第16話

 椿が運び込まれたのは、門前町にある旅籠の一つだった。

 先触れを出していたのだろう。通された部屋には、炭を熾した火鉢が幾つも置かれている。

 すぐに椿は、宿の女達によって乾いた小袖に着替えさせられた。更に温めた石を布で包んだ温石を抱えさせられる。

 冷え切っていた椿の体は、徐々に温もりを取り戻していった。

 温かな白湯を頂いてようやく人心地着いた頃、成貞が顔を出す。


「尼僧達は全員避難してご無事とのことです。火の粉で火傷を負うた者はいるようですが、大したことはないとのことでございました。奥方様をこちらで保護したことも伝えておりますので、安心してお休みください」

「教えてくださりありがとうございます。それで、冬正様の具合は?」


 薄情だと思いつつも、椿は共に生活をしていた尼僧よりも、冬正の身が心配だった。


「大丈夫でございますよ。岩で少々足を切っておられましたので、先程手当てを済まされました。お会いになりますか? お顔をお見せになれば、お喜びになるでしょう」


 成貞の勧めに椿は怯む。

 会いたいかと聞かれれば、会いたいに決まっている。水嶌の家を出てから今日まで、一日たりとて彼のことを思い出さない日はなかった。

 我ながら未練たらしいと呆れるが、冬正を慕う気持ちだけは、どれ程御仏に念じても消えることなく残ったままだ。

 だからこそ会うわけにはいかないと、彼女は自分を戒める。

 会えばそのまま傍にいたくなるだろう。傍にいれば触れたくなるに違いない。そして触れれば、冬正を蝕んでしまう。

 だから、彼女の答えは決まっていた。


「ご無事ならばよいのです。それよりも、尼寺で見たことをお話しします」


 冬正と会おうとしない椿に、成貞は釈然としない表情を見せる。だがすぐに切り替えて、聞く姿勢を取った。

 椿は呼吸を整えてから口を開く。


「狐の妖が出たのでございます。火を操り、尼寺を燃やしました。長田澄久様のことを恨んでいる様子で、私が狙いだと申しておりました」

「奥方様を? なにゆえにでございましょうか?」


 椿は言葉に詰まった。

 澄久の妾と間違われたなどと、冬正の耳に入れたくない。しかし伝えなければ、お壼の方の目的が伝わらず冬正達を混乱させてしまう。


「澄久様と幾度かお会いしたことがありましたので、親しい者だと勘違いしたようです。私を弑して澄久様のお心を苦しめるのだと、そう申しておりました」

「それはまた、とんだとばっちりでございましたね。狐の妖につきましては、まだ報告が上がっておりませぬ。念のため今夜は我々が護衛しますので、奥方様はご安心してお休みください。澄久様には殿のほうからお伝えいただきますゆえ、お気になさいませぬよう」


 成貞達にとって椿は、今も主君冬正の愛妻であり、護るべき存在だ。

 しかし椿はそんなふうには考えていなかった。彼女はすでに水嶌家を出た身である。彼らに護ってもらう権利などないと思う。

 申し出を断ろうと口を開きかけて、ふと言葉を止めた。

 もしもまたお壼の方が彼女を狙ってきた場合、周囲の者を巻き込む可能性がある。尼僧達と共にいては、彼女達の命まで危険に晒されてしまうだろう。

 その点、戦いに慣れた成貞達であれば、もっと的確に対応できるはずだ。

 逡巡した椿だったが、成貞の申し出に甘えることにする。


「ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いいたします」

「迷惑だなどと、とんでもございません。奥方様をお護りするのは、冬正様にお仕えする者として当然の務めにございますれば」


 にこやかに応じた成貞は、椿が訂正を入れる前に話は終わったと切り上げて、温かな粥を運ばせる。


「夕餉はまだでございましょう? どうぞ。体も暖まりますから」

「ありがとうございます」


 添えられた匙を取って粥を啜ると、体の内側から優しく温まっていく。椿はほっと息を吐いた。

 気持ちが落ち着けば、別のことにも意識が向くものだ。


「ところで、なぜ冬正様があの場所におられたのですか?」


 冬正が椿を救ったのは、偶然と呼ぶにはあまりに間がよすぎた。

 疑問を抱いた椿に、成貞は事の次第を説明する。


「朱丸様が報せてくれたのです」

「朱丸がですか?」

「然様。今朝方のことでございます。いつも穏やかな朱丸様の機嫌が悪く、しかしお体には不調が見当たらず。女中達に聞けば、以前にも同じことがあったとか」


 確かめるように目を覗かれて、椿は頷く。

 冬正が大火傷を負った時も、朱丸は夜明け前から騒ぎ落ち着かなかった。


「それを聞いた冬正様が、奥方様の身に何かあったのではないかと危惧なされまして、馬を飛ばしてきたのでございます。着いてみれば、尼寺が燃えているではありませんか」


 間に合ってようございましたと、成貞は微笑する。続いて寺が燃えているのを見た時は生きた心地がしなかったと、眉をぎゅっと寄せた。


「心配してくれてありがとうございます」

「当然のことでございます。さて、これ以上長居してお体に障ってはいけませぬ。そろそろお休みくださいませ」


 成貞は水嶌の家にいた頃と同じように、丁寧に礼をして部屋を辞する。

 その夜、椿はその旅籠で一夜を過ごした。




 椿の部屋を出た成貞は、彼女の警護を他の者達に任せて冬正のもとに戻った。


「殿のご容態は?」


 問われた男は無言で首を横に振る。

 冬正は椿を岸まで運び成貞達に託すと、意識を失ってしまった。

 事前にこうなる可能性を告げられていなければ、成貞達は狼狽え、騒いでいただろう。

 水嶌の屋敷から尼寺に向かうまでの道中で、冬正は、自身の命がもたぬかもしれぬと家臣達に告げた。そして同時に、そのことをなるべく椿に覚らせぬようにと厳命したのだ。

 成貞達は、椿と冬正の間に起きた、人智を超えた現象を目撃している。

 戦で大火傷を負い死の縁にいたはずなのに、一夜にして完治した主の姿を。そして身代わりのように変わり果てた姿になってしまった、若い奥方の姿を。

 更には椿が出家して冬正から距離を置いた途端に、彼はみるみる回復していったのだ。

 だから冬正の突拍子もない話を聞いても疑問を持たなかった。

 きっと神仏が冬正の命を救う代償として、二人に試練を与えたのだろうと考える。


 とはいえ自分達の主が命を賭すことまで納得できるはずがない。しかしそれでも、彼らは異を唱えず従う道を選んだ。

 椿が水嶌家を出て行ってから冬正が心を壊していく姿も、目の当たりにしていたから。

 幾つになっても子供っぽい所があった心優しき主は、寡黙で冷酷な男へと変わってしまった。

 もしも愛する妻をこの世から失ってしまったら、冬正はいったい、どうなってしまうのか。想像するだけで痛ましく、そして、恐ろしく思う。

 だから冬正の選択を、彼らは止められなかった。


「殿。奥方様も、殿のことをご案じなさっておられました。どうぞ現世へお戻りくだいませ」


 沈痛な空気の中、成貞は主君に代わって指揮を執る。

 冬正が眠っている間に椿を狐の妖ごときに奪われてなるものかと、夜も眠らず指示を飛ばした。




 結局、お壼の方の襲撃もなく夜が明けた。

 椿は何事もなく一夜を過ごせたことを御仏に感謝する。だがそれはつまり、お壼の方が野放しになっているということだ。

 いつまた狙われるか分からない以上、もう寺に身を寄せ続けるべきではないと彼女は思う。

 だからといって、火を操る妖を椿が一人で相手取れるはずもない。

 これからの身の振り方を考えると、どうしても気が重くなってしまった。


「奥方様、よろしゅうございますか?」

「どうぞ」

「失礼いたします」


 朝餉を終えた頃合いを見計らって訪れた成貞が、昨日の顛末を語る。

 尼寺は全焼。幸いにも死者はおらず、負傷者も軽い火傷のみで済んでいる。周囲の山に延焼することもなく、夜明け前には鎮火された。


「人をやって調べてみましたが、人はもちろん、狐の躯も見つからなかったそうです。奥方様を襲った妖はどこかへ逃げ隠れたのでしょう」

「そうですか。教えてくれて、ありがとうございます」

「それと、これはまだ予想でしかないないのですが。狐の妖はもしやすると、お壼の方ではないかと思われます」

「お壼の方?」


 誰であっただろうかと、椿は記憶を手繰る。


「たしか、長田澄明様の奥方様であられましたね? お橘の方様の後添えに迎えられた」

「然様でございます。澄明を討ち取った際、城に火を放たれ、逃げられてございます」


 狐が人に化けて大名の傍にいたなど、にわかには信じがたい話だ。

 椿は困惑するけれど、成貞は平然としている。


「有力な武将の傍に妖がいることは、珍しくないのでございます。優れた武人ゆえに妖が力を貸すのか、妖が力を貸すがゆえに武将として名を馳せるのかは、某には分かりかねますが」


 苦い顔をした成貞の脳裏には、かつて冬正を瀕死に追いやった、比良の姿があった。

 彼もまた裂蜘蛛と呼ばれる妖を使役し、最期は城ごと燃え落ちている。

 納得した様子の椿を、成貞がじっと見つめた。

 彼女の言葉を待っているようにも見えるし、何か言いたいことがあるのに呑み込もうとしているようにも見える。

 椿は成貞から、そっと視線を逸らした。

 彼が求めていることが分かってしまったから。

 七つの時から近くにいたのだ。冬正程ではなくとも、考えていることは読める。

 成貞は椿に、水嶌家に戻って来るよう訴えているのだ。

 彼女の仕草で拒絶を感じ取った成貞は、目蓋を伏せた。気持ちを整えるために一つ息を吐いてから、視線を庭へ向ける。


「冬正様は、末姫様に一切手を触れておりませぬ。娶ったのは、そうせねば奥方様に危害を加えると脅されたからでございます」


 伝えられた真実に、はっと顔を上げた椿の顔が歪む。

 逃げるようにして冬正のもとを去ったというのに、彼は彼女を見限ることなく、守り続けていたのだ。

 それなのに、椿は冬正が末姫を娶ったと耳にした際、裏切られたと感じてしまった。

 彼の本心を知らぬまま身勝手な感情を抱いた己の醜さに、椿は胸を掻き毟りたくなる。


「これは、私の独り言です。我々武士は、いつ命を落とすか分かりませぬ。今日元気に語り合った友が、明日には仏となっていることもございます」


 椿が離れているからといって、冬正が生き続けられるとは限らないのだ。いつ戦で命を落とすかしれない身なのだから。

 考えないようにしていた現実を突きつけられ、椿は唇を噛む。


「生きることへの執着が弱き者は、命を落としやすうございます。生きることへの執着が強き者は、思わぬ窮地からも生還することがございます」


 視線を庭から戻し、ひたと椿を見つめる成貞の目は、言葉以上に訴えかけていた。

 帰って来いと。冬正のもとに戻ることを恐れるなと。冬正をこの世に留める楔となれと。


「水嶌家は大きくなりました。なれど、殿は嬉しそうに見えませぬ。穏やかな表情をなさりますのは、寒つばきの世話をしている時だけ」


 冬正は椿のためにと、市などで珍しい苗を見つけては買い求め、噂を聞いては取り寄せていた。

 それは椿が水嶌家を出て行ってからも変わらない。むしろ椿がいなくなってからのほうが熱がこもっていく。

 冬正は寒つばきの花々を愛でる間だけは、昔の優しい眼差しを取り戻すのだと成貞は言う。


「女中達は悔いておりました。あの日、お叱りを受けても殿をお止めし、奥方様をお助けするのであったと」


 淡々と喋る成貞の声が、椿の心に染みていった。

 ぽたりと落ちた雫が、床板に染みを作る。

 冬正の身を案じて水嶌家から飛び出した椿は、長年仕えてくれた女中達の気持ちにまで考えが及ばなかった。

 己の傲慢さを悔やみながら、一人一人の顔を思い出す。

 幼い頃から、母や姉のように接してくれた、大切な人達。自然と感謝と望郷の念が湧いてくる。


「殿が奥方様に触れようとなされたなら、我々が全力でお止めいたします。ですからどうか、お戻りくださいませ。奥方様を失ってからの殿は、見ておられませぬ」


 成貞はその場に手を突き、額を床へ擦りつけた。

 部屋の外で待機し、聞くともなしに話を耳にしていた者達も、祈るように目を閉じる。


「かならずや、奥方様も殿も、我々がお護りするとお誓いいたします」


 椿の中で、抑え込んできたものが決壊した。熱いものが目から溢れ出し、頬を焼いていく。

 彼女とて、望んで冬正のもとから離れたわけではない。

 椿が傍にいては冬正の命を脅かしてしまう。そう知ったから、身を裂く思いで離れたのだ。

 けれど、距離を置いても、時間が経っても、冬正に向ける想いは褪せることなく彼女の胸を焦がし続ける。


 昨夕、冬正に助けられた時、椿は嬉しいと喜んでしまった。

 自分に触れることで、冬正が命を落としてしまうかもしれないのに。

 再び彼の姿を己の目に映せたことを、温もりを感じられたことを、魂が震える程に歓喜したのだ。

 その気持ちを夜の間に抑え込み、蓋をした。それなのに、成貞の言葉で蓋は容易く壊されてしまう。

 しかし椿は激情に呑まれるわけにはいかないと、自分を諌る。細くても繋がっていた縁の糸を断ち切るために、鉈を振りあげた。


「次に冬正様が私に触れれば、冬正様のお命はないかもしれぬと告げられました」


 冬正の命が懸かっているのだ。彼を大切に思う成貞ならば引き下がるに違いない。

 椿は正しい選択をしている思いながらも、胸を引き裂かれるような痛みを覚える。それを目蓋を強く瞑ってやり過ごす。

 しかし成貞は引き下がらなかった。

 強い決意を燃やす瞳で、椿をひたと見つめる。


「殿は今も生きておいでです。どうか殿を信じてくださいませ。あのお方は、奥方様を残してこの世を去ったりなどなさりませぬ。奥方様がお傍にいてくださるならば、きっと閻魔大王さえ脅して生き続けましょう」


 射抜くように強い眼差しで椿を見つめる成貞の口元は、不敵に笑う。

 そうかもしれない、と椿は思ってしまった。気付けば彼女も釣られるようにして笑みを浮かべている。

 笑いながら、二人の心は泣いていた。

 なぜ愛し合う二人に、神はこんなにも残酷な試練を与えるのかと。


 椿が成貞達に護衛されて旅籠を発ったのは、その日の昼前のこと。

 世話になった楓井寺や尼寺の者達に、別れも告げずに発つことに思う節はあった椿だが、下手に顔を出してお壼の方に見つかれば再び巻き込みかねない。

 旅籠を発つ時に、寺のほうに向かい深く頭を下げた。心の内で礼を述べてから、彼女は用意されていた駕籠に乗り込む。


「念のため、冬正様は後から出立いたします。奥方様のお顔を見たら、ご自身の馬に乗せると言い出しかねませんから」

「まあ」


 成貞の軽口に思わず噴き出した椿だが、否定はできない。

 なにせ椿が水嶌の家にいた頃、冬正は椿を愛馬に乗せて領地中を連れ歩いていたのだから。

 胸に引っ掛かる一抹の不安を抱えながら、椿は瀬田へ続く街道を進んだ。

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