第12話

 冬が去り、山々が緑や薄紅色に色づき始めていく。

 部屋を暖めていた火鉢を仕舞う頃になっても、冬正が体調を取り戻すことはなかった。

 意識のあるうちは痛みを隠し続けた彼だったけれど、眠っている間の体は正直だ。夜更けに目覚めた椿は、眠りながら呻く冬正を見てしまう。

 冬正が苦しんでいる姿を見るのも辛いが、日中の彼がどれ程無理をしているのか想像すると、更に胸が締め付けられる。

 彼の苦痛を取り除いてあげられればと願いながら、何もできない自分が悔しくてたまらなかった。


 雪隠に行くため、椿は冬正を起こさぬよう、そろりと身を離す。その直後、椿は身を強張らせた。

 冬正の呻き声が止まったのだ。代わりに聞こえてくるのは、柔らかな寝息。

 まさかと思いながら、椿は冬正に触れた。途端に彼は再び呻き声を発する。


「あ、嗚呼……」


 椿は慌てて己の口元を両手で押さえた。視界が滲み、涙が零れ落ちる。

 冬正の体調不良の理由を、椿は知ってしまった。

 いつからだろうかと記憶を手繰ろうとしたが、すぐに思い至る。

 冬正が戦で負った瀕死の傷を、椿が肩代わりした。しかし移されたのは見た目だけで、あるはずの痛みはない。

 不思議に思いはしたものの、神仏の霊験とはそういうものなのだろうと、彼女は納得してしまう。

 けれど、痛みも残っていたとしたのなら。椿に触れることで、その痛みが冬正にもたらされているとしたら。

 本来は死ぬはずだったはずの重傷だ。痛みを受け入れ続ければ、冬正の命は危ういのではなかろうか。

 冬正に待ち受ける運命を想像し、椿の頭の中は真っ白になる。

 知ってしまった以上、椿はもう冬正に触れることができなかった。

 椿と茵を共にしていたことが裏目に出てしまったことに、眠っている冬正はまだ気付かない。





 夜が明けて朝餉を終えた後、椿は冬正の正面に座った。いつもと違い真剣な顔で真っ直ぐに彼を見つめる。


「どうした? そのように改まって」


 軽い調子で問うたものの、冬正はひどく胸騒ぎを覚えていた。

 椿がこのような態度に出たことは、過去にあまりない。何か大きな決断をしたのだと察した彼は、その決断がよいものとは思えなかった。

 強い眼差しで冬正を見つめていた椿は、床に指を突き頭を垂れる。


「どうぞ、ご離縁くださいませ」


 椿の口から発せられた言葉を聞いた途端、冬正の顔から表情が抜け落ちた。


「断る」


 考えるより先に、言葉が口から滑り出る。

 椿の願いならなんでも叶えたいと思う冬正でも、受け入れられない申し出だ。


「そなたは私の妻だ。私はそなたを手放す気はない」


 どのような理由があろうとも、冬正は椿を失うことだけは耐えられなかった。

 にじり寄り、彼女の手を取る。しかし握ったはずの手は、掌から零れ落ちていく。

 冬正の緩みかけていた表情が強張った。妻として迎え入れてから、彼女に拒絶されるのは初めてのこと。

 顔を歪ませ椿を見つめる。


「理由を教えてくれ、椿。誰かに何か言われたのか? 気にすることはない。誰がなんと言おうと、私の妻はそなた一人だ。そのような迷いごと、二度と言わぬと約束してくれ」


 内から込み上げてくる不安に耐えきれず、冬正は椿を抱き寄せ懇願した。

