二十六、論理くん、私のヘアカットをオーダーする

二十日はいよいよ合唱コンクールだ。十七日十八日は合唱部の練習があった。西山先生は、昨年もそうだったけど、この時期は熱が入りすぎて怖いくらいだ。私たちもそれにがんばってついてきている。先生は、私たちがどこか間違えると、指揮棒を譜面台に叩きつけて怒る。私たちも気圧されないように必死に歌う。三時間の練習は、汗をかきながらもみんな一生懸命だった。そして練習が終わると、いつものように論理くんは歌声のシャワーを浴びにきてくれていた。合唱部の練習は疲れるけど、論理くんに会うとその疲れも吹き飛んだ。


十九日。いよいよ明日は合唱コンクール。練習が終わったあと、みんなで打ち合わせをする。西山先生の、「今日はよく休んで明日に備えろ」という声に送られて、私たちは音楽室をあとにした。昇降口を出ると、そこには論理くんが来ていてくれた。

「論理くん!おまたせ!」

私は、今にも抱きつきそうな勢いで論理くんに駆け寄る。

「池田さん、お疲れ。ここ、二、三日池田さんの声がすごく聞こえてきた。必死だったよね」

「うん、明日は合唱コンクールだからね。みんな必死だし私も必死になるよ。論理くん、明日のコンクール来れそう?」

「もちろん行くよ。俺もずっと前から楽しみにしてたんだ。できる限り最前列で必死に歌う池田さんを瞬き一つせず見つめ尽くすんだ!」

論理くんは、瞳をキラキラさせながら本当に瞬きをしないくらい大きく目を見開いて私を見つめた。

「あはは、ありがとう論理くん。私も、論理くんにそうやって見つめられてると思うと俄然歌いがいが出てくるよ。明日は九時半開場で十時に開演だからね。それまでに来てね」

「うん。それなら九時には来てる。うーん、明日、ほんと楽しみ!」

論理くんは、遠足前夜の小学生のような顔をしている。

「そういえば、お姉さん帰ってきた?」

「いや、まだだよ。親父が家と岩下の間に立っていろいろがんばってるけど、多分もう駄目じゃないかな。クソババアもクソババアで、また皿をひっくり返したし、養女も養女で無断外泊がバレている。もうどっちもどっちだな」

