちた。どうしようもない嗚咽が突き上がってきて、涙腺のダムが破壊された。

「うえ…えええ…ひっく…ひいいっく…ええええええええええんっ‼︎す、すはあああっ‼︎うえええええ…ええええ…えええええんっ‼︎」

激しく泣き出した私の脇で、論理くんがスッと立ち上がる。手には、何故か自分のカレー皿。

「そうか。口で食べるのがそんなに嫌か。だったこうして食べたらどうだ‼︎」

論理くんはそう言って、自分のカレーをお母さんの頭の上にひっくり返した。

「論理くん!論理くん!熱い!熱い!何をするの!」

「うるせえっ‼︎お前なんかには、こうするのがいちばんお似合いなんだ!」

論理くんはそう言って、なお、お皿をお母さんの頭や顔に塗りつける。

「もう一度池田さんを泣かしたら…世界でいちばん大切な人をもう一度泣かしたら…これだけでは済まないぞ!わかったかっっっ‼︎」

論理くんは、お皿を頭に乗せたままのお母さんを放っておいて、まだしゃくりあげている私の腕を取った。

「池田さん、俺の部屋に行こう」

「ひっく、うん…」

私たちは力無く、論理くんの部屋に戻ってきた。

「もう嫌だ…帰りたい…。っく…ひっく…あのババア、もはや人間じゃない!」

あのババアとわかり合うには、私も鬼じゃなきゃいけないわ。

「ここまでやりやがるとは思わなかったな…」

「私も一発ぶん殴りたい」

「池田さん…」

論理くんは、急に寂しそうな顔をした。

「帰る?電話してもいいよ。あとは俺一人でなんとかできるから」

「……帰りたい。帰りたいけど…論理くんのこと放っておけないよ」

「やつはあの通り、池田さんの手におえるもんじゃない。この先池田さんにまた何かやってくるだろう。そんなことになったら、俺はもうあのババアを、バットで殴り殺さなきゃいけないかもしれない」

論理くんが、再び顔に激しい怒りを燃え立たせる。

「そんなことするなら、余計私帰れないよ…」

私たちは何も言えずに沈黙した。重苦しい静寂と、激しい雨の音と、吹き抜ける風の音だけが、その場をしばらく支配した。なんかいい方法ないかな…。私は頭を巡らすけれど、何も浮かんではこなかった。

「論理!降りてらっしゃい!」

お母さんのヒステリックな声がまた聞こえてくる。はぁ、邪魔だなぁ。

「あの野郎…」

論理くんが拳を握る。私たち二人は、居間に出た。踏みしだかれたあられと、ゴミと、埃が散乱した床に、小太りなお母さんが、どかんと座っている。変に色が白いから白豚みたい。その白豚が、頭にカレーをてんこ盛りにして、そのカレーが顔にまで垂れてきている。床の上にはお皿がひっくり返っている。恐怖の中でも、私は、ププッと笑いそうになってしまった。

「洗って!」

「何を?」

論理くんが、平然と答えて、お母さんを挑発する。

「決まっているでしょう!私をお風呂に入れるの!」

「ふーん。じゃあ今から、お風呂沸かすわ」

カレーで汚れたお母さんの顔が、意地悪く歪む。

「それからね、私を洗うのは、そこのお嬢さんにお願いしようかしら」

え⁉︎私ですか⁉︎

「なんだとっ‼︎」

論理くんが思わず一歩前に出る。

「お母さんを風呂に入れるなんて、親父がやっとの思いでしてるくらいじゃないか。そんな力仕事を、華奢な池田さんにできるわけないだろ!なに悪巧みしてるんだ!あんたは俺が風呂に入れる!」

「いえいえ、私は女どうしでぜひ、お風呂を楽しみたいだけですのよ」

お母さんが気持ちの悪い口調で、私たちを弄ぶ。あの電話のときの、「元気にしておられましゅか」を、思い出す。

「ふざけたこと言ってるな!どうせまた風呂で池田さんに、無理難題をふっかけて泣かすつもりなんだろ!」

お母さんをお風呂に入れるなんて、私できるのかな…。というか、やりたくないけど、裸の付き合いで、もしかしたらお母さんと分かり合えるかもしれない…。

「いいよ、論理くん。私やるよ」

私は、果敢にそう言った。でも、その声はどこか震えていた。

「池田さん!」

論理くんが叫ぶ。

「こんなやつの術中に、はまりに行くことなんてない!」

「こんなやつだって⁉︎論理、なに言ってるの!あんたはもう…!」

論理くんは、構わず続けた。

「こいつがどう言おうと、風呂は俺が入れる。池田さんは俺の部屋で避難していてくれ」

「大丈夫だよ!私、やれるから」

私は、論理くんの目を見据えて言う。

「池田さん!」

「あらあらあら。論理、威勢だけはいいのね。あんた、お母さんの前でなんて言ったの。この小娘を、世界でいちばん大切な人と、のたまわったわね。世界でいちばん大切な人だと言うのなら、その、世界でいちばん大切な人の言うことが聞けないの?なんて論理的なんでしょう」

「くっ…!」

論理くんは、お母さんにやり込められて言い返せない。その論理くんの手を取って、私はうなづいてみせた。論理くんは、しかたなくお風呂場にガスを付けに行った。お風呂が沸く二十分くらいの間、私たちは論理くんの部屋に避難していた。

