二十三、論理くん、焼肉会に参加する

「あー、はいはい、…じゃあ、おじいちゃんたち、連れてきてくれるのー? …そう、ありがとー。んじゃまたあとでねー」

次の日、午後五時。お母さんが興良のおばあちゃんと軽やかに電話している。

「おばあちゃん、どうしたって?」

「ああ、お姉ちゃん、なんかね、鶴賀に迎えに行ってくれるらしいんだよ。青柳亭には四人で来るって」

「じゃあこのまま出かけてもよさそうだね。論理くん、楽しみ?」

私は緊張ぎみの論理くんに、おどけ半分でそう聞いた。

「あ、ああ…。楽しみだよ…」

「どうした論理くん。顔がこわばっているぞ」

お父さんにも言われ、論理くんはますます緊張する。お母さんが笑った。

「論理くん。おじいちゃんたち、優しい人たちだからそんなに怖がらないの。少なくともあなたのお母さんと比べればずっとまともだから」

お母さんったら何気に酷い。よっぽどあの電話で言われ尽くしたんだな。でも論理くんもそんなお母さんの言葉に、

「あ、そうですか。それならずっといい方ばかりと思えます。ありがとうございます」

と、自分のお母さんをコケにした言い方をする。相変わらずだよね…。それに最近では、私のお母さんまで厳しいこと言うようになってきた。なんだか、論理くんのお母さん→論理くんのお姉さん→私のお母さんという順に、憎しみの渦がどんどん広がっていくみたい。悲しいなぁ。

「さ、それならみんな、行くわよ」

お母さんは私の心配など関知もしない様子で、私たちを導き、車に乗せた。池田家では車のハンドルは、主にお母さんが握る。

「お母様、『青柳亭』は、やっぱり百五十三号線の青柳町(あおやぎちょう)付近の焼肉屋さんでよろしかったんでしょうか」

「そうそうあそこあそこ。ご飯もお肉もおかずも、みんなバイキング形式で取り放題だからね。食べやすそうでしょ」

お母さんの車は軽快に走る。私たちが雑談をするうちに、早くも伊那(いな)街道に入り、草宮(くさみや)大通を過ぎた。若干の渋滞を過ぎて、やや古びた焼肉屋の前に到着する。

「あ、おじいちゃんたち来てるね」

私は、ワクワクしながらそう言う。興良のおじいちゃんたちにも、鶴賀のおじいちゃんたちにも、会うのは久しぶりだ。駐車場には興良のおじいちゃんの車があった。五人で車を降り、店内に入ると、営業開始まもない店の中には人影もまばらで、店の奥の座敷におじいちゃんたちが手を振るのが見えた。

「あ、おじいちゃーん、おばあちゃーん!」

私も手を振って、おじいちゃんたちに駆け寄る。興良のおじいちゃんたちも、鶴賀のおじいちゃんたちも、にこやかに私を迎え入れてくれた。

「あー、文香ちゃん、しばらくだったねぇ」

と、興良のおばあちゃんが私の頭を撫でてくれる。

「お義母さん、ご無沙汰しております」

お父さんが真面目な顔で興良のおばあちゃんに挨拶。その一方ではお母さんが、鶴賀のおじいちゃんの頭を撫でながら、

「おじーちゃーん、元気だったぁ?」

と、気さくに語りかけている。

「ねえ、おばーちゃん、僕小遣い一万円金欠なんだー。補給してくれよー」

正志が遠慮も会釈もないことを言って、お母さんにたしなめられる。さっきから私たち一家の交歓会になっていて、一人取り残された感じの論理くんだけど、興良のおじいちゃんが気づいてくれた。

「おいおい、そこの男の子が文香ちゃんのフィアンセか?」

フィアンセ⁉︎そんな、おじいちゃん、一足飛びに…。私は恥ずかしさで顔が完熟トマトのようになってしまった。隣を見ると、論理くんもトマト状態だ。

「挙式はいつだ?いろいろこっちも準備があるから、早く聞かせてくれ」

興良のおじいちゃんは冗談の好きな性格で、よくこういうことを言って周りを困らせる。

「おじいちゃん、だめですよ」

興良のおばあちゃんがおじいちゃんをたしなめる。明るくておどけ屋さんのおじいちゃんと、落ち着いて知性的なおばあちゃん。好対照で仲のいい夫婦だ。でも、この二人もいろいろなことを乗り越えてここまで来たんだと思う。