 それなのに、いつもなら身を任せてくれる妻は、両手で彼の胸を押し拒絶する。


「そうではありませぬ」

「ではなぜだ!?」


 悲痛な声が冬正の咽を震わせた。

 椿の頬を両手で包み込んで彼女の瞳を覗き込む。彼女の感情を読み違えぬように、冬正は全神経を集中させた。


「辛いのでございます」

「その姿がか? ならば安心せよ。必ず私が元に戻してやるから」

「違いまする。冬正様の、お傍にいることがでございます」


 冬正の瞳から光が消える。

 椿の言葉に嘘はない。

 彼女の瞳を見つめていた冬正は、それが理解できてしまった。

 椿の言葉に偽りはない。

 自分が近くにいれば冬正を苦しめると知った椿は、彼の傍にいることが辛かったから。

 椿の頬から、冬正の手が力なく滑り落ちていく。

 滲み出そうな涙を必死に呑み込み、椿は深く頭を下げる。許しを請うと同時に、顔を見せぬために。

 ここで泣いてしまえば、冬正が椿の真意を見抜くだろうから。


「どうか、ご離縁くださいませ。御仏にお仕えすることをお許しくださいませ」


 彼女の口がそれ以上の言葉を紡ぎ出すことはなかった。

 唇を噛みしめていなければ、涙が零れ落ちてしまいそうで。

 冬正は呆然と椿を見つめたまま動かない。

 夫婦の間に静かな時が流れる。


「何か気に障ることをしたか? ならば申してくれ。二度とせぬと誓おう」


 動くことを思い正した冬正が、戸惑いを顕わに問うた。

 椿は一度奥歯を噛みしめて気を引き締めてから、声を絞り出す。


「そうではございませぬ」

「ではなぜだ? 何が気に入らぬ? 教えてくれ、椿」

「冬正様のせいではございませぬ。私の心の問題なのです」


 椿の声は震えていた。

 唇を噛んで耐えようとしても震えは止まらず、涙が床を濡らしていく。


「私は、椿にとっていらぬ者か? 私はそなたと共に在りたい。そう願うのは、私だけなのか? ……なあ、椿? 私はいらぬのか?」

「申し訳ございませぬ」


 椿の言葉を聞いた途端、冬正の顔から感情が消える。


「そうか。ならばもうよい」


 冬の黒い海を思わせる、冷たく凪いだ声。

 椿は息を呑む。

 こんな冷たい彼の声を、彼女は今まで一度も耳にしたことがなかった。

 もう戻れないのだと突きつけられたみたいで、自分が望んだことであるにも関わらず、胸が激しく痛む。

 けれど、見捨てられたはずの椿は、いつの間にか冬正の腕の中にいた。


「冬正様? 何をなさいます!?」


 体を離そうともがいても、鍛え抜かれた冬正に椿が敵うはずなどない。


「若奥方様? いかがなされましたか?」


 椿の叫び声を聞いたお鯨が、御簾の向こうから声を投げてきた。

 助けを求めるため口を開いた椿の声を、冬正の声が覆い隠す。


「下がれ! 呼ぶまで誰も近付けるな!」


 嫁である椿よりも、嫡男である冬正の命令が優先される。それに二人は夫婦だ。使用人でしかないお鯨に、止められるはずなどなかった。

 椿の耳に、冬正の荒い息遣いが流れ込んでくる。

 それは欲情からくるものではない。

 眠っていた冬正は、椿が手を触れただけで苦悶の表情を浮かべ呻いたのだ。こんなに密着してしまっては、どれ程の苦痛を味わっているのであろうか。