「明日は大丈夫なの?」

「いやぁ、それがさ、親父明日の朝早くから出仕事なんだよ。つまり俺が池田さんのソプラノに酔いしれているとき、やつは家で一人きりというわけだ。いいことじゃないか」

論理くんは、爽快なくらいの笑みを顔に浮かべた。

「えぇ、お母さん一人にしちゃって大丈夫なのかな…」

「悪きゃ、またうんこまみれになるだろ」

はぁ…論理くん家はやっぱり私の理解の範囲を超えてるなぁ。まぁ私が心配しててもしょうがないか。論理くんと論理くんのお父さんに任せよう。

「そうそう、論理くん、私これからヘアカットに行くの。おかっぱ伸びちゃったから、切り揃えてもらおうと思って」

私は何気なくそう伝えると、論理くんは勢いよく顔を輝かせた。

「え⁉︎池田さん髪切りにいくの?俺、それ眺めていたい!」

「え?論理くん、眺めるってどういうこと?」

私は突拍子もないことを言われて、少し笑ってしまった。

「池田さんのおかっぱがカットされて、どんどんかわいくなっていくのを後ろから残さず見たい」

「えー、嬉しいけど、なんか恥ずかしいし、そんなことってできるのかな」

「お店の人には、心を込めて頼めばわかっていただけると思う。俺やっぱり、切りたて池田さんになっていく姿が見たいんだ!」

そう熱く言う論理くん。相変わらず論理くんって面白い。よっぽどおかっぱが好きなんだなぁ。いや、私のことが好きなのか。なーんてね。

「ありがとう論理くん。じゃあ、一応お店の人に頼んでみよう。お母さんと一緒に美容室に行くから、論理くんも一緒に行こ」

私は論理くんの手を握り、帰路を辿った。


「あらあら。論理くんも今日髪の毛切るの?」

お母さんはハンドルを握りながら、私の隣に座っている論理くんに尋ねた。

「いえ、私は今日は切る予定はないです」

「あら、じゃあなんで一緒に行くのかしら?」

「池田さんがヘアカットされて、かわいらしくなっていくのを見ていたいんです」

論理くんったら、もう…。嬉し恥ずかしだよぉ。

「相変わらず仲がいいのねぇ。今のうちだよ〜」

お母さんは、そう言って私たちをからかった。

「お母さん!私たちは一生こんな感じなの!」

「まぁ、あなたたちなら、一生こんな感じだと信じてるわ」

そうこうしているうちに、車は美容室に到着した。

「いらっしゃいませー。あ、池田さん、お待ちしておりました!」

いつもヘアカットしてくれる斎藤(さいとう)さんが、元気よく出迎えてくれる。と、斎藤さんが、論理くんに目を向けた。

「こちらの方は?」

「こんにちは」

論理くんが、斎藤さんに向かって丁寧に頭を下げた。

「お手数ですが、今日は、池田さんがカットされていくのを見に来ました」

真面目な表情で斎藤さんを見つめ、そう言う論理くん。斎藤さんは、え?というような不思議な顔で、お母さんを見た。

「ということなんです。どうかお願いできないものですか?」

お母さんはにこりと笑って、斎藤さんに両手を合わせるふりをする。

「そういうことでしたら、別にいいですよ。では、シャンプーからしていきましょうか。では文香さんこちらへ」

シャンプーをしているときは論理くんはこちらへ来なかったけれど、常に論理くんの視線は感じていた。シャンプーが終わり、カットスペースに移ると、その後ろには既に椅子が用意してあり、論理くんがのしのしとそこに着いた。私も席に座り、鏡ごしに論理くんを見ると、論理くんは怖いくらいに真剣な表情で私の頭を凝視していた。

「今日はどれくらい切りましょうか?」

斎藤さんがそう聞いてきたので、私は口を開こうとする。

「えっと…」

「それではですね」

意外なところから声が飛んできた。論理くん?斎藤さんもまた、え?というような顔をしている。でも論理くんは、堂々と言葉を続ける。

「左右は、唇のラインからお願いします。そのまま後ろ上がりにカットして、真後ろは、剃り上げてあるところギリギリのところでお願いします」

論理くんは、さも当然かのようにそう斎藤さんにオーダーした。え、論理くん、なんで論理くんが私の髪をオーダーするの?それに、そんな短くなるなんて、ちょっと嫌だよぉ。

「え、論理くん、なに言ってるの?」

「その長さが池田さんに一番似合っているからだよ」

それ、似合ってるんじゃなくて、ただの論理くんの好みじゃないの?

「そ、そうなんだ…」

短いおかっぱになるけど、でも、論理くんがそう言うなら…。

「えっと…それでいいんですか?」

斎藤さんが、怪訝そうに私に尋ねる。鏡ごしにチラリと論理くんを見た。八分音符が三つ付いたような顔をしている。論理くん…私は、論理くんの喜ぶ顔が見たい!

「はい、それでお願いします」

斎藤さんのハサミが、私の襟足に触れて、ザクッと切られる。

「あ、もう少し短く」

論理くんの無情な一言。私はそんなに短くしたくないのに〜!論理くん…しかたないなぁ。斎藤さんのハサミが、論理くんの言った長さに合わせてザクザクと進んでいく。今どれくらい短くなったんだろう…不安がよぎるけれど、論理くんにいちばん似合うおかっぱを見せたい。ハサミはそのまま、左右へと進んでいく。ここでも、論理くんの「あ、もう少し短く」が出た。前の鏡を見ると、リップラインより上くらいになっている。今までのおかっぱも短かったけれど、これは特に短い。短いよぉ論理くん…。困って論理くんを見ると、こぼれ落ちんばかりの微笑みで私を見つめてくれている。論理くんすごく嬉しそう。論理くんが喜んでくれるなら、短いおかっぱでもまぁいいか。ハサミが進み、髪の毛が整えられていく。その間論理くんは、じーっと一瞬たりとも逃さないかのように、私の髪の毛が切られていくのを見つめていた。論理くんが私を、実際は私の髪の毛を、だけれど、見つめてくれている。私は、なんだかドキドキしてきた。そのうち、首と横がスースーしてきたけれど、体はなんだか熱かった。

「それじゃあ、襟足きれいにしますね。ちょっとうつむいてください」

斉藤さんがそう言う。ぎゅっと下を向く私。バリカンがうなじの毛をジャーッと剃っていく。そんな私のうなじに、論理くんの視線が熱く刺さる。そしてやがて襟剃りが終わり、ヘアブロー。それが終わると、カットラインの細かい乱れを、斎藤さんは慎重に切り揃え始めた。後ろの論理くんを見ると、眉間にしわを寄せた厳しい表情で、じっとそれを見つめている。横と後ろが全て揃えられると、斎藤さんは、私に鏡を持たせてくれて出来栄えを見せてくれた。

「はい、いいと思います」

いいと思いますとは言ったものの、思ったよりもずーっと短いおかっぱになっていた。あぅー。ところがここで、後ろから声が飛んでくる。

「すみません。この右のサイドの部分ですが、少しギザつきがあります。あと、真後ろのところから右にかけてのカットラインが傾きすぎていると思います。それから、左の耳の下にギザつきがあります。以上よろしくお願いします」