「確か、論理くんって言いましたっけね?」

眼鏡越しにおばあちゃんに見つめられ、論理くんはまた、姿勢を硬くした。

「はい。太田論理と申します。よろしくお願い申しあげます」

論理くんは深々と一礼する。論理くん、すごく緊張してそう。

「真面目な子だねぇ。お父さんにそっくりだね」

興良のおばあちゃんはそう言って笑った。お母さんも笑っている。お父さんは苦笑いした。論理くんの礼儀正しさは、時折こうした場違いな面白さになってみんなの笑いを引く。とはいっても本人は大真面目なんだろうけど。

「んじゃちょっと私から紹介しましょうか。私が興良の若林桜(わかばやしさくら)。夫の若林和夫(かずお)です。それと、こっちが鶴賀のおじいちゃんの池田守道(もりみち)さん、おばあちゃんの池田陽子(ようこ)さんね」

「不束者ですが、皆様、どうかよろしくお願い申し上げます」

論理くんは、もう一度おじいちゃんたちに向かって、深々と礼をした。

「論理くんは、もう文香ちゃんとお付き合いして、長いんですか」

いちばん向こうの席から、鶴賀のおばあちゃんが元気に尋ねてくる。鶴賀のおばあちゃんも、おじいちゃんもまだまだ元気だ。おじいちゃんはカメラが好きで、よく私と正志の写真をたくさん撮ってくれる。論理くんは、おばあちゃんの問いに胸を張って答える。

「まもなく一ヶ月になります」

「それはいちばん甘くて熱い頃だ」

と、鶴賀のおじいちゃん。小さな声しか出せないのが悲しいけど、そう言ってくれるのは何よりも嬉しい。

「さあ、それじゃ、始めましょうか」

お母さんが開会宣言する。鶴賀のおじいちゃんに席で留守番していてもらい、私たち八人は一斉に食材置き場へ向かった。色とりどりのお肉や、お野菜、果物、スイーツ、もちろんご飯も大釜に炊いてある。お寿司もあった。どれもおいしそうで、私はテンションが上がった。

「論理くん、美味しそうだねー!たくさん食べようね!」

私は、隣にいる論理くんにキャッキャと話しかける。

「う、うん」

論理くんは、やっぱりかなり緊張している。

「緊張してるよね論理くん、ごめんね。でも、そんなに緊張しなくていいからね!」

「うん。緊張してるけど、皆様に歓迎されてるみたいでよかった」

論理くんはそう言って、少しだけ微笑んでくれた。

「おい文香ちゃん」

と、興良のおじいちゃん。相変わらずニヤニヤしている。

「おまえたち、もうケンカはしたのか?」

「ええ…?してないよ」

「だめだぞ。夫婦ってのはな、ケンカして絆が深まるんだ。ほれ、雨降って何とやらっていうだろ」

おじいちゃんったら、おばあちゃんとケンカしてきた歴史があったのかな。私はクスリと笑ったが、その一方、それも真実かもと思う。

「おじいちゃんたちは、どんなケンカをしたの?」

私は自分の皿の中に、カルビを盛りながらおじいちゃんに尋ねた。

「そりゃあいろいろだ。俺がな、おばあちゃんのショルダーバッグの紐を、足の小指で踏んだってんで、いやぁ、えらく怒られてな。んでこっちも、そんなんだけで何怒ってんだってことになるだろ。いやいや揉めたもんだ」

「たったそれだけ?」

「まああとで話を聞いてみると、それまで小さなことが積もり積もってきたらしい。それが小指のショルダーでどかーんときたわけだ」

「そっかぁ」

小さなことが積もり積もって、小さなきっかけで、どかーんか。それはあるだろうな。私たちはどうなんだろ。小さなこと、小さなこと…。ふいに「義久」「優衣」と呼び合っている二人が浮かんだ。ううん、そんな。あの二人はあの二人、私たちは私たちだよ。私は、少し離れたところでご飯を持っている論理くんを見た。鶴賀のおばあちゃんと何やら大きな声で話をしている。「やっぱ豆乳ですか!」とおばあちゃんが言っている。溜まってることは、ない。小さなことは、ない。私はそう自分に言い聞かせていた。


