第13話
楓井寺は海にそそり立つ椛山の頂に建つ。その山の中腹に、椿が世話になっている尼寺があった。
全身に残る火傷の痕を気の毒がられた椿は、人目に付かない奥の務めを任される。
だが外に出ないのは外見だけが理由ではない。
彼女が尼寺に来て一ヶ月程が経った頃から、何度も冬正が訪れて、門前から彼女の名を呼び叫んだのだ。
「椿! 頼むから話を聞いてくれ! 一目でいいのだ。椿と会わせてくれ! 椿!」
男子禁制の尼寺は、たとえ尼僧の親族であろうとも許可なく立ち入ることはできない。それに寺へ入った者の中には、夫側の問題に耐えかねて逃げ込んだ者も多かった。
だからどれ程面会を求められても、本人が望まぬ限り客人は追い返される。
椿は決して冬正と会おうとはしなかった。
一目でも彼を見てしまえば、決心が崩れ戻りたいと思ってしまう気がしたから。
上手く心を押し殺して尼寺に残ると伝えたとしても、冬正は椿の本当の思いに気付いてしまうだろうから。
「椿! 帰って来い!」
冬正はどんなに尼僧達から追い払われても粘り続ける。
胸の奥を抉られるような痛みに耐えながら、椿は冬正が元気になったことを喜ぶに留めた。
「若! やはりこちらにおられましたか。さ、帰りますぞ?」
「離せ成貞! 椿ー!」
最後は水嶌家から追いかけてきたと思われる成貞達によって、引き摺られるようにして帰っていく。
彼が現れた夜、椿は必ず枕を涙で濡らした。
冬正と暮らした温かな生活が懐かしくて、水嶌の屋敷に戻りたくなってしまうのだ。戻ればまた、彼を苦しめると分かっているのに。
しかし一年近く続いた冬正の来訪は、年が変わるなりぴたりと絶えた。
もしや冬正に何かあったのかと、椿は心配で居ても立っても居られない。
その理由を知ったのは、春が過ぎ、夏が訪れた頃のこと。
「長田様のお姫様が、お嫁ぎになられたそうよ」
「水嶌様でしたっけ? お姫様を迎えるには身分が低かったそうですけど、お姫様を迎えるために、たくさんの戦功をお立てになったとか」
「まあ、素敵ねえ」
寺の用事で外へ出た尼僧達の会話を、椿は掃除の途中で耳にしてしまったのだ。
すぐには言葉の意味を理解できなかったけれども、理解した途端に目の前が真っ暗になって立ちすくむ。
冬正と末姫との縁談は、椿が水嶌の家にいた頃から上がっていた。けれど冬正は頑なに断っていたのだ。
それなのに、椿がいなくなってから一年程で、冬正は後添えとして末姫を選び迎えた。
その事実を知って、椿は裏切られた気がしてしまう。
冬正を捨てたのは彼女のほうだというのに。あれ程望んでくれた手を振り払って、尼寺に入ったというのに。
武家の跡継ぎである以上、冬正が嫁を貰い子を生すのは義務。いつまでも出て行った妻を想い続けているわけにはいかない。
道理をわきまえているのなら、裏切られたなど思うべきではないだろう。喜ぶべき慶事だと、頭では理解していた。
それでも、椿の心は悲鳴を上げる。
「どこか具合でも悪いの? 暑さにやられたのかしら?」
共に掃除をしていた尼僧が、心配そうに声をかけてきた。
出家した者は家との縁を切る。寺に入った者達の素性は明かされない。それゆえに、彼女達は椿が水嶌家の前妻であることを知らなかった。
「大丈夫です」
顔色を青ざめさせた椿を心配する尼僧達に、悪意は欠片もない。
椿は苦痛を呑み込んで、尼僧達から離れた。
その夜、中々寝付くことのできない椿は、そっと臥所を抜け出した。
波の音に誘われるようにして、海が見える廊下まで行く。岩に打ち付ける波が月明かりを受けて青白く光っていた。
空に視線を移せば無数の星が輝く。
「この海も空も、瀬田に続いているのね」
目蓋を伏せれば、在りし日の光景が蘇ってくる。
韋駄天丸に乗せられて、海へと連れ出された夜。暗い天と海には、無数の星が輝いていた。
背に触れる温もりは安心できて、椿は幸せだったのだ。ずっと彼と過ごすのだと、信じていた。
昔を思い出した椿は、くすりと笑みを零す。
餡頃はまだ、冬正は椿を妻と呼びながら妹のように扱っていた。椿もまた、夫という存在に憧れながらも理解しきれておらず、冬正を兄のように慕う。
互いに競うように喜ばせあって、笑って、時々やり過ぎて一緒に叱られて。
