二十、論理くん、怖い顔をする
翌朝起きると、隣にはもう論理くんはいなかった。なんだか、論理くんと過ごした三日間が夢だったかのように思えてしかたなかった。寂しい…論理くんといつも一緒にいたい…。どうしようもない寂しさが込み上げてきて、私は項垂れた。論理くん、昨日は大丈夫だったのかな。早く合唱部の練習が終わって、論理くんに会いたかった。
「お姉ちゃん、起きた?」
私がしょんぼりしていると、お母さんが私の部屋に入ってきた。
「お母さぁん、もう、論理くんいないんだね…寂しいよぉぉ!」
私がお母さんに泣きつくと、お母さんは、やれやれというような顔をした。
「お姉ちゃん、いいじゃない、論理くんとはまた遊べば会えるし、学校が始まれば毎日会えるのよ。少しは我慢しなさい」
「うえぇぇん!そんなこと言ったって我慢なんてできないよぉぉ!」
「いい?恋愛は、会えない時間が愛を育てるのよ。ほら、歌であったでしょ。お姉ちゃんも、恋愛上手にならなきゃね」
「私は論理くんへまっしぐらの愛なの!」
お母さんは、はぁ、と、ため息をつき、私の部屋のカーテンを開けた。朝日が差し込んできて眩しい。私は、顔をしかめた。
「あとね、お姉ちゃん。お母さんとお父さんの寝室に入ったでしょ。ベッドの上で何かこぼした?シーツが汚れていたわよ」
ぎくっ!やばっ!そういえば、シーツを取り替えるの忘れてた!お母さんは、私を訝しむようにじいっと見つめた。あぁ!早く言い訳を言わなければ!
「あ、あれは…ジュースを…」
「ジュースをこぼしたの?おかしいわね、家には麦茶しかないんだけど」
うえええん!お母さんの意地悪!
「む、麦茶をこぼしたの!」
お母さんは、怖い顔をした。怒っているときの顔だ。私は、観念した。
「ごめんなさい…。本当は、潮をこぼしちゃった…」
私が小声でそう言うと、お母さんは、ぶっ、と吹き出した。
「そこまで言わなくてもいいわよ…。でもねお姉ちゃん、えっちなことをやるのはいいけれど、ちゃんと場所をわきまえてやりなさい。あと、使った物はちゃんともとの場所に戻すこと。それから、もちろん毎回しっかり避妊をすること。いいわね」
あ…もしかして、電マ、ベッドの上に置いたままだったっけ…。
「はい、わかった」
私は素直にお母さんに従おうと決めた。やっぱり素直がいちばんだよね。誰に対しても、論理くんに対しても!
「今日は合唱部の練習があるんでしょ?早く支度して朝ご飯食べなさい。あと、お姉ちゃんのベッドのシーツも洗うわね」
お母さんが、布団を捲ってシーツを取り替えようとする。と、そのとき、シーツの真ん中の辺りに茶色い輪染みができているのを発見してしまった。げっ!これは、あのときの…!お母さんもきっと、この輪染みが目に入ったんだろう、一瞬体を固まらせたけれど、何事も無かったかのように、シーツを取った。
「論理くんって…あなどれないのねぇ…」
お母さんは、ボソッとそう言った。
音楽室に入る。今日も暑い中、みんな休まずに練習に来ている。合唱コンクールまであと十日。みんな、練習に気合いが入る。
「ぶんちゃん!おはよ~。昨日はどうも」
優衣が元気に話しかけてきた。今日は乙女の顔をしていないなぁ。
「おはよ。まったく優衣も恋してるなぁ」
まさか、優衣と沢田くんが付き合ってたなんて。しかも、名前呼び捨てで呼び合ってる。私も、論理くんと、名前呼び捨てで呼び合いたい。だってそのほうがなんか親密な気がするし…。
「私のほうがびっくりしたわよ。ぶんちゃん、あんなに純真無垢でかわい~い女の子だったのに、論理と付き合いだしてから論理菌に冒されて、穢れてしまった…。論理のやつめ!」
優衣は、虚空を睨んだ。
「優衣は、義久菌に冒されたくないの?」
「……冒されたい」
優衣は顔を赤くしてそうつぶやいた。まったく、優衣もこんな顔するんだねぇ。かわいいやつめ。その一方で私は、窓の外を見る。そこにはまだ誰もいなかった。論理くん…。そのうち、西山先生がやって来て練習が始まった。自由曲の『わたしが呼吸するとき』の練習だ。ずっと思ってたけど、この曲名を見ると、論理くんのことを思い出す。論理くんは、私が呼吸するとき、私を隅々まで見てくれて、全身で感じてくれる。歌詞には、『わたしが呼吸するとき、星は光り、森の獣たちは寝返りを打つ、走り出すしまうまの群れ、飛び立つフラミンゴ、オーロラは踊る、蛍瞬き、あなたが笑う』と続く。なんだかファンタジックな歌詞で素敵だ。論理くんの感情も、こんな感じなのだろうか。最後の、『あなたが笑う』って、私にとっては論理くんのことだよね。