焼肉会は、みんなが満腹になったところで、論理くんへの質問タイムとなった。おじいちゃんおばあちゃんたちも、お父さんお母さんからある程度のことは聞いているのだろう、質問はいきおい、論理くんの生い立ちや、ご家族のことになった。

「じゃあお姉さんの立場がだめだねえ」

興良のおばあちゃんが心配げに顔をひそめて言う。

「論理くん。遠い先のことかもしれないけどさ、ご両親が亡くなったあと、相続だけはしっかりしなきゃいけないよ。私の知ってる人でも論理くんと同じような人がいてさぁ、その人お姉さんと共同登記しちゃったの。家も土地もお姉さんと半分半分ってことさ。それで今度はその人が遺言書書く番になったら、お姉さんがごちゃごちゃ言って、小一年かかって苦労に苦労して書いてたよ」

「おばあちゃん、さすがに先過ぎるでしょ」

と、お母さんが押しとどめても、おばあちゃんは語り続ける。

「先過ぎるなんてもんはないよ。人生、いつどうなるかわかんないんだから。それに論理くんの相続には、文香ちゃんが関わってくるんだからね。ね、文香ちゃん」

え…!私が論理くんの相続に関わるってことは…、つまりその、論理くんと…結婚するの⁉︎

「は、はうぅぅ」

「恥ずかしがってちゃだめさぁ」

おばあちゃんの熱弁は止まらない。

「論理くんの家がそこまで酷い家で、文香ちゃんの思いがそこまでしっかりしたものなら、もういっそ二人が十八になったときに籍を入れればいいのさ。いざとなったら二人の大学の学費ぐらいは、こっちでまかなってあげるよ」

興良のおじいちゃんとおばあちゃんは、お菓子関係の会社を経営している。お母さんも、教員をする片手間にそこの役員として働いている。創業者だからというためか、おじいちゃんたちはかなりのお金持ちだ。

「いえ!そこまでして頂いては痛み入ります」

恐縮する論理くんに、今度は鶴賀のおばあちゃんが聞く。

「でももう論理くんは、文香ちゃんと身を固めるつもりですよね?」

え?…論理くん?私と身を固めるつもりって聞かれてるけど…。

「無論です」

論理くんは、なんと今のおばあちゃんの問いに、あっさりと答えた。嬉しい…。

「いい返事だ」

と、興良のおじいちゃんが満足げにうなずく。

「ところで論理くん、誕生日はいつだ?」

「四月二十一日です。一九九八年の」

「そうだね、文香ちゃんと同い年なら、九八年だね」

その脇で興良のおばあちゃんが言う。

「あの年は新しいWindowsも出て、ウチの会社も大きく技術変革したものだよ」

「あの時代のWindowsは、インターネットの普及に応じて、次々と改まって行きましたよね。中でもXPは名作OSだったと聞き及んでおります」

「そうそう。論理くんよく知ってるねー」

興良のおばあちゃんが感心する。パソコンは私、ぜんぜん触ったことないからわからない。でも論理くん、物知りだよね。

「すると、お母さんお父さんはいつごろの生まれになるのかな」

鶴賀のおじいちゃんに聞かれた論理くんが答える。

「そうですね…。父は一九五六年一月十五日、母は一九五九年九月一日です」

「あれ?ちょっとお年じゃないかい?」

興良のおばあちゃんが訝しがる。ちなみに私のお父さんは一九六七年三月十一日、お母さんは一九七一年二月十五日だ。論理くんの両親とは十歳くらい年齢差がある。

「じゃあ、論理くん、遅い子どもなんだね」

と、お母さん。

「父は四十二歳、母は三十八歳のときです。高齢初産のようなもんですね」

「あれ?お姉さんは…」

そこまで言って鶴賀のおばあちゃん、手を合わせるそぶりをし、

「あ、ああ、ごめんね…」

と、論理くんに謝る。

「いえ、いいですよ」

論理くんは寂しげに微笑んだ。

「姉が一九九二年にもらわれてきたときには、両親とも自力出産をほぼ諦めていたようです。一九八二年に私の実の姉を死産してから何度か努力したみたいですが、ダメだったようで…。そこに私がひょっこり生まれたんですから、家中てんやわんやだったでしょう」