そうして気が付けば、互いに誰よりも愛しくて、誰よりも近しい存在になっていた。
けれど――
「忘れなければ」
冬正の隣には、すでに末姫がいるのだから。
今に意識を戻すと、彼の幸せを喜ぶよりも、末姫を妬む気持ちが胸を焼く。
己の醜さが嫌になって溜め息を吐くと、椿は海から目を逸らし臥所に戻った。
椿が夜の海を眺めていた、ちょうどその頃。
水嶌の屋敷でも冬正が酒を片手に夜空を見上げていた。片膝を立て、不機嫌そうに空を睨む。
冬正の顔からは、かつての柔らかな面差しは消えていた。
精悍な顔立ちと鋭い眼差しは、武士として頼もしく見えるかもしれない。けれど以前から彼を知る者達には痛々しく映る。
椿を失ってから、彼は変わってしまった。
領民や家臣達を思いやり、笑顔を絶やさなかった青年は、戦となれば先陣を切り、平時においても陰鬱な空気を纏う。
手酌で酒を飲む冬正の隣では、朱丸が丸くなって眠る。
椿が見つけ、二人で育てた朱丸は、冬正と椿を父母と思い込んでいるのか、二人によく懐いた。けれど他の人間には一向に懐かない。
嫁いできた末姫に対してなど、目に映った途端に翼を広げ激しく威嚇する有り様だ。
先程まで朱丸がぐずっていたので、冬正は酒を飲みながら相手をしていた。だがどうやら落ち着いたらしく、目蓋を落として舟を漕いでいる。
「勝手な奴だ」
指で咽元を撫でてやると、眠ったままくるると嬉しそうな声を出す。
微かに目尻を下げた冬正だが、すぐに表情は沈んでいく。
「お前が飛べるのなら、様子を見に行かせたものを」
羽を痛めている朱丸は空を飛ぶことができない。
呟きはしたものの、冬正はばかばかしいと一笑に付した。
朱丸を飛ばせば、望み通り椿の様子を覗いてきてくれるだろう。だが朱丸は所詮鳥だ。目にした姿を、耳にした言葉を、冬正に伝える術を持たない。
冬正は顔を空へ戻す。
口に含んだ酒は苦く、僅かな夢さえ見せてはくれない。それどころか、耳に飛び込んできた女の金切り声のせいで胸焼けを起こしそうだった。
「なぜじゃ? なぜ冬正は妾と契らぬ!」
ずいぶんと品のない言葉だと、冬正は怒りよりも呆れが勝ってしまう。部屋は離しているというのに、冬正の臥所まで声が響いてくる。
騒いでいるのは、長田家から嫁いできた末姫だ。連れてきた乳母を相手に、毎日毎日飽きもせず、喚き散らして暮らしていた。
冬正は苦々しく顔を顰め、年明けに起きた忌々しい出来事を思い出す。
長田家へ新年の挨拶に赴いた冬正の前に、性懲りもなくまたも末姫が現れたのだ。
「その頭巾、取ってみよ」
居丈高に命じる彼女に、彼は嫌悪感を覚える。それでも内心の苛立ちをひた隠し、へりくだって応えた。
「畏れながら、お目汚しになりますればお許しを」
けれど末姫は下がらない。
「妾が取れと言うておるのじゃ。早う取れ」
業を煮やした末姫が、自ら手を伸ばし頭巾をつかみ取ったことで、冬正の顔は白日の下に晒される。――火傷痕一つない、以前と変わらぬ顔が。
冬正の顔を見た末姫は、にんまりと嬉しそうに笑んだ。
「なんじゃ。やはり失われておらなんだか」
彼女の目は、獲物を見つけた獣のように光っていた。
「邪魔な嫁は寺に入れたと聞く。喜べ。そなたの家に嫁いでやろう」
冬正の心が急速に冷え切っていく。その氷の下では、煮えたぎる怒りの感情が噴き出そうとしていた。
僅かに残っていた理性で動きそうになる体を必死に抑え込み、口を開く。
「某の身には余るお言葉でございます。末姫様には、某よりも相応しいお方がおられましょう」
「妾が気に入ったのだ。遠慮はいらぬ。楽しみにしておれ」
去っていく末姫を見送る冬正の目には、侮蔑の色が隠れきれていなかった。
直後に挨拶した澄明からも、末姫を嫁入りさせるとの打診を改めて受ける。
実質的な命令だ。
流石に二度は断れない。受け入れるしかないと、冬正だとて理解していた。それでも承服できなかった彼は、国正が答えを返す前に切腹を覚悟で異論を述べようとする。
けれど水嶌親子が声を生み出すよりも、澄明が先手を打つのが早かった。
澄明の持つ扇子がぱりちと閉じられ、白粉を塗った顔に浮かぶ紅が動き出す。