「さっきは威勢のいいこと言ったけど、お母さんと二人きりでお風呂だなんて、やっぱり怖いよぉ」

「池田さん。本当に嫌だったら、嫌だと言ってくれていいんだよ。やつは絶対に池田さんに嫌がらせをしてくるから、普通のお風呂でないことはもう間違いない」

「嫌だけど、でも、お母さんと仲良くなるチャンスかもしれないから、私がんばる!」

私は両手で拳を作り、ガッツポーズをした。

「うふふふふ」

論理くんは笑った。悲しげに、寂しげに、おかしげに。

「池田さんらしいな。でも、その優しさに決して値しない人間もいるんだよ。まぁいい、もうすぐ風呂が沸く。俺は、風呂の扉のところでがんばっていて、中から変な会話が聞こえてきたらすぐに飛び込んでやるつもりでいる」

「ありがとう。そのときはまた私を守ってね」

「もちろんだ!よし、早めに居間に降りて控えていよう。池田さん、俺がこんなこと言えた立場じゃないけど、がんばってね」

待ってろ、鬼ババア。絶対にあんたの思い通りにはならない!負けないぞ!雨風が強く鎧戸を打ち付ける。決戦の場に相応しい雰囲気になってきた。居間に行くと、お母さんは相変わらずカレーを頭にかぶったまま、傲然と座っていた。

「沸いたぞ」

と、論理くんが言っても、ジロリとこちらを睨むだけで応えない。本当にこの人たちは親子なのだろうか。血の繋がった論理くんともこれなんだから、まして、養女のお姉さんとの間はどんな状態なんだろう。論理くんは、カレーでベトベトになったお母さんのシャツを、自分が汚れないように注意深く脱がせる。

「そんな、ゴキブリを見るような目で見ないでちょうだい。論理、忘れちゃったの?お母さんだよ。また一緒に寝よ。昔話聞かせてあげるから」

論理くんは何も言わずに、お母さんの服を脱がせていく。でもその顔には、悲しげなような、寂しげなような表情が浮かんでいる。論理くん、なに思ってるんだろう。

「論理くん、服脱がせてくれてありがとうね。論理くんがいるから、お母さん生きていけるよ。論理くんも、お母さんがいるから生きていけるんでしょ?何をそんな小娘に騙されているの。論理くんの、世界でいちばん大事な人は、お母さん。お母さんしかいないわね」

お母さんは猫なで声で論理くんに語る。馬鹿め。論理くんの世界でいちばん大切な人は、私ですから!でも論理くんは、おろおろとし始めた。

「あ…お母さん…ごめんなさい…」

論理くんは、悲しそうに、申し訳なさそうに、顔を歪めながら、お母さんの肩を摩る。え…論理くん、どうしちゃったの?まさか、私より、その鬼ババアを取るの?

「論理くん?」

私は不安になって、論理くんの肩を揺する。

「え?」

論理くんは、そう言って顔を上げてくれたけど、どこか上の空だった。

「論理くんどうしちゃったの?論理くん!」

私は、強く肩を揺する。論理くんの目に、ようやく焦点が戻ってきた。

「すまない…。ああいう声を出されると、まだ弱いんだ…」

論理くんは、憑き物を落とすように顔を強く振った。論理くん…そんな弱々しいこと言わないでよ。頼りないよ。論理くんが、すぐにでもお母さんのもとへ走ってしまいそうで、私は怖くなった。

「まぁいい、これで、服脱がせた。こいつを風呂まで連れていくぞ」

論理くんはそう言うと、お母さんを持ち上げようとした。

「あんたじゃない!そこのお嬢さんだ!」

「なんだと!」

「聞こえなかった?そこの小娘が、私を風呂に連れていくの!」

お母さんはまるで、メデューサのような目で私を睨みつけた。目を合わせてしまったから、私はもう石になっているだろう。怖い…でも、できるかわからないけど、やるしかない!

「はい、お母さん、お風呂に行きましょう」

私は、恐る恐るお母さんの両脇の下に腕を入れ、足に渾身の力を入れて、持ち上げようとした。重い…!たまらず、一旦降ろしてしまった。

「はぁっ、すはああっ、はぁっ…」

「たわけ!なにしてるの!」

お母さんは私を怒鳴りつけた。なにしてるのって、あんた重すぎ!こんなの持ち上げられないよ。私は、それでも何度もお母さんを降ろしながら、お風呂場の前まで運んだ。

「好き勝手やりやがって。いいか、俺はここで番をしている。池田さんの様子が少しでもおかしかったら、すぐに突入するからそのつもりでいろ」

論理くんは怖い顔をして、お風呂の扉を開けながらそう言った。いよいよ、お母さんをお風呂に入れる。

「お母さん。私も服を脱ぎますので、少し待っていてください」

「論理の前で脱ぐのかい」

あっ…。でもお母さんに、もうやるところまでやりましたから。って言ってやりたい…!