「それじゃ論理くん、お姉さんとの関係は幼い頃から…?」

「そうですね。いろいろ武勇伝はあります」

論理くんはお父さんに向かって答えた。

「幼い頃に鼓膜が破れるまで頰を張り倒されたりとか、私がかわいがっていた小鳥に、わざとなのかどうなのか餌をやらずに死なせたりとか、五平餅の芯で鼻っ柱をぶたれて餅が血で染まったりとか」

論理くんは、そんな酷い話を平然と言った。でも論理くんの心の中は、今でも憎しみで満ちているんだろうな…。でも、あのお姉さんならやるだろうな…。こんなふうに人を悪く見てはいけないのはわかってる。でも、あのお姉さんやお母さんといると、人を憎んだり蔑んだりすることが当たり前になってしまう。悲しいことだ。場はすっかり重く静まり返って、焼肉会の賑わいはとうに過ぎ去っていた。

「じゃあ、お母さんとの間も、すごく悪かったのか?」

今度は興良のおじいちゃんが、論理くんに聞く。

「母は私を溺愛しています。たぶん、母は私を溺愛しなければ生きていけませんし、私から溺愛されなくても、生きていけません。母は私から必要とされることを必要としていて、私が母を必要としない素ぶりを少しでも見せれば、腕づくで必要とするようにしむけてきます」

みんな、論理くんのこの説明を理解しにくいようだった。みんなの代わりに、私が論理くんに尋ねる。

「お母さんは、論理くんがお母さんを必要としている、ってことが、知りたくてたまんないんでしょう? そのためにお母さん、何かしたの?」

「やつは車椅子に乗るのを怖がっている。そのくせ、俺がやつの言うことを聞かないと、倉庫からわざわざ車椅子をひっぱり出させてきて、わざわざ乗って見せて、『さあ論理くん、お母さん車椅子に乗って山奥の温泉にいっちゃうよ、もう二度と会えないよ』とか言う。すると俺が『お母さーん、行かないでー』と泣き叫ぶ。これをたっぷり十数分もやって、俺が泣き疲れると、ああこの子は私をこんなにも必要としている、と、満足する」

私のお母さんやお父さんは、私が言うことを聞かないときでも、いきなり殴ったり脅したりはしない。どうして私がそうしなければいけないか、じっくりと話し合ってくれる。それがお父さんやお母さんの愛情だって私も分かってるから、少しぐらい聞きたくない話でも聞ける。だけど論理くんのところはそうじゃない。どうやったら論理くんをねじ伏せられるか、お母さんもお姉さんも、そればっかり考えてる。どうしてそんな育て方をするんだろう…。

「こういっちゃ論理くんに悪いけど、何かと濃過ぎる関係だねぇ」

興良のおばあちゃんがため息にそう言って、こう続けた。

「子どもが独り立ちし始める目安としてさ、『何歳まで親とお風呂に入ってたか』ってのと、『何歳から、子ども部屋で独り寝を始めたか』ってのがあるんだよ。論理くんはどうだったかね?」

「風呂は、小六まで父に入れてもらっていました。独り寝は…」

論理くんは、恥ずかしげに顔をうつむける。

「…中一まで、母と一緒に寝ていました。自分の部屋で寝るようになったのは、この四月からです。文香さんと出会っていなかったら、きっとまだ一緒に寝ていたでしょう」

「じゃあ文香と知り合ったから、論理くんは親離れが始まったんだ。それはどうして?」

お父さんが、すかさず尋ねる。

「それは…」

論理くんは少し口籠るが、やがてはっきりとこう答えた。

「文香さんのことを考えるほうが、母のことを考えるのより、ずっと気持ちいいからです!」

あまりにストレートな論理くんの言葉に、みんな全員がキョトンとする。だけどそのうち、誰かが「ぷっ!」と吹き出し、みんなが豪快に「あーはっはっは!」大笑い。今までの重苦しさは一気にかき消された。

