第14話
秋も深まり、山は燃ゆるように赤く染まっていた。岩にぶつかる波の音を聞きながら、椿は落ち葉を掃き集める。
冬正の再婚話を聞いて乱れていた心も共に掃き清められたのか。もう噂を聞いても取り乱すこともなく、椿は穏やかな日々を過ごしていた。
そんなある日のこと。椿は楓井寺から呼び出しを受ける。
呼び出される理由に見当が付かないまま、彼女は久しぶりに尼寺の敷地から外へ出た。
道すがら見上げた梢の先で、赤い木の葉が揺れる。日の光を透かして輝く色が朱丸を思い出させた。
――あの子も元気にしているかしら?
椿が去った日。悲しげに鳴いていた声が未だに忘れられずにいる。去り際に渡された羽根は守り袋に入れ、今も大切に懐に入れていた。
感傷に浸りつつ参道を登ると、楓井寺が見えてくる。
案内された部屋では住職の他に、見慣れぬ隻腕の僧が待っていた。
「雨洗殿じゃ。そなたに聞きたいことがあると訪ねて参られた」
海がよく見えるその部屋で、椿は住職から雨洗を紹介される。
わざわざ椿のもとを訪ねてきて、何を知りたいのか。
怪訝な思いを抱きながら椿は頭を下げたまま用件を待つ。
「顔を上げて、楽にしてくれ」
「お目汚しにございますれば」
「気にしなくてよい」
そこまで言われては、顔を上げないわけにもいかない。
椿はおそるおそる顔を上げて姿勢を正す。
雨洗は三十半ばの整った顔立ちをしていた。椿の爛れた顔を見ても、柔和な表情を崩さない。嘲りも気の毒がる気持ちも見当たらず、ただ父が子を見守るような、優しげな眼差しを向ける。
「忙しい所、呼び出してすまないね」
雨洗は穏やかな声で語り掛けてきた。
声にも表情にも不審な点は見当たらない。だからこそ、椿は不安になる。
いったい何用なのか。
緊張する彼女の気持ちを解すためか。軽い会話を交わしてから住職は部屋を出ていった。
雨洗と二人きりになり、椿の不安は増していく。
部屋は海や庭方面の窓が開け放たれているので、密室というわけではなかった。
女が欲しいのであれば、顔に火傷の痕が残る彼女を選ぶとは思えない。
御仏に仕える者達が暮らす寺ではあるけれど、山を下りて町まで足を延ばせば、そういう仕事をしている女もいる。
だから大丈夫だと思ってはいても、女である以上、自然と体が強張ってしまう。
しかしそれは、世俗を捨て御仏に仕える雨洗に対して失礼な感情だ。
椿は疑心を払拭しようと努めた。
対する雨洗はといえば、彼女の葛藤に気付いているのかいないのか、窓から見える海を眺めている。
しばしして、迷いを吹っ切るように目蓋を落とすと、椿へと顔を向けた。
「すでに出家した身だ。本来ならば、世俗のことには関わらぬべきと心得ている。だが、そうも言っていられなくなってね」
そう前置いてから、本題を切りだす。
「水嶌冬正殿の為人について、教えてもらえないだろうか?」
思わぬことを尋ねられ、椿は雨洗の顔をまじまじと見てしまう。すぐに自分の非礼に気付き、慌てて頭を下げた。
「ご無礼をいたしました」
「構わないよ。先程も言ったが、出家した以上、世俗のことは忘れるべきなのだ。過去を問うた私のほうが礼を失している。気を悪くしないでくれるとよいのだが」
「然様なことはございませぬが」
否定しようとした椿だったけれども、言葉は途中で途切れる。
雨洗の意図が読み取れない以上、椿は冬正について語るつもりはない。もしも冬正と敵対する勢力の関係者であれば、彼の不利益になってしまうから。
そんな椿の葛藤を見抜いたのか。雨洗が素性を明かす。
「以前は長田澄久と呼ばれていた」
