第18話
報せを受けた冬正は、驚くべき速さで瀬田に戻って来た。
兵の大半を直正と成貞に任せ、少数の手勢だけを連れての帰還である。先触れの使者さえなかった。
屋敷を襲ったのがお壼の方である可能性が高いということで、澄久から早々に戦場を離れる許可が下りたのも大きかっただろう。
「椿! 無事か? 顔を見せよ、椿!」
帰ってくるなり愛妻の名を呼びながら、冬正は屋敷の中を闊歩する。
「冬正様、お帰りなさいませ」
「椿! 無事であったか。怪我はないか?」
「殿、なりませぬ」
重勝が間に入って止めなければ、冬正は勢いのまま椿を抱きしめたかもしれない。
「ご安心くださいませ。この通り無事でございます」
「然様か。ならばよかった」
ようやく一息吐いた冬正に、女中のお鯛が白湯を運んでくる。一気に飲み干した冬正は再び大きく息を吐くと、じっくりと椿を見つめた。
傷一つないと確かめてから重勝に顔を向ける。
「それで? 狐は何か吐いたか?」
「申し訳ございません。とっさに斬りましたゆえ、何も聞き出せませんでした。躯は念のため、屋敷から離れた場所で見張らせております」
寺を焼いた狐の妖だ。たとえ躯となっても、燃え上がらないとは限らない。
「よい。よくぞ椿を護った。礼を言う」
「もったいなきお言葉」
主従の会話を聞きながら、椿はお壼の方が最後に口にした言葉を思い出す。
「憎らしや、せきう」
「なんだ?」
「狐の妖が、最後にそう申したのでございます」
真の敵を、の下りは伝えなかった。
澄明を討つと決めたのが澄久ではなく冬正だと気付かれ、そのために椿が再び狙われたのだと知れば、冬正は自分を責めるだろう。
だから伝える必要はないと、椿は重勝達にも口止めしている。
「せきう、のう。重勝は何か思い当たらぬか?」
冬正はしばし記憶を探るように首を捻ったが、答えは出ない。
「人の名前ではありますまいか? 長田様にお尋ねするのがよろしかろうかと存じます」
重勝の言葉を採って、冬正は後日、長田家から訪れた使者に問うてみることにした。
※
水嶌家を訪れた長田家の使者達は、さっそく討ち取られた狐の妖を確認した。その姿を見せられて、使者達は一様に顔色を青ざめさせる。
「お壼の方様」
驚愕した彼らの瞳には、続いて怒気が宿った。
今は澄久に仕えているとはいえ、元主君の奥方だ。格下の水嶌家に討ちとられた元奥方の姿を見て動揺したのだろう。思わずといった様子で冬正を睨みつける。
だがすぐに我に返り、罰が悪そうに目を伏せた。それから改めてお壼の方の躯を見やり、顔を歪める。
「私どもは、狐の妖を主君の奥方様と思い、仕えていたのですね。澄明様はご存知だったのでしょうか?」
ぽつりと零れたのは、疑問を含んだ呟き。
それぞれに思う所があったのだろう。長田家からの使者達は沈痛な面持ちとなった。
重い空気がその場に流れる。ふと一人が視線をさ迷わせたかと思うと、先程以上に顔を顰めた。
「人と妖の子は、人でございましょうか?」
澄明とお壼の方の間には四人の子がいた。息子二人はすでに亡いが、娘二人は生きている。
使者達の顔色は、青から土気色へと変わった。
「警戒はしたほうがよろしいでしょうな。その女狐は、姿を変えて我が屋敷に入り込んだそうです。何もない所から火を出し、楓井寺に属する尼寺を燃やした下手人でもありますゆえ」
冬正の言葉に頷いた長田家の使者達は、暗い表情を更に暗くする。
「ところで、せきうという名にお心当たりはございませんか?」
「せきう、ですか? その者が何か?」
「お壼の方が、最期に言い残したそうです」
使者達は視線を交わし首を横に振った。
「存じませんな」
「然様ですか」
冬正は無理に聞き出すことなく、早々にお壼の方の躯を持って三本松へ引き上げる使者達を見送る。
それから急ぎ蒲野安武に向けて文を認めた。
澄明を討った後、末姫の身柄は安武の預かりとなっている。
安武が末姫に懸想していることを知る冬正が、澄久を担ぎ出すために末姫を駒として使ったからだ。
椿に危害を加えぬよう、屋敷の奥深くに閉じ込めて外には出さぬことを条件にしたが、当時とは状況が変わった。
狐の妖がお壼の方であると確認が取れた以上、末姫も同様の妖術を使うかもしれない。ただの女と侮っていては痛い目に遭う。
安武は戦場にいるため、すぐには対応できないだろう。それでも末姫の監視を強めてほしいと綴り運ばせる。
筆を置いた冬正は深く息を吐いた。
家督を直正に譲り、椿の傍にずっといられないだろうかと、無理と知りつつ思ってしまう。