「じゃあどうすればいいって言うんだ。言ってみろよ!」

論理くんが、お母さんに向かって怒鳴る。

「……………」

私は服を脱いだ。私は、お母さんの両脇の下に腕を入れて、今まで以上の渾身の力で、お母さんを持ち上げる。でもお母さんは、お尻の辺りに力を入れていて、実際の体重以上に重くなっている。この野郎…!少しは協力しろよ!私がその気になれば、お前なんかめっためたにできるんだから!今でも蹴りつけたくてしかたがない!それでもなんとか、お母さんをお風呂場に入れて、論理くんがすごく不安そうな顔をしながら、お風呂場の扉を閉めた。

「そうね、まず、頭を洗ってもらおうかしら。誰かのせいですっかり汚れてしまったから」

誰かって…私のせいだって言うの?お前がカレーをぶちまけたから自業自得だろ。でも私は、満面の作り笑顔でこう言う。

「はい、わかりました」

まず、シャワーでカレーを洗い流す。そのあとシャンプーを付けて洗うのだけれど、カレーの油分がまとわりついていて、なかなか泡立たない。シャンプーを足したりして、力を込めて洗った。これだけでも、つらい労働になる。どうにか洗えたかと思ってシャワーで流してみると、ぬるぬるがまだまだたっぷり残っていた。

「まだ落ちきれなかったので、もう一度洗いますね」

「……………」

何か言えババア。そうでなくても、論理くんのぶちまけたカレーを自分たちで後始末しろと言われてるみたいで面白くないのに。私は、もう一度シャンプーをかけて、力を入れながら長いこと洗った。

「あぁ、首が痛い。肩が痛い。もういい加減にして」

「あ、すみません、もう流します」

大丈夫かなと思ったけど、もう洗いあがっていそうだからいいかとも思った。そして、お母さんを浴槽に入れる。浴槽は、床よりも二十センチくらい高くなっている。つまり、その分余計に力がいるということだ。私は、お母さんの両脇に腕を入れて、力の限り持ち上げる。もう、腰が悲鳴を上げている。腕の力も使って、必死に浴槽の高さまで持ち上げ、お母さんをお湯の水面の上まで持っていく。この辺りは、腕の力だけが頼り。腕も、肩も、ちぎれそうに痛い。

「じゃあ…じゃあ…入れ…ます…よ…っ…!」

「……………」

私はお母さんの体を、力を込めながら、そっとお湯につけた。

「熱いっっっ‼︎」

お母さんの怒号。私はハッとした。

「あっ!す…っ…すみません!」

私は、悲鳴をあげる私の腕と肩を叱咤して、再び全力でお母さんを床の上に戻した。

「なにやってるの!いつもの温度設定じゃない!本当に馬鹿は使えないねぇ!早く風呂に水を入れなさい!」

そのとき論理くんが、外から怒鳴りつける。

「おいっ!俺何もいじってないぞ!熱いふりをして何池田さんいじめてるんだ!承知しないぞ!」

お母さんは、忌々しげに扉の外を見た。

「しょうがないわね。入れてちょうだい」

私は全身に疲れを満たしていた。折から、台風が運んできた蒸し暑い空気のせいもあって、汗が、もうどうしようもないくらい噴き出している。でもこれ、まだまだ始まったばかりなんだよね。私は、改めて覚悟を決めて、お母さんを持ち上げた。今度は、お母さんは何も言わずに湯船に沈んでいった。

「ふぅ…」

私は、思わずため息をついてしまう。あ、やばい、と思った瞬間、

「あーら、随分お疲れでいらっしゃるのねぇ」

お母さんの嫌味が飛んできた。私はさすがにムッとしたけれど、それは顔には出さない。私もやられてばかりじゃないぞ!

「お母さん。お母さんは、論理くんを溺愛しているみたいですが…」

「溺愛⁉︎あなた言葉の意味わかって言ってるの?少しは口を慎みなさい」

「論理くんのどこが、自慢なんですか?」

「そんなことをお答えする筋合いはありませんわ。あなたなんかに」

ちっ。まぁ、いい。まだまだこれからだ。

「論理くんは小さい頃、どんなお子さんだったんですか?」

「同じことを二度言わせないでくださる?」

うーん、どこまで言ったらこの人はキレるかな…。よし、もう少し続けてみよう。

「論理くんに、将来どんな人になってもらいたいですか?」

「減らず口を叩く間に、そろそろ上げてくださらない?」

お母さんは、私の質問に少しも答えることなく、もう終わらせようとしてきた。このババア…。もし、私がここでこのババアを湯船から上げなかったら、このババアはどうなるだろうか…。私の心に、邪悪な衝動が走った。