「さあ、気合い入れていくぞー」
西山先生の声で、みんなに気合いが入る。まずは全員で通して歌う。最初の、ピアノの音が、タララン!とあって、そのあとすぐに、『なにもかも』だ。私は、西山先生の指揮をしっかりと見る。足を肩幅に開き、歌う姿勢をとる。タララン!と鳴り、指揮棒が上に上がる。息を吸う合図だ。私は、息を大きく吸った。「すはあああっ」と私の目立つブレス音。私の肩上がったかな。お腹膨らんだかな。論理くんの顔が頭に浮かぶ。論理くん、また、聞いてくれていればいいな…。
「なーにーもーかーもわからなーくてーむねのなーかーおしよせるいらだち」
この、『いらだち』の部分を強く歌う。私は、先生に何度も教わってきたように、喉の奥を開けて、頭のてっぺんから声を出すようにして歌う。
「わたしがこきゅうするときーほしはーひかりー」
私が呼吸するとき、論理くんは二十センチのちんこが立って、それで、射精してくれる…。って、なに考えてるの!ダメダメ、歌に集中しなくちゃ!
「はしりだーすしまうまのむれー」
この、『はしりだーす』の『だーす』が、声が良く伸びるし歌いやすいから好き。それに、『しまうまのむれー』の『れー』がきれいにハモると、やったあ!ってなる。
「おーろーらはおーどるー」
このフレーズも、歌うのはソプラノだけだし、声がよく伸びる。上手く歌えるとすごく気持ちがいい。私たちは、西山先生の指揮に合わせて、額に汗を浮かべながら歌っていく。
「みたこーとーもないものあったこともーなーいひとびとよろこびかなしみすーべーてーがーいとおしい-」
ここの『よろこび』は大きく。『かなしみ』は小さく歌う。私たちのお腹から出た歌声が、音楽室の天井に当たり、バウンドしながら音楽室を飛び回って、煌めく合唱が響き渡る。もうこの音楽室は、私たちの歌声で統治されている。
「あなーたとーわーたーしー」
歌が終わった。一生懸命歌ったから、軽く汗をかいて少し疲れていた。こんな私を見たら、論理くん、また感じてくれるよね。みんななかなか上出来だったと思ったけれど、西山先生は、このフレーズもう少しはっきりと。とか、ここもう一度。とか、厳しく私たちを指導した。『わたしが呼吸するとき』の練習が終わったあとは、課題曲の『サメの社交ダンス』を練習した。
合唱部の練習が終わった。みんなそれぞれ帰り支度を始めた。私は、その前に窓の外を見る。論理くん、来てくれてるかな…。窓の下をのぞくと、やっぱり論理くんがいた!論理くん!来てくれたんだ!よかった!私は、荷物を急いでまとめて、音楽室を飛び出した。
「ぶんちゃん、どうしたのー⁉︎」
背後から聞こえる優衣の声に、私は、
「論理くん来てくれたのー!」
と叫んで答えて、階段を駆け下りる。昇降口を走って出ると、論理くんはそこにいた。
「論理くん!すはああっ、はぁっ、すはああっ、はぁっ…」
走って出てきたので、息が上がっている私の肩を論理くんがそっと抱いてくれる。
「池田さん、今日もシャワーを浴びに来たよ。今日も、池田さんのソプラノだけ聞こえてた」
「論理くん、ありがとう。昨日ラインでも聞いたけど、やっぱり心配だから家で何があったか聞かせてくれないかな」
「ちょっとちょっとぶんちゃん、飛び出して行ったかと思えば…」
振り返ると、優衣と沢田くんがいた。なんで沢田くんまで?あ、サッカー部の練習も終わったのか。
「練習が終わればすぐに、ご両人お揃いかい。まぁ、俺たちも人のことは言えないが」
「沢田、突っ込んだことを聞くけど、お前さ、向坂さんと付き合ってること、家族に言ったか?」
論理くんは、顔を曇らせて沢田くんに聞いた。
「あぁ、言ったよ。この前家に優衣が来たとき、親には御目通りした」
「親、なんか言っていたか?」
「いや、特に。いい子見つけて来たねぇとちょっと囃された程度だ」
「そうか…」
論理くんは、うつむいたまま何も言わない。少し重苦しい沈黙が流れた。
「でも論理くん!お父さんは賛成してくれてるじゃん」
私は、論理くんを慰めるように言った。
「親父は…お袋に対しては口数が少ないんだけど、池田さんのことに関しては、親父なりにがんばって協力してくれていると思う」
「やっぱり、お袋さんと姉貴さんが反対してるのか?」
沢田くんが、険しい顔をして聞く。
「知ってると思うけれど、つまりは、あいつは、自分の思うがままになる人形を一体手元に置いておきたいだけだ。その人形が自分の意思を持とうとするから、全力で反対する」