 想像すると、辛くて、恐ろしくて。椿は涙が止まらなかった。

 冬正は椿を抱きしめ続ける。少しでも多く触れるため、ぴたりと肌を触れ合わせて。

 椿が自分を必要ないと言うのなら、彼女が背負ってくれた傷をより多く、自分の体に戻すために。

 全身が業火に焼かれるように痛んだ。叫びそうになる声を、冬正は歯を食いしばり抑える。

 たとえここで命を落としても、彼に悔いはなかった。

 元より失うはずだった命だ。

 彼は椿を犠牲にして生き長らえていることに、ずっと苦悩していた。それでも彼女の傍にいたくて、目を背けていたに過ぎない。

 彼女と共に在れないのならば、彼が選ぶ道など決まっている。

 愛しい人が、少しでも幸せになれる道を。


「冬正様、お許しください! 冬正様!」


 涙ながらに椿は叫ぶ。

 彼を苦しめてまで、元の姿に戻りたくなかった。

 耳の奥まで響いてくる愛しい声に、冬正は笑む。

 彼女に名を呼ばれながら逝けるのなら、幸せだと思う。


「冬正様!」


 叫び続けていた椿の咽は枯れ果て、静かに夜が深まっていく。

 椿の耳元で聞こえていた冬正の呼吸は弱まっていき、彼の体からも力が抜けていった。


「冬正様?」


 真っ青になった椿は、慌てて冬正の下から抜け出し、彼を仰向ける。

 暗がりの中で触れた冬正の頬は、汗でぐっしょり濡れていた。微かな呼吸を感じて、椿は安堵する。


「冬正様……」


 椿は両手で顔を覆い、泣き咽ぶ。

 こんな結果を望んだわけではなかった。こうならないために、冬正から離れようとしたのだ。

 嘆く椿の声を、縁側にいた朱丸だけが聞いていた。




 朝が近くなった頃、椿は夢の中に迷い込む。

 金色の炎が揺らめく空間で、椿の前には赤い小袖を纏った童が立っていた。彼は今日も泣いている。


「次に冬正が椿に触れたら、冬正は死んじゃうかも」


 椿は息を呑む。


「お願いです。どうか冬正様をお救いください」


 懇願するも、童は力なく首を横に振る。


「今の僕にはこれ以上、どうしようもできないよ」

「そんな……」


 顔を覆って涙する椿を、童も頬を涙で濡らし、悲しそうに見つめていた。




 夜が明けても、冬正は目覚めなかった。

 椿は身支度をして頭巾を被り、鳥面をかける。そして国正との面会を望んだ。

 すぐに呼ばれた椿は、母屋に向かい国正と対面する。

 部屋の中は人払いがされており、国正の腹心である湯浅小兵衛しかいない。たとえ息子の嫁といえども、男女が二人きりになることを避けるための配慮だろう。


「昨日は冬正が無理をさせたそうだな?」


 誰から聞いたのか、国正が申し訳なさそうに切り出す。


「いいえ。冬正様は何もいたしておりませぬ」


 国正は怪訝な面持ちで眉を跳ね上げたが、椿は真実を述べたまで。

 椿と冬正の間に夫婦の交わりはなかった。冬正は椿の傷を己の身に戻すために、彼女を抱きしめていただけ。


「冬正様は、私が背負うた傷痕を、私の体に触れることで己の体に戻そうとなさったのです。年が明けてからこちら、冬正様のお体が思わしくなかったのは、そのためでございましょう」