「そうか、気持ちいいか。気持ちいいのなら、しかたないなあ」

鶴賀のおじいちゃんが、珍しく大声で言う。

「論理くん、今まで気持ちのよくないことばっかだったんだねー」

と、お母さんが微笑みながら言う。私の心の中にも、論理くんの「気持ちいい」って言葉が響いていた。論理くんのつらい生活の中で、私が少しでも気持ちよさを与えてあげられているのなら、本当に嬉しい。それに、お母さんとの毒々しくってべったりした関係に、私が変化をもたらせていたのは誇らしいことだ。論理くんのお母さんには悪いけど、論理くんは私がいただきます。これからも論理くんと熱い絆を築いていこう。それからみんなで少し雑談をして、お開きになった。最後は、論理くんの記者会見みたいになっちゃった焼肉会だけれど、みんな、論理くんのことを深く知って理解してくれたみたいで、本当によかったと思う。

「文香ちゃん、よっぽど論理くんのことが好きなんだね。いい顔してるよ」

帰り際、鶴賀のおばあちゃんが私にそんなことを言ってくれた。私はその言葉が嬉しくて、思わず笑顔になる。

「うん、論理くんのこと大好きだよ。この世界のどんな人よりも、ずっと」

「いいことだよ。おばあちゃんは、おじいちゃんと喧嘩してばかりだから、将来そんな夫婦にはなるんじゃないよ」

「うん、ありがとう、おばあちゃん」

確かに鶴賀のおじいちゃんとおばあちゃんは、あまり仲が良くないのか、喧嘩してばかりいる。それにしてもおばあちゃん、夫婦って…照れるよぉ。

「論理くん。文香ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」

鶴賀のおばあちゃんはそう言うと、私の隣にいる論理くんの手を握った。

「もちろんです。頼りにしていただき、光栄です」

「しっかりしてるねぇ。これなら、安心して文香ちゃんを任せられるよ」

鶴賀のおじいちゃんが朗らかに笑いながら、論理くんにそう言う。

「さぁ、行きましょうか。文香ちゃん、論理くん、またね。今日は楽しかったね。いろんな話が聞けてよかったよ。今度はピザ屋にでも連れていってあげるよ」

と、興良のおばあちゃん。

「本日はどうもありがとうございました。また、どうぞよろしくお願い申し上げます」

論理くんは、私の家族に対してはいつも堅っ苦しい。そんな堅っ苦しくならなくていいのに。

「まぁ、がんばってな」

興良のおじいちゃんはそう言うと、論理くんの肩をぽんぽん、と叩き、車に乗った。興良のおばあちゃん、鶴賀のおじいちゃんおばあちゃんも、それに続く。

「おじいちゃん!おばあちゃん!今日はありがとう!また会おうね!体に気をつけてね!」

「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとー。長生きしてねー!」

私と正志が元気にそう言って、車の外から四人に手を振る。私と正志の言葉に、四人とも笑顔で応えてくれた。

「ありがとうございました!」

論理くんもそう言って、四人にお辞儀をする。プッ!と、運転席にいる興良のおじいちゃんがクラクションを鳴らし、興良のおじいちゃんの車が発進した。

「さぁ、私たちも帰りましょうか」

お母さんが自分の車に乗る。私たちもそれに続く。車に乗ると、私は論理くんを見た。

「論理くん、楽しかったかな」

「ありがとう、池田さん。とても楽しかった」

私は、それを聞いてホッとした。論理くん、めちゃくちゃ緊張してたから。

「それじゃあ、論理くんの家に向かっていい?」

お母さんが車を出発させながら、論理くんに聞いた。

「すみません、お願いします」

論理くんは、豊かな家に生まれ育った夢から覚めた、難民キャンプの子どものような顔をした。

「論理くん、お別れだね…。明日会うけど」

「おい、明日会うってどういうことだ?聞いてないぞ?」

お父さんが、不審げに聞く。私は、なるべくなら話したくなかったけど、論理くんのお姉さんに言われたことを、掻い摘んでみんなに話した。

「どういうこと、それ…」

お母さんがアクセルを吹かす。お母さん怒ってるよ…。

「申し訳ありません。母は私一人でなんとかしますので、大丈夫です」