論理くんは、また怖い顔をして言った。お母さんの話になるといつも見せる怖い顔。
「なにそれ…そんなの親じゃないじゃない。…あ、ごめん」
謝る優衣に、論理くんは、軽く右手を上げて答えた。
「いいよ、向坂さん。誰よりも俺自身が、あいつのことを親だとは思っていないから」
親を親だと思えないのって、寂しいよなぁ。と、私は、何を言ったらいいのかわからないまま、論理くんを見つめた。
「じゃあ、姉貴さんは?」
「あいつは、太田家への憎しみで動いているだけだ。養女としての捻くれた意地で生きている。あいつは、誰の味方もしない」
沢田くんの問いに、論理くんは相変わらずの怖い顔で答える。
「論理の家って、噂に聞いていたよりもやばいのね…」
優衣は、若干引いている。この優衣の家も睦じい家庭で、いつ遊びに行っても暖かく迎えてもらえる。どうして、論理くんの家だけこうなんだろう。
「で、論理くん。昨日はみんな、どうだったの?」
私は、今いちばん聞きたいことを聞いた。
「学校にすら、行ってはいけない、二学期が始まっても、行く必要はない、って、誰かさんが吠え哮っていたな」
「じゃあ、なんでここにいるんだ?」
不思議そうに聞く沢田くん。私もそう思う。
「あの養女に借りを作ってしまった。昨日あいつは、俺の靴を見たことをとうとう最後まで言わなかった。なので、俺がお泊まりをしたという事実は、あのクソババアの知るところではなくなった。なので、親父も強く出れたのだろう」
「靴って何?」
優衣がそう聞くので、私はお泊りの一日目にお姉さんが来たことを話した。
「それはでかい借りだな。その借りどうする気だ?」
沢田くんが眉をひそめて言う。
「今のところ具体的に考えていないが、場合によっては肉体的な攻撃をちらつかせながらやつの口を封じていこうと思っている。もう、時がここに及んだ以上、手段を選んではいられない」
論理くんの顔は、さっきから怖くなる一方だった。
「論理くん、それはダメだよ。どうするかは一緒に考えよう」
私は、慌てて言う。
「論理、家庭内暴力は最終手段だよ。それが拗れて、児童相談所とか入ってくると、論理のほうがやばくなる。論理がやばくなったら、ぶんちゃんどうするの?」
優衣に問い詰められて、論理くんは、無念そうにうつむいて沈黙している。
「まぁ私は大丈夫だけど、それで論理くん、靴がバレてなくてよかったけど、お母さんはなんて言ってたの?」
「どこに行っていたか言えと、かなり長い間問い詰められた。髪をつかんで引きずり回された」
論理くんのその発言に、私たち三人は言葉を失った。
「で、でも、論理のお母さん、リウマチだったよね?」
「向坂さん。あいつはね、両腕は痛みはするけど少しは動くんだよ。何か気に入らないことがあると、よく髪をつかまれて引きずり回される。でも痛みはあるから、そう長いことはできない。やつが痛みに音を上げるまで、こちらは黙秘して辛抱していればいいんだ」
論理くんは、顔に怒りを滲ませながらも淡々とした口調でそう言った。私は、お母さんやお父さんにそんなことされたことはない。ほっぺを叩かれたことはあるけど、その程度だ。そのときの論理くんの気持ちを想像すると、涙が出てきそう。
「ごめん、論理くん…私のせいでそんなことさせられてしまって…」
「違う‼︎」
論理くんが、弾かれたように怒鳴った。
「池田さんは何も悪くない。あのババアのせいで、池田さんの気持ちが傷つくなら、それは世界で最も有りうべからざることだ。そのようなことを、あいつに成し遂げさせてたまるか!あいつのために、池田さんが、涙をひと粒流すなら、俺はあいつを十回蹴り倒す。池田さんが、涙をふた粒流すなら、俺はあいつを二十回バッドで殴る。池田さんが、涙を…」
「論理くん!もうやめて!」
私は叫んだ。涙が出てきて、止まらなくなった。
「論理くん、やめてよ…すはあああっ、そんなこと、論理くんに…すはあああっ、言わせたくないよ…ひっく…ひいいっく…えええ…ええええんっ!す、すはああああっ!えええええええええええんっ!」
嗚咽が出てきた。優衣が、私に寄り添ってくれて肩を抱いてくれる。
「さて、論理。今、ぶんちゃんは、何粒涙を流しているでしょう?そして論理は、何十回お母さんを殴ったり蹴ったりしなきゃいけないでしょう?」
「………………」
論理くんが言葉を失って、たたずむ。その様子が、ますます私をたまらなくさせた。
「うえええ…えええええええ…え…ええ…え…」
息が吸えない。苦しい!苦しいよ論理くんっ!