「お母さん、もう少し温まれたほうがよろしいかと思いますよ」

「何を言ってるの!あんたは余計なことは言わず、上げてと言われれば上げていればいいんだ!」

お母さんは怒りをむき出しにして、私に食ってかかる。調子乗ってんじゃないよ、ババア。

「いえいえ、体の芯まで温まらなければいけないです。私は待ってますから、どうぞごゆっくり」

私は、満面の笑みを浮かべる。なんだか楽しくなってきた。

「あんたね…なに考えてんの…」

お母さんの顔に、怒りと同時に恐怖が浮かんだ。ざまあみろババア。ビビってんじゃねぇ。

「いえいえ、私は、お母さんのためを思って言ってるんです。何もお気になさらず」

「いかん!のぼせてしまう!論理!論理!この娘が!この娘がぁっ!」

ドアが開いて、論理くんがやってきた。外で会話を全部聞いていて、状況を了解している。

「お母さん、夏風邪をひきやすい頃だから、池田さんの言う通り、あったまったほうがいいよ。さぁゆっくりゆっくり」

「論理!助けて!お母さん倒れちゃう!」

「いかにお母さんだって、そう簡単に倒れはしないよ。さっきあんなに酷いことをされたって、池田さんもぴんぴんしてるでしょ。それと一緒だよ」

お母さんは、顔が真っ赤になって、呼吸も苦しそうだ。

「そろそろこの辺にしておいたほうがいいんじゃないのかな…本当にのぼせちゃったら厄介だし…」

私は少し心配になって、論理くんに言う。

「いやぁ、お母さんが言ってたように、玉ねぎはしんなりしてなくちゃいけないでしょ。だからお母さんにもしんなりしてもらおうよ」

論理くんは、あくまでも冷徹だった。

「論理!お願い!ここから上げて…お母さん死んじゃうよ…」

「じゃあお母さん、さっきのカレーのこと、池田さんに謝れよ。それならここから上げてやるよ」

「なにをっ⁉︎」

のぼせて、掠れた声ながら、それでもお母さんは息巻いた。

「なんの了解もなくカレーを食べさせられて、それで玉ねぎが固いときているのに、何を私が謝る必要がある!ふざけたことをお言いじゃないよ!」

この人は、自分が死ぬ間際でも自分が悪いとは決して思わないのかな。理解ができないよ。

「ならそこで温まってろ」

しばらく私たちは三人で睨み合った。お母さんの顔はどんどん赤くなり、息遣いも早くなっていく。これは本当にお母さん死んじゃうかもしれない。私は論理くんを、どうするの?と言う目で見る。論理くんは、首を横に振った。振り上げた拳を下ろすことはできないのだろう、論理くんは。

「もういいです。お母さん、上げますね」

「駄目だよ池田さん!しんなりしていないからって泣かされたんじゃないか!しんなりするんだよしんなり!」

「論理!あんたはどこまで変わったの!お母さんのことを痛めつけて、池田さん池田さんって、神様か仏様みたいに!正気に戻りなさい!あんたのお母さんだよ!」

「そのお母さんが悲しい人だからこうなってるんじゃないか。どうしても池田さんに謝らない気か」

お母さんは、のぼせて息も絶え絶えなのに、まだこんなことを言う。

「玉ねぎが固くて、怒ってなにが悪い!謝ったら負けだ!わからんか!」

その顔は真っ赤で、本当に鬼に見えた。お母さんとわかり合うには、どんなアプローチをしても、どんな広告を書いても、どんな洗脳を受けても、無理そうだ。悲しい人…確かにこの人は悲しい人だと思う。論理くんの心の悲しさ、寂しさは、言い知れないだろう。この人の前では、私は無力だ。もう、どうでもいい。

「論理くん、上げてあげよ。もういいよ」

私は、お母さんの体を釣り上げた。お母さんはもう、ゆだってしまって、ものもろくに言えない。

「体を洗うのはいいだろ。このまま居間に連れていけばいい。俺が持ち上げるよ」

あのときのお母さんの言葉通り、しんなりしたお母さんを、論理くんは居間に連れて行く。適当に体を拭い、服を着せる。床のあられをざっと取り除けて、布団を敷く。そして、お母さんを寝かす。時計は九時を指していた。これで、一日目の務めはもう終わりかもしれない。ふと気づくと、外は暴風雨だった。


お母さんはいつのまにか眠っていた。私たちは、心の底から疲れ果てて、論理くんの部屋にふらふらと入り込んだ。

「はぁ…疲れたぁ…」

私は、論理くんの胸に飛び込む。論理くんは、私を優しく抱きとめてくれて、その乱れたおかっぱを撫でてくれた。

「池田さん、すまない。やつのわがままで、池田さんをいっぱい傷つけた」

「いいよいいよ。想定内だし。でも、もうわかり合えるとは思わないかな…」

「あんな人でなしとわかり合う必要はない。あられだのカレーだの、悪意の塊じゃないか」

「どうしてあんな性格になっちゃったんだろうね」

論理くんは、昔のことを思い出すような表情をした。

「やつの母親、すなわち俺の岩下のおばあちゃんだけど、俺の知る限りでは、温和で優しい人だった。でも、実際はそうじゃなかったらしい。やつの思い出話だが、子どもの頃のやつが何かやらかすと、ほうきでぶっ叩かれたらしい。まぁ昔の話だから、珍しいことではないんだけどね」

「そうなんだ…。じゃあ、お母さんにそうやって育てられて、性格が歪んじゃったのかな…」

「性格が歪んだのは、第一にはあのリウマチのせいだろうけど、もともとの下地としてそういうものがあるのだろうと思う」

じゃあ、論理くんもあのお母さんのもとで、今こうやって育てられているから、性格が歪んじゃうのかな…それとももう…。

「論理くんは、自分の性格どう思う?」

「前にも言ったように、俺は世間体なんて大っ嫌いだから、人とは違ったことをやりたがる。そういう点ではひねくれているかもしれない。でもだからと言って、人が丹精込めて作ってくれた料理をひっくり返すなどということは、死んでもしたくない」

どこかの牧師さんが言ってたことを思い出す。そうなりたくないと思っていると、必ずそうなるんだ。お母さんのようになりたくないと思うと、お母さんのようになってしまうって。論理くん、大丈夫なのかな…。

「じゃあ論理くんは自分の子どもに、お母さんのような育て方はしない?」

「もちろんだ。あれに勝る反面教師はいない」

私は、自分の中の不安が大きくなって、それをかき消すように論理くんを強く抱きしめた。

「俺がやつに似ると思うのか?」

論理くんに、心の中を知られたような気がして、私はドキッとした。

「思わないよ」

思う。とは言えなくて、私は、苦手な嘘をつく。

「安心しろ。それは確かに親子だから、影響がまったくないわけじゃないだろう。でも俺は、池田さんもわかっているように、心底この家が嫌なんだ。その家の人間に似るということは、俺のプライドに激しく関わる」

「そっか…。じゃあ、大丈夫だよね」

私は体を回転させて、背中を論理くんの胸に預けた。論理くんの両腕が、私の胸を強く抱きしめる。私は、その両腕に手を添えた。

「池田さん」

「論理くん」

「余計な心配をかけさせてごめんよ。安心してくれ」

「うん。論理くんがそう言うなら、信じるよ」

論理くんは、唇を私のうなじに付けた。かなり長い間私たちはそうして抱き合っていた。一階からの、私たちのつかの間の休息を邪魔する声は、聞こえてこなかった。

「論理くん、私のおかっぱの中身は、論理くんでいっぱいなんだよ」

「そうか」

論理くんの、嬉しそうな声。

「それじゃあ、聞くぞ。この、おかっぱの後ろ頭の中身は?」

私は「すはあああああっ‼︎」と大きく息を吸った。論理くん私の呼吸、感じる?