「楓井寺であったかのう? 尼寺には女人しか入れぬというが。さて、いつまで無事か」
冬正の背中がぞわりと粟立ち、息が詰まる。
末姫との縁談を断れば、椿の身が危険にさらされるのだ。
床に突いていた拳の中で、爪が掌の皮膚を食い破る。軋む程に噛みしめた奥歯が悲鳴を上げた。
今にも澄明に飛び掛からんとする冬正に先んじて、国正が声を張る。
「ありがたくお受けいたします」
冬正は怒りに染まった瞳で床を睨み付けたまま、父の声を聞く。
愛する人の命を守るため、冬正は末姫を娶る決断をせざるを得なかった。
こうして末姫を娶ることとなった冬正だったが、決して彼女に手を出そうとはしない。それどころか口を利かず目さえ合わさずにいる。
更には家の者に対して、彼女を彼の妻としてではなく、客人として扱うように命じた。
だから皆、末姫に対して礼儀を尽くした扱いをしている。しかし誰も、彼女を冬正の正室とは認めていない。
全てを思い通りにして生きてきた末姫にとって、全てが思い通りにならぬ日々。その鬱憤は蓄積され、連日のように朝から晩まで荒れた。
「このような屈辱を与えるなど、冬正め、妾を長田澄明の娘と分かっての所業か? 父上に言い付けてくれる!」
離れた部屋から響いてくる、末姫の怒り狂う声。
冬正は口元に酷薄な笑みを浮かべる。
「椿の命を盾にして脅したのだ。殺さないでいてやるだけでも、感謝すべきだろうに」
仄暗い目付きの冬正からは、侮蔑と怒気が漂う。
末姫が澄明の保護下にいる間は、いかに苛立たしくとも主君の姫として礼儀を尽くさねばならなかった。しかし澄明の手から離れて手元に落ちてきたのなら、やりようは幾らでもある。
彼女が澄明へ宛てて書いた文は、全て書き替えてから送らせていた。外出も護衛と称した見張りを付けて、余計な言動はさせていない。
楓井寺に澄明や末姫の手が掛かった者が潜り込んでいないことは、すでに確認済みだ。
それでも末姫を殺さずにいるのは、澄明の怒りを買わぬためと、末姫に利用価値があるからに過ぎない。
冬正は盃を置き、庭に目を向ける。
愛しい女性と同じ名を持つ木々が、艶やかな葉に月光を受けて輝いていた。見つめていれば彼女の姿が重なってきて、尖っていた心が和らいでいく。
「椿はもう眠っているだろうか」
冬正を見て嬉しそうに微笑む少女の幻に、彼も微笑み返す。
死が二人を別つまで決して離れることはないと、未来など分からぬのに信じていた。
指先に残る愛しい妻の感触を思い出し、冬正は拳を握りしめる。
「椿」
どれ程悔いても、過去は戻ってこない。そうと分かっていても、冬正は彼女を失った苦しみを受け入れることができずにいた。
「お前が今の私を見たら、なんと思うであろうな?」
手酌で注いだ酒を一気に煽り、決意を迷わす感情ごと飲み下す。
視界の端に現れた人影を捉えた冬正は、思い出の海から浮上し心を凍らせた。
「どうであった?」
問えば暗闇の中から男が出てくる。冬正直属の家臣の一人、幡部喜蔵だ。
気働きに優れ、すぐに人の懐に入り込んでしまう。その長所を活かすため、冬正は彼を他家への使者として重用していた。
そうして結んできた縁が、今は交渉や諜報に役立っている。
「はっ、若のご慧眼通りでございました。皆様、三の方に思う所がある模様」
三の方は、長田澄明を指す符丁だ。彼の居城がある三本松に因む。
戻って来た声に満足そうに頷いた冬正は、盃に残る露を切り新しく酒を注ぐ。
「苦労であった。飲んでいけ」
「頂戴いたします」
喜蔵は嬉しげに受け取ると、一気に煽った。
「後は長田の長男を引きずり出すのみ、か。蒲野殿が予定通り動いてくれればよいが。……あれが本当に餌になるのか、自信が持てぬのう」
先程まで金切り声が聞こえていた部屋のほうを一瞥し、冬正は眉をひそめる。
蒲野安武が末姫に懸想しているのは確かだが、冬正には末姫の魅力がさっぱり分からない。
末姫を差し出す代わりに澄久との間を取り持ってほしいと頼んだのだが、中々巧く進まずにいた。
やはり末姫にそこまでの価値はないかと、諦めさえ浮かんでくる。
苛立ちを呑み込み、冬正は次の一手を考え始めた。
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