斎藤さんの表情が強張る。私の顔も強張る。論理くん、なに言ってるの…。

「あ、は、はい…わかりました」

斎藤さんは再びハサミを取って切り揃え始めた。そして、それを再び厳しい表情で見つめる論理くん。斎藤さんは、それまでよりももっと丁寧にハサミを進めた。

「揃えてみましたが、いかがですか?」

揃え終えると斎藤さんは、今度は論理くんだけにそう聞いた。

「そうですね…」

論理くんは低くつぶやき、私の右サイドから、後ろ、左サイドにかけて、念入りに点検した。そしてそのあと、ようやく穏やかな顔を見せて、

「ありがとうございます。次は前髪お願いします」

と言った。

「ではどれくらいの長さにしましょうか」

と、斎藤さん。

「えっと、眉毛の下…」

「ここはですね」

ここでも私のオーダーは儚く消し去られてしまう。

「両眉の眉頭だけがのぞいているところで、まっすぐ直線カットしていただけますか?」

「ということですけど、池田さんいかがです?」

「あぅー……」

私は唸った。眉頭が出るあたりと言えば、あと五ミリも短ければ、「オンザ」になってしまう。

「論理くぅん…前髪は勘弁してよぉ…」

「池田さん。この長さは今までの池田さんの前髪のうちで、いちばんかわいいものなんだよ」

「今までったって、それ、付き合う前に短く切りすぎたときのことでしょ」

「池田さん、あのときの前髪がオレの頭に焼き付いて離れないんだ。だから、ね!ね!」

「もう…」

あの長さはもうしたくないのに。でももう他の部分がずっとそれより短いもんね。その長さで論理くんが喜んでくれるなら。あー、論理くんに甘い私!

「わかりました斎藤さん、その長さでいいです」

背後で論理くんがまたもや、溢れんばかりの笑顔。斎藤さんは何を思っているのか、唇の端に微かな笑みを浮かべながら、私の前髪に向かった。およそ三センチ、ザクッザクッと前髪が落ちていく。それと同時に、今までとは比べものにならない女の子が、鏡の前に現れていく。その様子を、論理くんは再び厳しい表情になって見つめていた。

「一応、切りましたけれど…」

斎藤さんが控えめに言う。論理くんのオーダー通り、短く揃った前髪から、両方の眉頭だけがのぞいている。一重瞼がコンプクレックスだった両目も、前髪に隠されずに、堂々と現れてしまっている。目だけじゃなくて、鼻も口も、短い前髪の下で露わになった感じだ。普通の女の子なら、こんな場面にぶち当たったならば、

「なによこの前髪!ブサイク丸見えじゃん‼︎どうしてくれんのよ、わぁぁぁぁぁぁん‼︎」

とでもなるかもしれない。でも、私の心は穏やかだった。

「どう、論理くん?」

論理くんの顔は晴れやかだった。

「うん‼︎完璧だよ池田さん。前も横も後ろもイメージ通りだ。ありがとう‼︎」

そう。この人が喜んでくれるなら、それでいいんだ。他人がどう見ようと、自分自身がどう感じようと関係ない。論理くんが喜んでくれる限り、私は自分のヘアカットを論理くんに見てもらい続けよう。そして論理くんが喜んでくれる限り、このリップ上、眉頭上の短いおかっぱを、喜んで続けよう。


「あら、結構短くなったわね!」

待合で待っていたお母さんの第一声。私は、恥ずかしくてお母さんから目を逸らした。

「もぉ、これは論理くんのせいなの!」

「いやぁ、私のイメージどうりになってくれました!池田さぁぁん!」

論理くんが後ろから飛びついて、私のうなじの剃り跡にキスをしてくる。

「もぉ〜!やめてよ論理くん!ここ美容室だよ!」

周りの美容師さんの、あまり見てはいけないものを見てしまったかのような視線を感じる。

「ふふふ、若いわねぇ」

お母さんがそう言って朗らかに笑った。そして私たちは会計を済まし、美容室を出た。時計を見るともう五時を過ぎていて、少し涼しい風が切りたてのおかっぱをひんやりと撫でていった。私たちはお母さんの車に乗る。

「論理くん家に向かえばいいかしら?」

「はい、お願いします」

車が発進する。論理くんは終始私のおかっぱを見つめている。お母さんは、なぜかにこにこしていた。

「論理くんは、ほんとにお姉ちゃんのおかっぱが好きなのね」

「はい!もちろんです!」

論理くんは即座に元気よく答えた。私は、ぷっと吹き出してしまう。

「論理くんってほんとに面白いね…いろんな意味で」

「え、池田さん、いろんな意味ってどんな意味?」

「さぁね、まぁ、でも…」

そういうところが好きなんだけど。と言おうとしたけれど、お母さんの前で言うのは恥ずかしい…。

「そういうところが好きなんでしょ、お姉ちゃん」

ドキッ!お母さん、図星だよぉ…。

「そうなの?池田さん」

「うぅぅぅ………、…ぅん」

「池田さぁぁぁん!」

論理くんはそう言うと、右腕で私の背中を押し曲げて、私のうなじに何度もキスをした。論理くんがここまで喜んでくれて、私も嬉しかった。短いおかっぱはあまり好きじゃないけど、論理くんが喜んでくれるなら、私もこのおかっぱを好きになれるかな。

「さあさあお二人さん、仲良いところ申し訳ないけど、もうすぐ論理くんの家に着くわよ」

車は、すぐに論理くんの家の前で止まった。

「論理くん、明日はきっと来てね。私、論理くんに聞いてもらいたい」

「もちろん行くよ。たとえ何百人が歌っていても、池田さんの声だけを聞いているよ」

「ありがとう!じゃあね論理くん、また明日」

論理くんが降りて、車は出発した。いつものように論理くんは私たちの車を最後まで見送っていてくれた。

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