「論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くん論理くんっっっ!っはぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ…」

私は息が続く限り、論理くんと言い続けた。息が苦しくなるくらい、私のおかっぱの中身は論理くんで満たされている。

「池田さん……そんなに一生懸命に…」

背後から、論理くんの感極まった声が聞こえる。私の胸を抱く腕に、一層力がこもった。

「ありがとう!それ、すごく嬉しい。どうして、そんなに一生懸命にやってくれるの?」

「論理くんが喜んでくれるから!」

「どうして俺が喜ぶことをしてくれるの?」

「論理くんが好きだから!」

「ありがとう!俺も池田さんのこと大好き!」

私たちは固く抱き合った。このまま鬼が起きないことを切に願った。やがて私たちは、お互いの体が酷くベタついていることに気づいた。

「暑いね。もう汗ベトベトだよ」

「たっぷり働かされたし。そろそろお風呂にする?」

「そうだね。じゃあ、論理くん先に入ってきて。お母さん寝てると言っても、二人で入るのは危険でしょ」

「構わないよ。だって池田さんさっき裸にさせられたじゃないか。あんなことしておいて、俺たちが二人で入るも一人で入るもないよ。もし起きてきてごちゃごちゃ言ったら、また風呂に入りたいかって言えばいいんだ」

「大丈夫かなぁ。まぁ、そのときはそのときか。論理くんとお風呂一緒に入りたいし」

私たちは、静かに居間に降りて、お母さんを起こさないようにこっそりとお風呂に入った。敵の懐で入るお風呂だったけど、やっぱり論理くんと入るお風呂は、楽しいし気持ちいい。気がつくと、ずいぶん長湯をしてしまった。一時間以上くらい入っていて、湯から上がると、時計は十一時を指すところだった。お母さんはまだぐっすり眠っていて安心した。このまま永遠に起きないことを望んでしまう悪い私がいた。論理くんの部屋に戻って、裸のまま体を拭いているうちに、論理くんがまた私の後ろに回り込んで、また私を抱きしめた。私の腰には、論理くんの二十センチが、もう高らかにそそり立っている。

「論理くん、いつも元気だね。こんな状況なのに」

私は、苦笑いしてしまう。

「どこにいたって、池田さんは池田さんだから」

論理くんはそう言って、両手の指先で私の乳首を摘んだ。

「あうっ!もう、ダメだよぉ、お母さん起きちゃったらやばいよぉ」

「知ったことか!仮に下から声がかかっても無視していればいい」

論理くんは、私の乳首に一層力を加える。

「あぁうぅっ!そんなの、ダメだよぉ」

私の喘ぎのリズムを合わせて強弱を加えながら、論理くんは私の乳首を扱く。あまり喘ぐと、一階のお母さんに聞こえてしまいそうだったので、私は口に手を当てて、声を抑えた。

「池田さん。声を抑えるとイきにくいよ」

そう言って論理くんは、私の口から手を取り除けてしまう。

「さぁ池田さん、俺のベットで四つん這いになって」

「えぇ、またなの…」

私は渋々、でもどこか嬉しくて、論理くんのベッドに四つん這いになる。私は、論理くんの枕に顔を埋める格好になった。なんだか枕から、論理くんのいい匂いがしてくる。

「論理くん!この枕、いい匂いがする!」

「えーっ!それ、俺の体臭じゃん。恥ずかしい!」

論理くんは、私から枕を取り除けようとする。でも私はそれをすかさず拒否。

「ダメだよ!これは、私が嗅いでるの!」

「うぅ…」

とても恥ずかしそうな顔をしながら、論理くんは私のバックに戻る。

「残念だけど、今日は洗ったばっかりだから、あのいい匂いはあまりしないな」

そう言いつつも、論理くんは、私のお尻を広げて、そこに鼻を当てる。

「うぅ…また、そこ嗅ぐの…?いいよ、私はこっちを嗅いでるから」

私は、論理くんの枕をクンクンする。あぁ、いい匂い。おまんこが熱くなってきた。

「そんなにいいにおいかよ。こっちは全然匂わない。つまらん。でも、このお尻がこんなこと言ってくれたらな」

論理くんはそう言ったあと、私に、「池田さん」と、声をかけた。「論理くん」と応えると、その応えに合わせて、私のお尻の穴を動かす。「愛してるよ」と応えると、またそれに合わせて私のお尻の穴を動かす。「大好きだよ」と応えると、それに合わせて私のお尻の穴を動かす。「ずっと一緒だよ」と応えると、また私のお尻の穴を動かす。

