第17話
数年ぶりに足を踏み入れた瀬田の地は、以前にも増して活気に溢れていた。山の上には城が築かれ、水嶌家の発展を窺わせる。
椿を乗せた駕籠は、かつて暮らした屋敷へ向かう。
「少し寄り道をしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。構いません」
椿の了承を得た成貞は、城山のほうへ向かうよう指示を出した。
一向は門を潜り、山道を登っていく。しばらくして籠が止まり、椿は外へ出た。
視界に映る光景を見て、椿は言葉を失う。
白や紅の花を咲かせた寒つばきが、斜面を埋め尽くしていたから。
「屋敷だけでは足りませんので」
成貞は呆れ交じりに苦笑する。
冬正のつばき狂いは、彼の活躍と共に噂となって広まっていった。今では遠方から珍しい寒つばきを携えて、売り込みにくる浪人まで現れる始末だ。
「武芸を見てくれと訪ねてくるのなら分かりますが、花を見てくれとやってくる武士など、他家では見られませんよ」
もっとも、寒つばきは菓子折り代わりで、冬正に会うための口実でしかない。実際に水嶌家へ取り立てるかどうかは、実力や為人を見て判断するのだが。
面白おかしく話す成貞に、椿もくすりと笑ってしまう。
椿はあらためて寒つばきに目を向ける。
冬正はどのような思いでこれらの木々を植えたのだろうか。どのような気持ちで眺めていたのだろうか。
一本一本の寒つばきから、冬正の愛情が伝わってくるようだ。それと同時に、どれ程彼を苦しめたのかを思い知らされる。
「私は、ずいぶんと身勝手なことをしてしまったのですね」
彼女の呟きは、風に揺らされた梢がさらっていった。
目尻に浮かぶ涙を人に見られまいと、椿は袖でそっと拭う。
「連れてきてくださり、ありがとうございました」
胸いっぱいに広がった感情が落ち付くと、椿は成貞に礼を言った。
再び駕籠に乗り、水嶌家の屋敷に辿り着く。門前では義弟の直正が出迎えた。
「義姉上、お懐かしゅうございます。お元気そうで安心いたしました」
「直正殿も、お元気そうで何よりでございます。しばらく見ぬうちに、ますますご立派になられて」
直正に案内されて、椿は慣れた屋敷の中を進む。
庭を見やれば、こちらにも寒つばきが幾本も植えられていた。
葉の一枚一枚まで丁寧に世話をしているのだろう。深い緑が艶やかに輝き、花も染み一つ見当たらない。
「暇を見つけては、兄上自ら世話をなさっておられました。兄上は寒つばきに懸想しておられるのではと、女中達が噂しているそうです」
「まあ」
悪戯っぽく告げる直正に笑顔を返しながら、椿は胸が熱くなるのを抑えられない。庭を眺めるふりを装って直正の視線から逃げると、唇の内側を噛んで涙を呑み込んだ。
椿に用意されていた部屋では、かつて彼女に仕えてくれていた女中達が出迎えた。
「奥方様、お帰りなさいませ」
「留守の間、家を守ってくれて感謝します。皆、これからもよく私と冬正様に仕えてちょうだい」
震えそうになる声を叱咤して、椿は彼女達に答える。
瀬田に戻ってきた以上、彼女は水嶌冬正の妻であり、この屋敷の女主人なのだ。相応の振る舞いを求められる。
「無論にございます。またお仕えすることができて嬉しゅうございます」
顔を上げた女中達の目元は、濡れて光っていた。椿の目も、耐え切れず滲んでいく。
「さ、奥方様、お疲れでございましょう? 茶菓をご用意しておりますから、今日はどうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」
「ありがとう」
「それでは義姉上、私はこれで失礼いたします」
「直正殿、案内していただき、ありがとうございました」
女ばかりになった部屋で、椿は彼女がいない間に起きた出来事を、顔なじみの女中達から教えられた。
「殿様ってば、寒つばきの花を愛でるばかりか、朱丸様を我が子のように可愛がっておられたのですよ。屋敷にいる間は、いつも傍に置いておられて」
「まあ。朱丸は元気?」
「もちろんでございます。お連れいたしましょうね」
お鯨が立ち上がり、鳥小屋から鳥籠に移した朱丸を連れてくる。懐かしい鳥を見て、椿の表情は自然と綻んだ。
「元気にしていた? 朱丸。私のことを憶えているかしら?」
朱丸は椿を見るなり翼を広げ、籠越しに身を寄せて甘える。籠から出してやれば、すぐに飛びついてきた。
「お前は相変わらず甘えん坊さんね」
頭から背に掛けて包み込むように撫でると、気持ちよさそうに目を細める。もっと撫でろとばかりに、自ら頭を椿の掌に擦りつけてきた。
一しきり甘えて興奮が落ち付けば、今度は椿の膝の上で丸くなる。
「まるで猫ですね」