※
蒲野安武が暮らす屋敷の裏手には、奇妙な離れ家があった。
一見すると、単なる小振りの屋敷に見える。だが外に繋がる戸は一つだけ。窓は灯り取りとして高い位置に設置され、その全てに格子が嵌っていた。
何より目を引くのは、屋敷を囲う柵であろう。人の背丈を超える柵には忍び返しまで施されている。
厳重な警備を抜けて家の中に入ってみれば、その豪華さに更なる違和感を覚えてしまう。
床には畳が敷き詰められ、部屋を仕切る襖には季節の花々が描かれていた。地位のある者だけに許される、趣向を凝らした贅沢な内装だ。
そんな離れ家には二人の女が暮らす。
一人は四君子模様の刺しゅうを施した絹の衣を纏う、妖艶な美しさを醸し出す娘、末姫。
長田澄明の末娘として生まれた彼女は、冬正に離縁され安武に引き取られてから、この離れ家の中で暮らしていた。
外へ出る自由はないけれど、欲しい物はほとんど与えられる。冬正のもとで冷遇される生活よりは、安武のもとへ嫁いできて幸せだったと言えるかもしれない。
むろん、彼女自身はそのようなこと、欠片も思ってはいないけれど。
「おのれ冬正め。妾を蝦蟇蛙なぞに嫁がせるなど、許すものか」
怒りを滲ませる末姫の傍には、もう一人の女――彼女の乳母よねが控える。
しかし、よねは寡黙にして何も言わない。
以前は末姫の相手をすることもあったが、この離れ家に入ってから徐々に喋らなくなり、今では表情さえ変わらなくなってしまった。
命じられたことはできるが、命じられなければ何もせず座っている。
末姫は苛立ちに任せて、安武から贈られた扇子を壁に投げつけた。
顔を上げても窓から見えるのは空のみ。どれ程叫ぼうと、食事以外の時間に人が来ることはない。
柵の向こうには見張りの兵が立っているのに、彼らは決して柵の中に入っては来なかった。
夜ごと顔を見せていた安武だけが、末姫の言葉に声を返すのだ。
醜い顔など見たくもないと、初めは離れ家を訪れた彼を拒絶して追い返す。しかし人の声を聞けぬ寂しさに負け、末姫はついに迎え入れた。
それからは、毎夜の如く通ってくる。
手は出されていない。ただ末姫の話に相槌を打ち、隣の部屋で眠り、朝になれば城に戻っていく。
そのこともまた、彼女にとって腹立たしい。
蝦蟇蛙に似た男になど触れられたくないと思う。だが一方で、先の夫である冬正に続き、安武にまで求められぬとあれば、女としての誇りが傷付いた。
「何故に、妾がこんな目に遭わねばならぬのじゃ? それにここしばらく通ってこぬのはなぜじゃ? 妾がいるというのに、側室を迎えたのではあるまいのう? 蝦蟇蛙の分際で!」
苦々しくて、苛立たしくて。
喚き散らしたところで一向に気は晴れない。
当然ながら、安武は側室など迎えてはいなかった。ただ澄久に従って戦に出掛けただけである。
だがそれらのことを、安武はあえて末姫に伝えていなかった。
じりじりと胸や頭を締め付けてくる苛立ちに、末姫は我慢ができぬ。それなのに外へ出ることさえ許されないため、発散する術さえ得られず溜まっていくばかり。
溜まりに溜まった鬱憤で、気が狂いそうだと彼女自身が思った時、声が聞こえた。
「誰じゃ?」
この離れ家で聞ける人の声は、末姫自身の声と、安武の声のみ。しかし彼女の耳が拾ったのは女の声だ。
「およねか? なんじゃ、久しぶりにそなたの声を聞いたのう」
末姫はよねに顔を向けて話しかけるが、彼女は答えない。
無視をされた怒りと、言いようのない気味の悪さが、背筋を這い登ってくる。末姫は顔を顰めて辺りを睨む。
耐え切れずよねに向けて手を振り上げた時、再び声が聞こえた。今度は先程よりも、はっきりと。
「おお、おお、可愛そうに。私の可愛い娘よ」
「誰じゃ!?」
怒鳴りつけて振り返るが、そこには誰もいない。
「憎いか? お前をここに閉じ込めた冬正が。憎いか? 冬正の心を奪う娘が」
「誰じゃ?」
姿の見えぬ声に、末姫は徐々に腰が引けていく。
無意識に膝をにじってよねの傍へ寄り、彼女の袖を握った。
「酷い娘だのう。母の声を忘れるとは」
「ひいっ!?」
座敷に青い炎が上がり、狐の姿を模っていく。炎の狐は末姫を見つめ、にまりと哂う。
「妾の母上は、お主のような化け物ではない!」
「ほんに、酷い娘だのう」
くつくつと哂う火狐は、前足を一歩進める。末姫はよねの袖を引っ張るが、よねはぴくりとも動かない。
「よね、動け。あの化け物を追い払え」
末姫の命令に、よねは答えなかった。それどころか突然燃え上がる。