「論理くん、なにやってるの?」

私は、論理くんのやっていることがくだらなくて思わず笑ってしまう。

「この下の口でも、池田さんのソプラノが聞けて、ブレス音も聞こえたらと思うんだよ」

「何を言ってるんだか。お尻からソプラノが出てきたら、絶対臭いよ」

「それがいいんじゃん。ソプラノの匂いでさぁ。ねえ、お尻の穴思いっきりあけて、ブレス音聞かせてくれない?」

「できるわけないでしょ!」

論理くんの言うことはたまについていけない。論理くんは含み笑いをしながら、私のお尻の穴を大きく広げて、舌をその中に入れてきた。

「あぁ…うぅ…好きだね、お尻…」

論理くんの匂いを嗅いでいるせいか、お尻の舌がどことなく気持ちいいように思えた。論理くんは、しこたまお尻を舐めると、また人差し指を私のお尻に入れてくる。

「うぐぅ!あまり入れないで…」

「うん、わかった」

でも、論理くんの指は、どんどん入ってくる。

「池田さん!」

「あれ、やるの?」

「もちろん!」

論理くんはそう言って、胸いっぱいに息を吸い込んだ。

「はあああああっ!池田さぁぁぁぁんっ!」

私も、息を思い切り吸う。

「っっっっっっっ、論理くぅぅん!」

そう言いながら、お尻の穴を思いっきり締める。

「はあああああっ!愛してるよぉぉぉ!」

「っっっっっっっ、愛してるよぉぉぉっ!」

「はあああああっ!大好きだよぉぉぉ!」

「っっっっっっっ、大好きだよぉぉぉっ!」

「はあああああっ!ずっと一緒だよぉぉぉ!」

「っっっっっっっ、ずっと一緒だよぉぉぉっ!」

論理くんは、左手を私の背中に当て、私の呼吸を感じているようだった。論理くんのものが、私のお尻をピタピタと熱く打つ。その熱さが、私のおまんこも熱くさせる。論理くんはやがて、お尻の中の指をピストン運動させた。なにこれ…気持ちいい…。前にも気持ちよかったところを論理くんも覚えていて、直腸の中のそのポイントを執拗に責める。

「はあっ!…はあっ!あぅ、あぅぅあぅ…!論理くん…!」

あまり声出したらお母さんに聞こえちゃうよ…!でも、声が出ちゃう…!論理くんは指を変えて、今度は左手を私のお尻に入れる。私の快感のボルテージがまた一つ上がる。膣よりお尻の方が、犯されている感じがして気持ちよかった。論理くん!論理くん!私、お尻でイっちゃうの?

「論理くんっっ!ああっ!あぅぅぅっ!ああっ、論理くん!お尻、気持ちっ…いいよぅ…こんなのっ、はじ…めてっ…!」

論理くんは、さらに勢いをつけて私の直腸を嬲った。私は、どんどん上っていく。論理くんの指が突き上がる。私の膣からも、熱い液体が出てくる。

「うぐぅあぁぁっ!論理くんの指がっ…私のお尻の中をっっ!あぁんっ!掻き乱してっっ!はぁっあぁっ!やだっ…私っっお尻でイっちゃうのぉぉっ!あはぁぁっ!論理くんっ!論理くんっ!あぁぁっ!くる…きちゃうっきちゃうぅぅう!くあぁぁあぐぅぅっ‼︎」

私は、背を反り返らせて果てた。私の荒い息遣い。論理くんも、激しく腕を動かしたからだろう、私の背後から激しい息遣いが聞こえてくる。やがて論理くんは、私の背中を抱き起こして、いつものように後ろから抱っこっこしてくれた。

「はぁっ…はあああっ…池田さん…」

「はぁっ…すはああっ…論理くん…」

「愛してるよ…」

「愛してるよ…」

「大好きだよ…」

「大好きだよ…」

「ずっと一緒だよ…」

「ずっと一緒だよ…」

私たちはしばらくそうして固く抱き合っていた。私のお尻に、不眠不休で燃え盛っている論理くんのちんこが熱く当たっている。

「論理くん、ちょっとここに仰向けで寝てくれるかな。私、論理くんのちんこ、よく感じたい」

「う、うん」

論理くんは、何をされるのだろうというような顔で、自分の枕に仰向けに寝転ぶ。そそり立ったろんりくんのちんこに、口づけをする。

「うぅっ」

論理くんの口から小さな喘ぎ声が漏れる。さらに、論理くんの根元から先に向かって頬擦り。次に、両手で論理くんのものを握り、先っぽにキス。

「あぅっ!あはうっ!」

論理くんは、大きなものを持っているのに子どものように敏感だ。私は、小さな口を大きく開けて一気に論理くんを咥える。

「あひっ!」

喉の奥まで入れたり、口先に咥えたりしながら、今度は、論理くんのちんこを口の中でピストン運動させる。論理くんがイきそうになると、口の力を少し緩めて焦らす。次に、私の舌先を、論理くんの先っぽの穴に嵌めて、こじ開けるように動かす。そしてまたピストン運動。

「あうっ!あはぁっ、あああはあっっ!」

そのとき、ちんこの中からどびゅっと精液が出てきて、口の中に広がった。味はちょっとだけしょっぱい。そして、論理くんの味がする。論理くん、私の口でイってくれた…。嬉しい。私は、口の中の精液をゴクリと飲み込んだ。論理くんが、私の胃の中に入ってきてくれる。

「はぁっ…はあああっ…池田さん…」

論理くんは、野生的な視線で私を見て、私をベッドの上に仰向けに寝かせた。手近なタオルで精液をゴシゴシと拭い、コンドームを付けると、私の両足を広々と広げる。

「池田さん、いいかい?」

「いいよ、論理くん。きて」

論理くんは、そそり立ったちんこを、私の中に差し込んでいく。

「あぁっ…池田さん!」

「あぁっ…!論理くん…っ!」

論理くんが私の中に…。私は、論理くんと一つになれて、論理くんをこの上なく感じられることが、幸せに思えた。論理くんは、徐々に腰を動かす。そのうち、ピストン運動が激しくなっていき、私はそれに合わせて喘いだ。

「ああっ!うあっ!あぅあっ!あん!あぐぅっ!はぅあっ!」

「……論理!」

あれ、なんか聞こえたような…。でも論理くんは、構わず腰を動かし続け、私も喘ぎ続ける。

「池田さん!」

「論理!」

やっぱり聞こえた!お母さんの声だ!

「ろんっりくんっ!あっ!お母さんのっ、声がっ!あはぁんっ!」

私は、声をなるべく抑えて論理くんに言う。でも論理くんは、腰を振るのをやめない。それどころか、腰の動きを乱暴に早めた。私はそれに感じてしまい、大きく喘いでしまう。

「ほっとけ!こっちは忙しいんだ!」

「あっ!でもっ!ろんりっ!くんっ!あぁぁっ!あんっ!あぁぁんっ!」

「論理‼︎その娘となにやってるの‼︎降りてらっしゃい‼︎」

あぁ…完璧に聞こえてるよ…。でも、声が出ちゃう…!

「あはっ!あはあぁぁっ!ろんっりくんんんっっ!」

「池田さぁぁぁんっっ!」

「論理‼︎たわけたことをやって‼︎もう許さないからね‼︎」

お母さんの怒鳴り声と共に、私たちは果てた。

「はぁっ…はぁっ…豚鬼には、言わせるだけ言わせとけ…俺たちには、大事な瞬間がある」

「はぁっ…はぁっ…大事な瞬間?」

論理くんは息を整えつつ、部屋の時計を指差した。十一時五十九分を指している。

「日付が変わって八月十五日になると、俺たちが付き合いだして一ヶ月の記念日になるんだよ」

「論理‼︎あんたはその娘に魂を売ったの⁉︎恥を知りなさいよ‼︎」

お母さんの、私の心を抉る一言。でも、私には論理くんがいる。気にしない。私は気丈に振る舞う。

「そっか!そうだったね!全然忘れてた。ごめん、論理くん」

「もうすぐ午前零時だよ。記念にキスをしよう」

いろんなことがあった一ヶ月間だったけど、論理くんと過ごした一ヶ月は、これまで私が生きてきた中で、最高の一ヶ月だった。論理くんも、そう思ってくれていればいいな。私たちの唇が重なる。

「論理‼︎そんなくだらない娘に身も心も捧げて、恥ずかしいとは思わないの⁉︎」

くだらないだと?恥ずかしいだと?うるせぇババア。私たちの記念のキスを邪魔するな。そのあとも、下からいろいろとうるさかったけど、私たちは舌をたっぷりと絡ませ合った。

「さぁ、そろそろ行ってやるか」

論理くんが、唇を私から離し、うんざりした調子でそう言う。二人で服を着て、部屋の扉を開けた。

「うっ!」

その瞬間、鼻を捻じ曲げられるような、悪臭。私は思わず呻いた。なにこれ…?これは、まさか…。

「あの野郎…何しやがった…」

論理くんも鼻を押さえながら、階段を降りていく。居間に出ると、そこにはやはり、このにおい通り、うんこまみれになったお母さんがいた。ものすごい異臭がする。私は思わず吐きそうになった。

「お母さん…なにやってんだ…!」

お母さんは顔にもうんこを付けながら、怒り狂った表情で言う。

「なにやったも、あれやったもない!論理!あんたそこの娘と今なにやってたの!言いなさい!」

「健康な男女二人が夜を共に過ごせばどうなるか、言わなくてもわかるだろ」

「なんですって‼︎」

お母さんの怒りが、何度も何度も沸点にたちする。

「聞いていれば、下品にあへあへ喘いで、育ちが知れると言うものだわ!」

あんただって下品にうんこ漏らしてるじゃないか!どっちが下品だ!育ちがよーくわかるわ!

「黙れ!俺たち二人が今晩一晩共にするようになったのは、絵美の悪巧みじゃないか。絵美にそんな悪巧みをさせたもともとの原因はあんただろ。だから俺たちのセックスは、あんたからの賜物だ!」

お母さんは、論理くんのセックスという言葉にビクリと反応した。

「セックス…⁉︎あんたたちがセックスだなんて、何十万年早いと思ってるのっっっ‼︎」

お母さんはそう叫んで、手元のうんこを私に向かって投げつけた。

「きゃっ!」

私は、間一髪でそれを避ける。

「池田さん、下がってて。そんなに遠くまでは投げつけられないから。お母さん、そこまでやったって、俺たちの心までは変えられないよ」

論理くんはそう言って、私の後ろに回り込むと、背中から両腕を伸ばして私の乳房を揉んだ。そして、背後から私のキスを求める。論理くん…そんな、お母さんが見てる前で…いいのかな…いいよね!私は、首を後ろに傾け、論理くんと唇を重ねた。

「ふざけるな‼︎よくも私の見ている前で…‼︎おい、そこの小娘‼︎」

「はい」

私は論理くんから唇を離して返事をした。お母さんも覚悟を決めたのか、今までのような興奮した顔ではなく、落ち着いた怒りが顔に満ちている。

「よく聞きなさい。論理の彼女や妻になれる女性というのは、この太田家にふさわしい人だけです。今あなたが、私の目の前でそこまでやるというのなら、あなたこそ太田家にふさわしいのでしょう。そうですね?」

…違う。私は…!