女中達にくすくすと笑われても、朱丸は知らん顔だ。その内に、気持ちよさそうに舟をこぎ始める。
長く留守にしていたのが嘘だったかのように、椿は水嶌の屋敷にすんなりと馴染んでいった。
椿が水嶌の屋敷に戻ってから遅れること数日。冬正も屋敷に戻ってきた。
成貞から大丈夫だと伝えられていても、彼の体調が気掛かりだった椿。冬正の元気な姿を見て一安心する。
冬正は椿から一定の距離を置いて座ると、彼女を熱い眼差しで見つめた。しばらくして感極まったように口を一文字に結び、目蓋を閉じる。
大きく息を吐いてから、再び椿を柔らかな瞳に映した。
「触れるなと言うのなら、もう触れはせぬ。だからもう、どこにも行かないでくれ。私の手が届かぬところでそなたに万が一のことがあれば、私の心の臓が持たぬ」
縋るように椿へ訴える。
「もうどこにも行きませぬ。私の浅慮でご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
深く頭を垂れて謝る椿に手を伸ばし掛けた冬正だったが、彼女に触れることなく、その手を握りしめて引き戻す。
「謝る必要はない。そなたは私の身を案じて遠ざかったのであろう? 謝らねばならぬのは、感情に任せてそなたを追い込んだ、私のほうだ。どうか許してほしい」
「許すなどと。冬正様を責める理由など、どこにありましょうか」
「では椿も、もう謝ってくれるな。私は迷惑だなどと一度も思ったことはない」
見つめ合う二人は、どちらからともなく自然と顔を綻ばせた。
※
水嶌家に戻ってから、椿は毎日冬正と顔を合わせた。冬正は一定の距離を保ち、決して彼女に触れない。
それは彼の命を守るために必要なことであり、椿自身も望んだこと。だというのに、彼女はもどかしい切なさを覚えてしまう。
身勝手な悩みに溜め息を落としつつも、椿は冬正が隣にいる幸せを噛みしめる。
「椿、不自由はしていないか?」
「いいえ。よくしていただいておりますから」
「そうか。何かあれば遠慮なく言うのだぞ?」
「ありがとうございます」
穏やかな日々が続いたのは、束の間のことだった。
草木が芽吹く前に、冬正は戦に出かけていく。
澄明を廃して長田家を継いだ澄久に反発する勢力が、定期的に戦を仕掛けてくるのだ。その他にも澄久の名が上がったことで、他国からちょっかいをかけられることもあった。
澄久に仕える冬正は、これらの戦いに参戦を余儀なくされる。
そうして主だった男衆が戦場に出て、屋敷に残る者のほとんどが女と老人ばかりとなったある日。朱丸が騒がしく鳴いた。
椿は以前にも似たことがあったと、胸に不安の火を燻らせる。冬正が戦場で重傷を負った時も、朱丸はこうして騒いだのだ。
女中達や椿の護衛として控えている東重勝も、心配そうに手を止めて鳥小屋のほうを見た。
皆、冬正が瀕死の重傷を負った日に、朱丸に異変があったことは知っている。そして椿がお壼の方に襲われた日に騒いだ姿も憶えていた。
立ち上がった椿は鳥小屋へ向かう。
「どうしたの? 朱丸」
椿をつぶらな瞳に映すなり、朱丸は彼女を見つめてぴいっと鳴く。それから戸を開けてくれとばかりに、小屋の柵を突つき始めた。
「外に出たいのね?」
小屋の戸を開けてやると、跳躍して椿の胸元へ飛び込んだ。
椿は驚きながら、落とさぬよう抱きとめる。
「今日はどうしたの?」
冬正が死地をさ迷った際は、朱丸は木に登り戦場の方角を見つめていた。しかし今回は、そうした行動をとらない。
子が母に甘えるように身を寄せて、椿の顔をじっと見上げる。
「冬正様に何かあったわけではないのね?」
問えば朱丸は、不思議そうに首を傾げた。
冬正の身に何かがあったわけではないらしいと覚り、椿はほっと胸を撫で下ろす。
「驚かせて。困った子ね」
そう言って指の腹で頭の上を軽く小突くと、遊んでもらえると思ったのか嘴で啄み返す。
椿は朱丸の背を撫でながら部屋に戻った。
柔らかな羽毛はないけれど、温かな彼の体は抱きかかえていると不安を吸い取ってくれる。
「奥方様、朱丸様のご様子はいかがでございましたか?」
問うたのは重勝だ。
彼は左半身に火傷の痕がある。更には椿が尼寺に籠っている間に戦で左足を負傷し、足を引き摺って歩く。
戦場に出ることのできない男が武士であり続けることは難しい。彼も例に漏れず、冬正の側近の座から退いていた。
その後、得意の絵筆を取って生計を立てようと都に上がり、絵師に弟子入りする。だが椿が還俗したのを切っ掛けに、冬正に呼び戻された。
戦となれば、城は手薄になる。椿を残していくことを心配した冬正が、居合の名手であった彼を椿の側に置くことを考え付いたのだ。