「すはあああああっ!ええええええええええええんっ!」
その場には、しばらく私の激しい泣き声だけが流れた。
「さて、それでだな」
やっと私が落ち着いたのを見定めて、沢田くんが話を続ける。
「論理は黙秘し続けたようだが、お袋さんはどうなったんだ?」
「あいつは、自分の思った通りにならないと、吐き戻したり、腹を痛めて下痢するようにできている。本当に具合が悪くなっているとは思えない。やつ流の、駄々のこね方だな。やつのゲロを養女が処分してたよ。それでよく、靴のことをバラさなかったもんだ」
「そのあとどうなったの?」
優衣が、私を抱きとめたまま聞く。
「あいつの常套手段として、いかにも体がつらそうに、『論理くんが悪いことをするから、お母さん、こんなになっちゃったわよ。もうこの先どれくらい論理くんのもとにいられるかわからない』とか、うだうだと言うんだ。いつものことだから、本式に具合が悪くなれば、そこで黙るだろうと放っておいたが、そこで親父が出てきた」
あぁ、お父さん、来てくれたんだ!私は、その言葉を聞いて、涙目で論理くんを見つめる。論理くんは、少しだけ表情を緩めて、私にこう言う。
「池田さん、泣かせてごめん。でも、池田さんには、あのクソババアの指を一本だって触れさせないから」
「ありがとう。それで、お父さんはなんて?」
「あの人には珍しく、『お前、あまりにも馬鹿馬鹿しいことやっとんな!』と、一喝した。そんな親父を見るのは、あいつもそうそうないんだろう。うだうだ言うのをやめて、キョトンと親父のほうを見ていた。親父はさらに、『無断で外泊二泊をする論理も論理だが、何をしてきたと落ち着いて聞きもせず、子どもが思うままにならんからと、醜いことこの上もないわ。論理も、もう、十四だ。いつまで幼稚園扱いをしとるんだ!』と、かなりの勢いで畳み掛けたよ」
神ぃ!お父さんは、神だ!
「それで、みんなは、神…あ、違う、お父さんの話をどう聞いたの?」
「親父は、俺に、『学校なりなんなりがあるのなら、自由に行けばいい。ただし、外泊をするなら、伝えるべきことは伝えていけ』そう言い残して居間から出ていった。あいつは、相変わらずゲロを吐いていたが、それから、俺に何も言ってこない。養女は、あいつの世話をしつつ、ときどき俺をニヤニヤと眺めてくる。今のところこんな感じだ」
論理くんは、相変わらず険しい顔をしているけど、家の中にもお父さんという味方がいるためか、話し終えて少しだけ穏やかになった。
「今のお前たちは、親父さんがいるから持ってるようなもんだな」
「そうだよ沢田くん!なんて言ったって、神なんだからね!」
「そうだねぇ、ぶんちゃんたちの命綱だもんね。そりゃ神だよ」
「だよねぇ!お父さんがいなかったら、絶対引き裂かれてた」
私たちは、三人で盛り上がる。
「たとえ、親父の助力が得られなくても、無理も通すし、横車も押しまくる覚悟はあるが」
と、論理くんがまた意地っ張りなことを言う。
「それでも、今の状況は、ありがたい。あとは、あの養女がどう動くかだ」
お姉さん…不安だな…。何を考えているんだろう。
「まあ、そのことはそのとき考えようぜ!」
沢田くんが、その場を明るく盛り立ててくれる。長い立ち話を終え、私たちはようやく校門を出た。もう、周りに生徒の姿は誰もいなかった。
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