「いえ、私は、太田家にふさわしくありません。論理くんにふさわしいのです」

私は、お母さんに向かって昂然と言い放った。

「なにをっ…!ああ言えばこう言いおって…。いいでしょう。今あなたの目の前にいるのは、その論理くんの母親です。論理くんにふさわしいというのなら、私のこの状況をなんとかできるでしょう。早く私のこれをなんとかして」

「うるせぇ!最初から池田さんに下の世話をさせるために、汚いものを撒き散らしたんだな。それならこっちにも考えがある」

論理くんは玄関からスコップを持ってきた。そして、布団の上に積み上がっているうんこを掻き取り、トイレに捨てていく。

「論理!何をやってるの!誰があんたにやれと言ったの!そこの娘にやらせろと言ったでしょう!」

「池田さんには、金輪際汚いことはやらせない」

「うるさい!あんたたちは黙って私の言うことを聞いていればいい!」

論理くんの顔に、本気の怒りが現れた。

「だいたいあんたらは子どもの分際でこの私に…」

「黙れクソババア!」

論理くんはそう怒鳴って、スコップの上にてんこ盛りになったうんこを、お母さんの頭にかけてしまった。

「もういい!そこまでうちゃうちゃ抜かすのなら、そこでそうしていればいい!池田さん、行くよ」

論理くんとお母さんの親子喧嘩は次元が違う。私は唖然としていたけど、論理くんに促されるまま、私は二階に上がって、論理くんの部屋に逃げ込んだ。扉の向こうには、ようやくまともな空気がある。何度も深呼吸して、私たちは生命を回復した。

「論理くん…あそこまでやっちゃっていいの?」

「池田さんだってあそこまでやられたじゃないか」

「いや…そこまでじゃないと思うけど…」

「池田さんの、一生懸命なおいしいカレーをああやったことで、十分『あそこまで』だよ」

論理くんは、怒りも露わに拳を握りしめた。

「それで…お母さん、どうしておくの?」

「俺たちの今日の務めはこれで売り切れだ。あとはもう、どう騒ごうと俺たちの知ったことではない。重ねて言うけど、あのカレーが全てだ。あれがある限り、やつは許されることはない」

まぁ確かにあれは酷いと思ったし、悲しかったけど、私もお風呂で反撃したから、もういいんだけどな…。でも論理くんにとっては、何があっても許せないみたい。これからどうするんだろうと思いながら、私たちは論理くんのベッドで抱き合って眠った。どことなく、二人の間であの臭いが漂うのを感じながら。


「おい、起きろ」

微睡みの中、突然、誰かの声で目が覚めた。

「親父!」

論理くんの驚きの声。私もはっきりと目覚める。私たちのベッドの脇に、論理くんのお父さんが立っていた。え…どうしてお父さんがここにいるの?

「出仕事で明日まで帰らないんじゃなかったのかよ?」

「早めに済んだから帰ってきた。そうしたら一階は見ての通りだったな」

お父さんは、怒っているようでもなく、微笑する様子もなく、無表情に立ち尽くしている。

「下では奥方が騒いでいて、そこからある程度の事情は聞いたが、お前たちからも聴きたい。……何があった?」

私たちは緊張しながら、お姉さんが靴の一件との交換条件に今回のことを私たちに強要したことから話し始め、昨日の夜までのことを語った。もう、嘘をついて墓穴を掘るのは嫌だし、相手がお父さんということもあって、包み隠さずに話した。お父さんは私たちの話をすべて聞き終わると、腕組みをして「うーん…」としばらく考え込んでいたけど、やがて、

「文香さんは、これでもう帰っていい。文香さん、いろいろ怖い目に合わせてすまなかったね。これに懲りずに、論理と一緒にいてやってくれると嬉しい」

と、優しげな口調で言ってくれた。ああ、やっぱりお父さんは神だ!

「論理も論理で、実の母親をのぼせさせたりとか、大便を振りかけたりとか、やってはならんことをしている。無論、そうさせた奥方にも罪は大だが、やったことは反省しなければならん。わかったか」

「…うん」

「あと、絵美の言う『借り』は、もう一切意識しなくていい。この一件も絵美の小狡いところが原因で出たものだ。これからもそういうことがあるかもしれんが、乗る必要は一切ないからそのつもりでいろ。俺からも絵美によく言っておく」

ああああ、神ぃぃ‼︎こういう人が太田家には一人いなきゃいけないよ。私たちはお父さんに促されて帰り支度をし、階段を降りて行った。途中、居間の前を通る。昨日に引き続いてものすごい異臭がする中、まだ頭からうんこを被ったままのお母さんが、もの凄まじい目でこっちを見ている。でも、お父さんに制せられて何も言えない。

「それじゃ、よくやってくれたね。文香さん、ありがとう」

「い、いえ…。私こそやりたい放題で、反省しています。申し訳ありませんでした」

「そんなこと言う必要はない。前にも言ったが、論理のそばにいてくれて、この子が自立していく助けをしてくれれば、それに勝ることはないよ」

お父さんはにこやかにそう言ってくれた。神ぃ…。お父さんの頭の後ろから光が見える。

「じゃあ親父、池田さんを家まで送ってくる」

「ああ、そうするといい」

私は神、いや、お父さんに何度も頭を下げながら、鬼ヶ島をあとにした。外は台風も過ぎて晴れ渡っている。鬼は退治できなかったけど、まあ、いいよね。

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