その名前に、椿は聞き覚えがあった。
「もしや、長田様の?」
「長田澄明は私の父だな。長男として生まれたが、この腕だ。家に残っておれば、跡目を廻ってつまらぬ諍いの原因となりかねぬ。ゆえに寺へ入った」
戦で右腕を肘から失った彼は、まともに戦うことができない。
歩兵ならば、まだ戦う術もあっただろう。けれど彼に求められるのは、馬上で槍や太刀を振るうこと。片手だけで馬を操り太刀も振るうのは至難の業。
戦えぬ彼は、嫡男に相応しいとは言えないだろう。けれど長男である以上、彼を指示する勢力は存在し続ける。
だから彼は仏門に入る道を選んだ。
「父の後は、血気盛んな弟達が継げばよい。そう思うておった」
雨洗は苦い笑みを口元に浮かべる。
その過去形の言葉をどう受け止めればよいのか。分からない椿は彼の目を窺う。
深い憂慮がこもる瞳はひどく切なげで、椿の胸まで締め付けられるようだった。
「ありがたいことに、出家した後も慕ってくれる者達がおってな。その内の一人が、先日訪ねて参ったのだ。還俗する気はないかと、問うてきた」
雨洗が椿の瞳を覗き込む。
逸らすことを許されない強い眼差しを受け、椿は身動きができなくなる。
いったい何を問い質されているのかと、椿の心は狼狽えた。
椿は生家も嫁ぎ先も、長田家の一門だ。でもだからといって、長田家のお家事情に詳しいわけではない。当然だが、雨洗の相談に乗れる程の立場でもなかった。
そんな彼女に、何を聞きにきたというのか。
「詳しく話を聞いてみると、どうやら彼らを唆している者がいるらしい」
語りかけてくる声は相変わらず穏やかで、心を落ち着かせる。しかし椿を捉える眼光は鋭いまま。
その先は聞かぬほうがよいと、椿の本能が警鐘を鳴らす。
しかし雨洗の声は止まらなかった。
「水嶌冬正。知っておろう?」
ひゅっと、椿の咽が鳴る。
「まさか」
零れ落ちた声を拾うことも忘れて、椿は首を横に振った。
「ありえませぬ。冬正様は、そのような恐ろしい考えを抱くお方ではありませぬ。治める領地の民達が幸せであることが一番だと、いつもそう仰っていました。権力を望む方では、まして争いを好む方ではございませぬ」
水嶌の家督でさえ弟に譲ってもいいと言っていた冬正だ。彼が主君に矛先を向けるなど、椿には到底信じられなかった。
愕然とする椿の顔を見て、彼女の言葉が真実だと読み取ったのだろう。雨洗は困ったように眉を下げる。
「私が聞いた話とは違うな。やはり人というものは、多方面から見ねば分からぬものだ」
「いったい、どのようにお聞きになられたのですか?」
椿の声には不満が滲んでいた。
冤罪にも程があると、怒りさえ覚える。
「武功に貪欲で、勝つためには手段を選ばぬ血も涙もない男だそうだ」
「どなたかとお間違いでは?」
「そなたの知る水嶌冬正は、そうではないのだな」
「無論でございます。小さな命にまで気を掛ける、お優しいお方です。怪我をした鳥の雛を見つけた時も――」
椿は相手の身分も忘れ、冬正がいかに優しい男であるか語り始めた。
語るにつれて、ずっと胸の奥に溜め込んでいた冬正への想いが、堰を切って溢れだす。
どれ程優しい人だったか。どれ程大切にしてもらったか。どれ程幸せだったか――。
語る程に胸は温もりで満たされていき、同時に苦しい程の切なさで涙が溢れてくる。
「――そのようにお優しいお方でございます。血も涙もないだなどと、有り得ませぬ」
椿の話は半刻程は続いただろうか。
その間、雨洗は一切口を挟まず耳を傾けていた。
「冬正殿の為人はともかくとして、仲睦まじい夫婦であったことは、よく分かったよ」