「ひいっ!?」
末姫は転げるようにして飛び退けた。
手足ががくがくと震え、腰は抜けている。
よねから生じた炎は火狐のほうに飛んでいく。彼女がいたはずの場所には、狐の躯が転がっていた。
「怖がらずともよい。それは妾が作ってやった、そなたのための眷属じゃ。もういらぬからのう。力を返してもらっただけじゃ」
また一歩。火狐が末姫に近付いてくる。
「来るな! 来るな、化け物」
「ほんに、酷い娘だ」
哀しげに目蓋にしわを寄せた火狐は、口元に深い弧を描く。
「なれど、許そう。何せお前は、私の大切な依代なのだから」
火狐はとんっと跳ね上がると、末姫に襲いかかった。悲鳴を上げる間もなく、末姫の体に火狐が乗り移る。
「やはり血を分けた体は、具合がいいのう」
末姫は、にんまりと嬉しそうに哂った。
※
蒲野安武から冬正に文が届いたのは、戦を終えた武士達がそれぞれの所領に戻って間もない頃のことだった。
「蒲野安武が家臣、浮田源介にございます。主より書状をお持ちしました。急ぎ水嶌様にお報せを」
屋敷に駆け込んだ浮田は馬から転げ落ちるようにして降り、冬正との面会を乞う。
冬正は安武から急使が来たとの報せを聞いて、嫌な予感がした。とはいえまずは会わねばなるまいと、使者のもとへ急ぐ。
「某が水嶌冬正でございます。何用でありましょうか?」
「まずはこちらを」
差し出された書状を受け取り目を通した冬正の表情が、苦く顰められる。
「ばかな。なにゆえに逃げられましたか? 蒲野様ともあろうお方が、まさか野放しにしておられたわけではありますまい?」
書状には、屋敷の一部が焼け、末姫が姿をくらましたと認められていた。
「無論にございます。特別に座敷牢を造り、厳重に管理しておりました。されどあの女狐め。座敷牢に火を放ち、あろうことか屋敷まで燃やそうとしたのでございます」
舌打ちしそうな程に顔を顰めた浮田が、悔しげに拳を握りしめる。
彼の憤りを目に写しつつ、冬正はやはり娘のほうも狐の妖の力を受け継いでいたのだと、危機感を強めた。
しかし疑問も残る。
妖の力を持つのなら、なぜ今まで力を使わなかったのだろうかと。
末姫の性格を考慮すれば、水嶌の屋敷にいた頃も、安武に引き渡された時も、火を操って暴れそうなものだ。
「蒲野様はご無事でありましょうか?」
「幸いにも主だった方々は戦場に居られたため、難を逃れておられます。屋敷の被害も最小に食い止めておりますれば」
浮田はそう言うが、座敷牢が燃え、屋敷にも火を掛けられたのである。それなりの被害が出ているのだろうと、冬正は言葉の裏を読む。
「末姫様は水嶌殿を襲うのではないかと、主は案じておられました。こたびのことは当家の失態。必要とあれば援軍を送る旨、お伝えするようにと命じられております」
末姫は安武に貰われてからは、お松の方と呼ばれていた。けれど浮田は主君の妻女と認めたくないのだろう。嫁ぐ前の名で呼ぶ。
それはさておき、女一人に対して援軍を出すとまで申し出られたことに、冬正は末姫の恐ろしさを覚る。
「それ程でありましたか」
「母狐は寺を一つ焼いたと伺いましたが、よくぞ僧達だけで、寺一つに抑え込めたと感心いたしまする。母と娘では力量が違うのかもしれませぬが、あれは人の手には負えませぬ」
冬正は尼寺が燃えるのを自分の目で見た。
お壼の方は、僧達に抑え込まれたわけではない。目的であった椿を海に落としたことで満足し、寺から去ったのだろうと彼は予測する。
そう考えると、安武の松浜城が無事であったのは、そこが末姫の目的ではなかったからであろうかと思われた。
では何が目的かと考えを廻らし、冬正は拳を握りしめる。
冬正の身を狙ってくるのであればいいが、母狐同様に、椿を狙ってくる可能性が高いだろう。想像するだけで身の毛がよだつ。
「分かり申した。わざわざお報せいただき、かたじけなく存じます。ところで浮田殿は、せきうという名にお心当たりはございませぬか?」
「せきう、でございますか? さて? 某にお尋ねになるということは、長田様の縁者でございましょうか?」
「お壼の方様が、死の間際にその名を言い残したそうです。『憎らしや、せきう』と。そこで息絶えたので、人の名であるのかも続きがあるのかも、はっきりいたしませぬ」
「はて?」
結局、浮田もせきうという名に思い当たる人物は浮かばず、この話はお開きとなった。
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