論理くんが、到底大丈夫ではないことを言った。

「なに言ってるの!大丈夫なんかじゃないでしょ!嘘つかないの!大丈夫、私もちゃんとお母さんのお世話するから!」

「文香。大丈夫と言うけどね、身障者のお世話というのは、並大抵のことじゃないんだよ。肉体労働でもあるし、相手が精神的に歪んだ人の場合、計り知れない苦労がある」

お父さんも、心配したような怒ったような口調で、私を諭した。

「まったく、どんな人たちなのかしら。私が怒鳴り込んで黙らせてやるわ!」

お母さんが、相変わらず乱暴な運転で怒りを口にする。

「お母さん!そんなことしないで!私がいなかったら、論理くんは一人でお母さんの世話をすることになる。そんな無茶なことはさせない。苦労があるなら、その苦労を論理くんと私で半分こすればいいでしょ!それに…」

私は唾を飲み込み、口を開いて、息を大きく吸う。「すはあああっ!」と私のブレス音。論理くん、今、見てくれたかな。聞いてくれたかな。

「それに私は、論理くんのことを愛しているように、論理くんのお母さんのことも愛したいの。無理かもしれないけど、論理くんのお母さんと、ちゃんと向き合って、話し合って、私に少しでも心を開いてくれたらなって思うの。無理だと思うけど、希望は、一ミリでも捨てたくないの!」

私がそう叫ぶと、車内は重苦しい沈黙に包まれた。

「できるよ!お姉、その人のこと、きっと愛せるよ!」

正志が、不意にそう叫んだ。正志…ありがとう。

「まったくねぇ…」

お母さんが、ハンドルを握りながらそうつぶやく。私は後ろの席なので、お母さんの顔はよく見えなかったけど、その声は、どこか潤んでいるように聞こえた。

「お姉ちゃんが、そんなこと言うとはね…。わかった。お母さん、もう何も言わない。論理くんのお母さんに、お姉ちゃんが尽くしているところ想像すると虫酸が走るけれど、お姉ちゃんの意思を通していらっしゃい。論理くん、文香をよろしくね」

「三日間か…。あまりにも長いけれど、文香がやり通すと言うのなら応援しよう。でも、どうしても耐え難いことがあったら、すぐに電話をしておいで。助けに行くからね。論理くんもいいかな?」

お母さん、お父さん、ありがとう。私の家族は、本当に最高の家族だよ。

「はい、ありがとうございます。家のものが、本当に申し訳ございませんでした」

論理くんは、前の席のお父さんとお母さんに、深々と頭を下げた。

「でもね」

お母さんが、少し厳しい声で言う。

「そもそもの事の起こりは、あのときお姉ちゃんたちが、論理くんは家にいない、と嘘をついたところから始まってるよね。前にも言ったけれど、敵に借りを作っちゃ駄目。いつも堂々としていなさい。あなたたちは、誰にも悪いことをしていないんだから。いいわね」

「わかった。もう過ちは犯さない。私たちは、悪いことはしてない。心に留めておくね」

車は、伊那街道を抜けて、梅(うめ)通りに入る。小さな交差点を右折して細い道に出る。論理くんの家がもうすぐだ。

「池田さん、お父様、お母様、正志くん、今日はどうもありがとうございました」

論理くんが、車内でもう一度深く一礼する。

「こちらこそありがとうね、論理くん。明日から、よろしくね」

「ありがと。明日から、がんばろう」

私たちは手を握り合った。車が、論理くんの家の前で泊まる。論理くんは外に出て、トランクに積んであった荷物を出した。私は、ウインドウを開ける。

「論理くん」

「池田さん」

論理くんが、私の顎を手に取り、唇を近づける。みんなのいる前だったけど、堂々と私たちはキスをした。私たちの唇が離れると、お母さんがにこやかに言う。

「お二人さん、もう、いいかな?」

「うん、いいよ」

「それじゃあ、車出すわね。論理くん、ありがとね。明日からがんばるのよ」

論理くんは車から離れた。お母さんが、ゆっくりと車を出す。私は、後ろを振り向いて手を振った。街路灯の明かりの下の論理くんは、手を振り返してくれたけど、なんだか少し小さく見えた。

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