雨洗は椿を微笑ましい眼差しで見つめる。
頂いた感想に二度三度と瞬いた椿は、我に返り赤面した。
冬正の優しい所を伝えるために話し始めた彼女だが、余りに長く、一方的に話し過ぎている。それに話の内容も、傍から聞けば夫婦の惚気に聞こえるものばかり。
「お耳汚しを失礼いたしました」
「よいよい。このような所にいると、苦しみごとを耳にすることばかりで、楽しみごとを届けてくれる者は少ないからね。久々に心が温まる話を聞かせてもらった」
人々を悩みから救うことが御仏に仕える者の務めではあるけれど、たまには甘いものもよかろうと、雨洗は笑う。
けれど彼の目の奥は、穏やかなだけではなかった。
椿を尼寺に帰した後、雨洗は海を眺めていた。
波が岩壁を攻めんと何度も挑む姿が、まるで今の長田家を現しているように見えてくる。
「私がおらぬうちに、長田の家は乱れたか」
雨洗は長らく会わぬ弟妹達のことを思い浮かべた。
彼の母は都の公家から嫁いできたお橘の方だ。彼女は雨洗を生んだ後、産後の肥立ちが悪く命を落とす。
その後、澄明は商家からお壼の方を迎えた。雨洗の弟妹達は、彼女から生まれている。
雨洗が知る幼い弟妹達は、たしかに傲慢な一面があった。
しかし幼い童には珍しくないこと。成長と共に人との関わりを学べば落ち着くものだ。
時折り顔を見せる安武の話を聞いても、それ程問題があるとは感じていなかった。
けれど実情は違う。
「水嶌のみならば潰せばよいが、おそらくそうではないはずだ」
水嶌家の次期当主が反旗を掲げたところで傾くほど、長田家は脆弱ではない。それが分からぬ程愚かな青年とは思えなかった。
ならば他にも冬正と思いを同じくしている者達がいるはずだ。それも想像以上に多く。
そう雨洗は見た。
なにせ彼に還俗を打診してきたのは、蒲野安武である。彼は長田家を裏切るなど毛先程も考えつけぬ男だ。
雨洗の答え一つで、濁流は大きく流れを変えるだろう。
長田家へ戻ることを選んだ場合、彼は旗頭として父澄明を討つことになる。
さりとて戻らなければ、燻る火は大きくなり、やがて国中で戦の炎が上がりかねない。そうなれば多くの領民達の苦難に繋がってしまう。
「止める方法はないものか」
雨洗は決断を迫られていた。
※
木々が固い新芽を緩め始めた頃のこと。空が白み始めるには、あと半刻はあるだろうか。
水嶌の屋敷の縁側に、柱を背に座り込む冬正の姿があった。彼の装いは具足で固められている。
暗闇の中。冬正は庭を歩いてくる微かな音を聞き留め目を向けた。
「来たか」
「はっ」
「付いて参れ」
「はっ」
冬正に応えた声は一つではない。幾つもの足音が屋敷の中を足早に進む。
途中で女の悲鳴が聞こえたが、冬正は目もくれずに母屋へ向かう。目指すは父母の臥所。
「このような刻限に何用だ?」
枕元の太刀を抜き構える国正を、部屋に踏み込んだ冬正は冷たく見下ろした。
息子の姿を目に映した国正は、なぜ? と疑問を抱く。それでも慌てふためくことなく、彼は冬正を睨み上げる。
「父上、ご隠居くださいませ。さすれば水嶌家先代に相応しき隠居暮らしをお約束いたしましょう」
「断れば、父の命を奪うとでも言うつもりか?」
「愚問にございます」
嘲笑含みに問うた国正に、冬正は迷いなく答えた。
国正は愕然として青ざめる。
親子の仲は特に悪くはなかった。いずれ冬正に家督を譲るつもりだったので、力尽くで家督を奪われる理由が見当たらない。
国正は耳をそばだてて部屋の外の音を拾う。そして状況を理解するなり息を呑んだ。