走ることはできずとも、城の中で女一人を護る程度ならば重勝にもできる。
それに幼い頃から冬正に仕えていたため椿とも顔なじみであり、彼女が気を使うこともない。
これ程の人材はあるまいと満足そうに命じた冬正に、重勝は笑って快諾した。
「もう落ち着きましたよ。虫の居所でも悪かったのかしら?」
椿の言葉を聞いて、部屋にいた女中達から安堵の息が漏れる。
重勝も表情を和らげた。けれど油断はしていない。朱丸が騒いだ過去の例から何かが起こると予感し、さり気なく自分の太刀の鞘を指先で撫でる。
そこへ報せが入った。
「奥方様、蒲野様から使者がお出でです」
「蒲野様から? どのようなご用件でしょうか?」
「内々の話ですので、奥方様にしかお伝えできぬと申しております」
一瞬、椿は足下が揺れた気がして息が詰まる。
蒲野安武は、冬正が親しくしている澄久の側近だ。こたびの戦には彼も出陣していた。
先程朱丸が騒いでいた件もある。冬正の身に何かが起きたのではないかと、椿の胸中で不安が渦を巻く。
強張った体と心を解すため、椿はゆっくりと息を吐き出した。
「お会いしましょう。表書院へお通ししてちょうだい」
椿はお鯨に朱丸を預けようとしたが、朱丸は椿の小袖に爪を立てて離れない。
礼儀に反して申し訳なく思う椿だけれども待たせるほうが不作法だろうと、ためらいながらも朱丸を連れたまま部屋を移動する。
先に待っていた使者は、椿が連れている朱丸を見て眉をひそめた。
しかしすぐに兜を付けたままの頭を垂れる。
戦場から駆けてきたからだろう。具足には土埃が付いていた。
椿が使者の正面に座ると、左脇に重勝が控える。更に女中達も、椿を護れる位置に座った。
「どうぞご用件を」
「お人払いをお願いいたします」
椿がすぐ脇に控える重勝を見やると、彼は小さく頷く。それを受けて女中達が立ち去った。
「そちらのお方と、その鳥も」
「この者は冬正の兄弟のようなもの。隠す必要はございませぬ。鳥に関しては、申し訳ありませぬが、今日はなぜか離れてくれぬのです。どうぞ気にせずお話しください」
「しかし、内々にとのお達しでありますれば」
「この者に隠す必要はございませぬと申しております。それでも気掛かりと言うのであれば、責めは私が取りましょう」
使者が不快気に目を細めたが、椿はひるまず毅然とした態度を貫く。
冬正の留守を預かっている以上、今は椿が屋敷の主だ。水嶌の名を落とさないためにも、怖気づくことは許されない。
重勝を下げない椿に苛立ってか、使者の爪が床を掻く。その行動を見逃さなかった重勝の左手が、膝横に置いていた太刀に伸びる。
「ええい! もうよいわ!」
使者が叫ぶと同時。彼の体が発火し、火達磨となって椿に襲いかかってきた。
椿は驚きに目を瞠る。逃げることもできず、腕の中の朱丸をぎゅっと抱く。
しかし燃える使者が椿を傷付けることはなかった。
一瞬にして椿と使者の間に滑り込んだ重勝が、刀身を滑らせる。
ちきりと唾鳴りの音がした時には、重勝が椿に背を向けて片膝立ちの姿勢となっていた。彼の左手には、鞘に納めた太刀が握られている。
「出合えっ! 曲者だ!」
重勝の声が空気を震わせた。
途端に屋敷の中が慌ただしくなり、薙刀を構えた女達が部屋になだれ込む。
数人が椿を護るように立ちはだかり、残りは使者を囲んで穂先を突きつけた。
赤い海の中でもがく使者が顔を上げる。
憎々しげに、重勝を挟んで椿を睨んだ。
その敵意に満ちた顔を見て、椿と女達は驚き困惑した。
使者の顔は、先程までとは似ても似つかぬ女の顔となっていたのだ。
椿はその顔に覚えがあった。尼寺で彼女を襲った、お壼の方とよく似ている。
まさかと動揺しながら成り行きを窺った。
「奥方様。動かれませぬよう」
警戒を強めた重勝に、椿は動揺しつつも頷く。
「真の敵を見つけ、その宝を奪えると思うたのに、二度もしくじるとは。憎らしや、せきう……」
憎しみの言葉を残し、女は床に伏した。
使者を囲む女達の一人が穂先で突く。動かないことを確認すると仰向けた。それからおそるおそる兜を取る。
兜の下から現れたのは、狐の耳。
「奥方様。こやつは尼寺で奥方様を襲った女狐めでございましょうか?」
尼寺での出来事を聞いている重勝が、確認するため椿に躯を見せた。
「ええ、間違いありません」
青ざめた顔の椿が頷くと、重勝は指示を飛ばす。
「殿に一刻も早く、このことをお伝えせよ。それと長田家にも使者を。お壼の方様の顔を知る者をお寄こしくださるよう、お願い申せ」
それから重勝の指揮により、屋敷の警戒を強めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます