第15話
世俗から離れている椿の耳にも、長田澄明が討たれた噂は耳に届いた。
澄久の話から冬正も関与していると予想した椿は、彼の無事を祈る。体はもとより、心のほうも心配だった。
椿の知る冬正であれば、謀反になど加わらなかっただろう。
なぜ加わったのか。どのような心境の変化があったのか。
考える程に心が騒めいた。
「冬正様」
御仏の像と向かい合っていても、浮かぶのは冬正の顔ばかり。
これではいつになっても煩悩を捨て去ることはできなさそうだと、椿は自嘲する。
長田家の乱は、各地に影響を与えた。けれど尼寺の奥にいる椿の生活は、然して変わらない。
日々は過ぎ、季節は春から夏へと移り変わる。
薫風が青々とした梢を揺らしながら通り抜けていく小道を、椿は登っていく。辿り着いた先の楓井寺では、かつて雨洗と名乗っていた男が待っていた。
「久しぶりだね」
「お元気そうで何よりでございます」
長田澄久と名を戻した彼は、実の父を討ち、長田家を継いだ。その後に続いた内外の争いでも勝ち戦を重ね、着々と名を広めている。
「お噂は耳に挟んでおります。ご活躍の程、お慶び申し上げます」
「ありがとう。君の夫君の功績が大きいよ。まったく、父と妹はとんでもないものを叩き起こしてしまったらしい」
柔らかな微笑を保ちつつも、澄久の眉は正直だった。きゅっと身を寄せ合わせて、苦労を嘆く。
椿の耳にも冬正の噂は届いている。
世俗を離れているため細部までは入ってこないけれど、それでも寺を訪れる者や町に出かけた者達から、話を聞くことがあった。
「獅子奮迅と言えば聞こえはいいが、あれは鬼だよ」
世俗を離れていた彼を引きずり出して長田家の当主に据えた男の顔を思い浮かべたのか、澄久が苦く顔を歪める。
澄久が目にした水嶌冬正という男は、椿から聞いていた人物とは全く違っていた。蒲野安武や他の男達が言っていた通りの、血も涙もない冷徹な男だ。
現に冬正は、澄明を討つのに邪魔になるとして、先に実の親を隠居させている。
そして容赦なく澄明や彼に与する者達を討ち果たし、妻として迎えていた末姫を惜しむ素振りもなく安武に礼として差し出した。
たとえ心は他の女にあっても、一時は夫婦として共に過ごした相手をだ。
僅かでも情があるだろうと考えていた澄久は、それが誤りであったと、冬正の末姫に向ける目を見て悟る。
冬正が末姫に向ける目には、殺意しか浮かんでいなかった。
もしも安武が、協力する条件の一つに末姫の身柄を入れてなければ、彼女は澄明より先に命を落としていただろう。
澄久にとっては末姫も可愛い妹だ。結果として彼女の命を救ってくれた安武に感謝した。
とはいえ、そのことで冬正を恨む気持ちはない。
椿と直接会って話したことで、彼女と冬正がどれ程仲睦まじい夫婦だったのか理解している。
そして末姫が仕出かしたことは家臣達から聞いた。
双方の話を含めて考えれば、末姫が冬正をどれほど苦しめたか想像できるというものだ。
「冬正様は、お元気でしょうか?」
もっと聞きたいことは山のようにあっただろうに。椿が口にできたのは、そんな他愛のない問いだった。
彼女の耳まで届く冬正にまつわる噂は、どれもかつての朗らかな彼と、あまりに重ならない。椿には、見知らぬ他人の話を聞いているように思えてしまう。
「ああ、疲れを知らぬかのように働いているよ。私には、死に場所を求めているようにも見えるけれどね」
澄久の言葉を聞いた椿は、苦し気に顔を歪める。
冬正を蝕む苦痛から解放するために、彼の命を散らさぬために、椿は愛しい夫のもとを去った。それなのに、冬正は救われていないと言われたのだから。
強い視線を感じて顔を上げれば、顔を引き締めた澄久が真剣な眼差しを向けていた。
「椿殿。還俗して、水嶌家に戻る気はないかい?」
「申し訳ありませんが、それはできません」
「末姫ならば、すでに離縁して他家に嫁がせている。もう遠慮することはないのだよ?」
事情を知らない澄久にしてみれば、椿が出家したのは末姫が原因だと考えるのも無理はない。
しかし椿が水嶌家を出た理由は別にある。
冬正が彼女に触れれば、今度こそ命を失ってしまうかもしれないのだ。だから椿は、頷くという選択はできなかった。
「申し訳ございませぬ」
深く額ずく彼女を見て、澄久が残念そうに息を吐く。軽く首を振ると、からりと表情を変えた。
「珍しい菓子を手に入れたのだ。よければ尼寺の皆で食べてくれ」
「まあ、大層なものをありがとうございます。尼僧の皆様も喜ばれるでしょう」
差し出された手土産に、椿も相好を崩す。
寺を辞去する澄久を見送ってから、椿は尼寺に戻る。
その後も澄久は、時折りふらりと楓井寺にやってきては椿を呼び出した。そしてしばらく世間話をし、土産を残して帰る。
強要はしないが、椿が水嶌家に戻ると言い出すのを待っているのは明らかだった。
※
年が変わり、正月行事の忙しさが落ち付いてきた日のことだ。
かじかむ手に息を吹きかけながら、椿はお堂を清めていた。心を込めて、一拭き一拭き壁や床を清めていく。
そんないつもと変わらぬ日だった。
異変が起きたのは、そろそろ掃除を終えようと手を休めた時のことだ。お堂の外から悲鳴が上がる。
「何かしら?」
椿が顔を上げると、お堂の外が青い炎に包まれているではないか。
他の尼僧達も火事に気付いたらしく、あちらこちらで叫び声が上がった。
「早く外へ!」
「門のほうへ向かいなさい!」
椿は声に従い、門に向かって火の中を駆ける。
玄関に繋がる廊下を曲がると見かけぬ女が立っていた。
早く逃げるよう促しかけた椿は、声を出すことなく足を止める。
女の出で立ちが、あまりに場違いであったから。
あでやかな金色の打掛には、豪華な御所解模様の刺繍が施されている。
被いた紺色の小袖もまた、箔や金糸を用いた華やかなもの。その下から覗くのは、化粧を施した美しい女の顔。
質素倹約を求められる尼僧でないのは明らかだった。
だが異様なのは装いだけではない。
踊る炎に囲まれながら、女は椿を見つめて哂っていたのだ。橙色の瞳が嵌め込まれた目を嬉しそうに細め、紅を引いた唇で弧を描く。
まるで御馳走を前にした獣のように、赤い舌がちろりと唇を舐める。
もしもここに澄久がいたならば、すぐに彼女が誰であるか気付いただろう。長田澄明の側室であり、末姫達の母である、お壼の方だと。
彼女は澄明が討ち取られた城から逃げ延びて、行方が分からないままになっていた。
そんな事情など知らない椿だが、お壼の態度に本能的な恐怖を感じる。とっさに踵を返して奥へ逃げた。
「どこへ行く? 憎き女の形見の宝」
走る椿の後ろから、お壼の方が廊下を滑るようにして迫ってくる。
「どなたかとお間違えでは?」
「いいや。そなたは憎き橘の形見、澄久の妾であろう?」
お橘の方は澄明の前妻であり、澄久の母だ。
「誤解でございます。私は澄久様と、そのような関係ではございませぬ」
なぜそんな勘違いをしているのか。椿は頭を抱えたくなった。
彼女の心は今も昔も、ただ一人に向けられているのだから。
「何度も逢い引きをしていたそうではないか。狐どもから聞いておる」
お壼の方が被いていた小袖が熱風に飛ばされ、頭部が晒される。そこに隠れていたのは尖る狐の耳。
どうやら彼女は人間ではなく、狐の妖だったらしい。
「幾度かお会いしたのは確かですけれども、そのような関係ではございませぬ。私の顔をよくご覧になってくださいませ。澄久様程のお方が相手にするとお思いですか?」
椿は振り返り訴えた。
彼女の顔には火傷の痕がある。未だに怖がる子供や気味悪がる人がいて、あまり表に出ることができずにいるのだ。
けれど、そんな理屈はお壼の方には通じなかった。
「澄久の趣味が変わっておるのは有名じゃ。側に置いておる安武など、蝦蟇蛙の如き顔。還俗してから気に入りの水嶌も、顔が焼け崩れておるというではないか。そういう顔が好みなのであろう」
椿は蒲野安武に会ったことがない。しかし噂だけは水嶌の家にいた頃に聞いている。
お壼の方の言う通り、美形とは言い難い顔立ちだという。
そして冬正は美男子だが、椿が水嶌家を出てからも顔を隠していたため、焼けただれた醜悪な顔だと囁かれていた。
だからといって澄久が傷痕の残る者を好むろは限らないのだが。
しかし椿は反論の言葉に窮してしまう。
お壼の方の誤解を解くための理由が思い浮かばなかった。
「澄明様の心を奪った憎き橘! 息子のほうは澄明様の血が流れておるから生かしてやったのに、あろうことか澄明様と我が子達の首を奪うとは! そなたを殺して、澄久にも愛する者を失う苦しみを味合わせてやろうぞ」
逃げる先に火の手が上がり、椿は慌てて足の向きを変える。追い込まれた先は、先程までいたお堂だった。
そのまま走り抜けると、燃える板戸に体当たりをし奥庭へ逃げる。
けれど、その先にあるのは切り立った崖。
下は海なので、運がよければ助かるかもしれない。
しかし冬の荒れた海だ。波に襲われ岩に打ち付けられれば、一溜りもないだろう。冷たい海の水で凍え死ぬかもしれない。
どうしたものかと悩む椿の後ろから、お壼の方が迫ってくる。
「もう逃げぬのか?」
お壼の方は金の扇を広げ口元を隠す。
炎を映して輝く扇の下で、狐の口が哂う。もう一方の手に持つ扇を振るうと、青い火の玉が現れ椿に向かって飛んできた。
横に跳んで交わした椿だったけれど、火の玉は彼女をいたぶるように々と飛んでくる。
「憐れよのう。まるで羽虫のようじゃ」
雅に哂うお壼の方は、ひらり、ひらりと扇を動かし、裏庭を青い火で埋めていく。
あっと言う間に辺りは火で埋め尽くされた。
けれど逃げ場などないはずなのに、火が椿を焦がすことはない。
その異常に気付いた椿は不思議に思う。けれど彼女以上に、お壼の方のほうが動揺していた。
「なぜじゃ? なにゆえに当たらぬ!?」
痺れを切らしたお壼の方が、顔を苦々しく歪めて喚く。開いた扇を振り上げると、一際大きな火の玉を作り上げた。
「これで最期じゃ。焼け死ぬがいい」
お壼の方が扇を持つ手を振り下ろし、火の玉が椿に迫る。
覚悟を決めた椿は、崖を蹴って海へ飛び込んだ。
体が水面に打ち付けられ、激しい痛みが襲う。
思わず呻けば塩水が口の中に流れ込んできた。更に冷たい水が全身を刺してくる。
椿は水面に上がろうと必死になって手足を動かす。しかし水を含んで重くなった法衣が錘となり、まともに水を掻くことすらできなかった。
こぽりと、もがく椿の口から泡沫が漏れる。
泡沫は水晶玉のように煌めきながら空へ昇っていった。
見惚れている場合ではないのに美しいと感じてしまった椿の視界は、揺らめいて翳っていく。
以前にもこの光景を見たことがあったと、椿は懐かしく思う。
水嶌家に嫁いだ最初の夏。初めて冬正に海へ連れて行ってもらった日。人魚に襲われた幼い彼女は、溺れながら水面へ昇っていく泡沫に見惚れた。
思い出に囚われた彼女は、口元に笑みを浮かべながら海の底に沈んでいく。
沈みかけの夕陽で染まったのだろう。あの時と違い、水面は初めから赤く染まっている。
天に向かって伸ばしていた手から力が抜け、視界が靄に包まれていく。
もう、冬正様は助けに来てくれないのだ。御仏のもとへ向かうのだと、椿は理解する。
だが諦めかけた彼女の手をつかむ者があった。
まさかと顔を上げた椿の瞳に、いつも夢に見ていた彼の顔が映る。
くしゃりと顔を歪めた彼女の目尻から零れた涙は、海の水に混じっていく。
捕まれた腕から伝わる頼りがいのある力が強くなり、椿の体は懐かしい温もりに包まれた。そして、海面へと浮上する。
「椿! 無事か? 椿!」
空気が肌に触れた途端、椿の耳に、愛しい人の声が飛び込んできた。
「冬正様」
「椿、間に合ってよかった」
愛しくてたまらないとばかりに、冬正は椿を強く抱きしめる。それから少しばかり身を放し、彼女の頬を優しく丁寧に撫でた。
「よかった。椿が海に落ちるのを見て、心の臓が止まるかと思った」
もう一度強く椿を抱きしめた冬正の息は荒い。
熱い吐息を首筋に受けた椿は、喜びから一転して恐怖のどん底に突き落とされる。
次に冬正が椿に触れれば命を落としかねないと、夢に現れた童から警告されていたのだから。
「なりませぬ。お離しください、冬正様!」
慌てて身を離そうとするも、水の中では思うように体が動かない。海水の冷たさで全身が凍えていたのもあるだろう。
どんなに腕を突っ張ろうとも、冬正の体はびくともしなかった。
「もうしばらく大人しくしておれ。すぐに岸へ連れて行ってやる」
「そのようなことはよろしいのです。どうかお離しください」
「困ったやつだ」
悲鳴に似た椿の声に対して動じることもなく、冬正は椿を抱えたまま岸に向かって泳ぎ出す。
椿の双眸からは涙が止まらない。このまま冬正の命が尽きたらと思うと、怖くて、恐しくて、体が震えた。
冬正は器用に岩を避けながら岸へと泳ぐ。
「殿! ご無事ですか!?」
岩だらけの海岸には、いつの間にやら成貞達が駆けつけていた。
「先に椿を」
「はっ」
冷たい水に濡れるのも構わず、成貞達は海に入り椿を担ぎ上げる。そしてそのまま、椿は安全な場所まで運ばれた。
一度地面に下ろされると、冬正の家臣達が自らの衣を脱ぎ椿にかけていく。
「成貞殿、冬正様は?」
「ご安心くだされ。殿はそう易々と三途の川を渡る程素直なお方ではありませぬから。それより、どこかお怪我はございませぬか?」
「大丈夫です」
答えた椿は心配そうに海を見、それから視線を上げて尼寺を見た。
赤く色付く空を背に、尼寺を燃やす青い炎はその威力を見せつけている。
「寺の方々はご無事でしょうか?」
「そちらにも人を走らせておりますから、すぐに確認が取れましょう。それよりも、ここではお体が冷えます。いったんお宿へ向かいましょう。詳しいことはそちらで」
成貞が椿を背負い、数人の男達を連れて駆け出した。
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