この屋敷の主は国正である。いくら冬正が嫡男でも、家臣達が優先して従う相手は国正のはずだった。
それなのに、国正を助けにくる気配が見当たらない。いや、僅かだが剣戟の音は聞こえる。それでも戦う音が少なすぎた。
「すでに掌握していたのか」
気付かぬうちに、水嶌家に仕える家臣達の忠義は冬正へと移っていたのだ。
当主としてこれ程の屈辱があろうか。
国正は唇を噛み締め息子を睨む。
「なぜこのようなことを?」
「澄明を討つため」
「主君に刃を向けるなど、許されるものか! 思い直せ!」
「ですから、父上には知らせなかったのですよ」
息子の不義理に憤る国正は、更なる悪夢を見る。
「兄上、末姫は捕えました。馬の支度も整えてございます」
「苦労」
臥所に現れたもう一人の息子直正までが、国正を裏切っていたのだ。
父へ顔を向けた直正に、国正は微かな期待を寄せる。けれどそれも、すぐに潰えた。
直正は鋭い眼差しで国正を睨む。その目は親に向けるものではない。戦場で敵に向ける、冷え切った眼差しだ。
「兄上、ここは某にお任せを」
「頼んだぞ、直正」
「はっ」
弟の進言で身を翻した冬正は、来た道を戻って己が暮らす棟に向かう。
「成貞」
「はっ」
冬正に応えた成貞が、冬正と別れ玄関へ走る。
空がほんのりと明るさを帯び始める中、鐘や法螺が鳴り響いた。その音を聞いた領内に暮らす男達は、身支度を終えるなり家から飛び出し同じ方向へ駆けていく。
脳裏でその動きに掛かる時間を計りながら、冬正は末姫の臥所に踏み込んだ。
「なんのつもりじゃ、冬正! かような無礼を妾に働いて、ただで済むと思うてか!?」
拘束されて喚く末姫を、冬正は冷たく見下ろす。
「いい加減に身の程を弁えたらどうだ? ここは長田様の城ではない。秘密裏にいかようにもできたものを、今まで客人として持て成して差し上げたのだ。むしろ私の気の長さを褒めてもよいと思うのだがな」
「客人じゃと? 妾はそなたの妻じゃぞ!?」
末姫の言葉を、冬正は鼻で笑う。
「私の妻はただ一人。椿だけだ。お前ではない。ご案じ召されるな。末姫様にはまだ利用価値があるゆえ、殺しはせぬ」
「父上様が許さぬぞ?」
「然程お父上がお好きなら、獲ってきた首は末姫様に差し上げるといたそう。なに、どうせ不要なものだ」
さすがに末姫も状況を理解したのだろう。朱に染めていた顔を青くして震え始めた。
「殿、支度が整いました」
「すぐに行く。……その女は牢に入れて見張らせておけ」
「はっ」
冬正は身を翻して外に出る。
玄関脇で控えていた成貞から手綱を受け取ると、愛馬韋駄天丸に飛び乗った。
「行くぞ!」
「はっ」
集めておいた兵達と合流するなり、澄明のいる三本松城を目指し、街道を南下する。
冬正達が三本松城から程近い九尾ヶ原に到着した時には、すでに多くの者達が集まっていた。いずれも澄明のやり方に反感を覚えていた家の者達だ。
大将は還俗した長田家の長子である長田澄久。彼の傍には蒲野安武が控えている。
そうして戦の火蓋は切って落とされた。
冬正は韋駄天丸に跨り、敵陣へ駆けこんでいく。獅子奮迅の活躍を見せる彼は兵達を蹴散らし、敵本陣にまで切り込んだ。
澄明と彼の息子二人が討死し、三本松城は冬正の狙い通りに落ちる。
しかし予想外のことも起きていた。
澄明の側室お壼の方が、城に火を着けて行方をくらましたのだ。
とはいえ勝敗は決まり戦は終わった。
澄明の後を長田澄久が継いだのは、ここに述べるまでもあるまい。
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