「なんと?」


 国正と小兵衛に動揺が走る。


「そなた、知っておりながら黙っておったのか?」

「申し訳ございませぬ。私も気付いたのは、つい先日なのでございます。冬正様に離縁していただくよう願い出たのですが……」


 そこまで椿が言えば、国正と小兵衛は昨日の出来事の理由を察した。

 溜め息を吐き、改めて椿の姿を確かめるため目を向ける。


「面をかけたま纏いうことは、全ては戻っておらぬのだな?」


 椿は鳥面を外して答えとした。

 爛れ歪んでいた顔は元の形を取り戻していたが、未だはっきりと残る火傷の痕。

 国正が痛ましげに目を細めたのを見て、椿は再び面をかける。


「お見苦しいものをお見せいたしました」

「何を言うか。そなたの傷は、冬正を救って負うた誉れの証。誇れ」

「ありがとうございまする」

「して、いかがする?」


 椿に誉れと言うたのは本心でも、一族を率いる立場である以上、国正は情だけで事を決めるわけにはいかない。

 たとえ傷が原因で子を生せなかったとしても、彼女を嫁として家に置いておくことにやぶさかではなかった。

 しかし彼女に触れることで冬正の体に不調が現れる。それどころか、もしかすると冬正が負うはずだった傷が全て戻り命を失うかもしれないとなれば、話は別だ。

 椿も国正がどう考えるかは承知している。

 息子の命を脅かす存在を家に置き続けるなど、到底受け入れられまいと。

 だから震えそうになる声を抑えて、言葉を紡ぐ。


「冬正様が眠っておられる間に、寺に移ろうと思います」

「それしかあるまいのう」


 冬正が目を覚ませば、なんとしても止めようとするだろう。その前に事を済ませる必要があった。

 尼寺に入ってしまえば、追いかけられたところで門前払いを喰らうだけだ。


「一つ、お願いがございます」

「私にできることならば尽力しよう」


 承諾を得て、椿は願いを口にする。


「どうか冬正様が目覚めましたなら、椿の肌は以前のように戻っていたとお伝えくださいませ」


 国正は考える間もなく肯う。


「あい承知した。必ず叶えよう」


 椿に言われなくとも、彼は偽るつもりだった。

 そうでもしなければ冬正が何をしでかすか、実の親である国正にも予測が付かない。


「ありがとうございます」


 顎髭を扱いた国正が、小兵衛に視線で支度を促す。

 即座に小兵衛が下がると、姿勢を正して椿と向き合った。


「今まで我が息子の妻を、よう務めてくれた」

「もったいないお言葉にございます。今までお世話になりまして、ありがとうございました。どうぞ、皆様にもよしなにお伝えください」

「うむ。達者でな」

「お義父上様も、どうぞご健勝であられますようお祈り申し上げます」


 椿を見つめる国正の目尻には、光るものが浮かぶ。

 幼い頃に引き取り、娘同然に育ててきたのだ。親としての情が芽生えている。

 それでも彼は多くの家臣や領民を預かる身。私情で判断を誤るわけにはいかない。

 国正のもとを辞して自分達が暮らす棟に戻った椿は、手早く荷を包む。肌着など最低限の物だけ持って部屋を出ようとしたところで、朱丸が騒いだ。


「朱丸、大人しくなさい。冬正様が起きてしまうわ」


 じっと見つめてくるつぶらな瞳は、何かを訴えているように見える。けれど、椿に朱丸の心は読めない。


「お前も元気でね」


 椿がそっと背を撫でてやると、朱丸はもぞもぞと翼の下を嘴で突く。

 顔を上げた朱丸の嘴には、黒い羽根が咥えられていた。通常の鳥の羽と異なり、冬の池に張る氷のように、硬質で薄い。


「くれるの?」


 椿が問えば朱丸は一つ頷いて、羽を差し出すように首を前に突き出す。


「ありがとう。大切にするわね」


 日に透かすと濃い赤にも見える羽根は、まるで夕日を注ぎ込んだみたいに美しく輝く。

 ぴいっと甲高く鳴いた朱丸に別れを告げて、椿は部屋を出る。

 玄関まで行くと、風呂敷包みを手にした生野が待っていた。


「椿、どうか体に気を付けて」

「お義母上様も、どうぞお達者で」


 小兵衛が用意してくれた駕籠に乗り、椿は水嶌家の屋敷を発つ。

 生野が持たせてくれた風呂敷包みには、晒と握り飯、それに寺に納めるための金子が入っていた。

 世俗から離れた世界とはいえ、お布施の有無で出家後の扱いが変わることは珍しくない。椿が少しでも暮らしやすいようにとの心遣いだ。

 義母と義父の温かさを改めて感じ、彼女の頬に涙が伝う。

 冷えた握り飯を手に取ると、もう味わえないであろう義母の味を、じっくりと味わった。

 噛みしめるごとに、懐かしい日々の情景が次々と浮かんでくる。

 水嶌家に嫁いだ輿入れの夜のこと。海の話を聞かせてくれた、まだ幼い姿の冬正。我が子のように可愛がり、そして叱ってくれた義父と義母。椿と冬正を慕ってくれた家臣達。町へ出れば気さくに声を掛けてくれる領民達。

 そして、愛しい人の笑顔。

 二度と取り戻すことのできない、彼女が手放した幸せ。


「冬正様、椿は冬正様に嫁いで、真に幸せでした」


 寺へ向かう駕籠の中で、椿は声を殺して泣いた。

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