第10話

 よくよく見れば、冬正は赤く染まっているのではなく、手も顔も、全身が焼け爛れていた。

 握った手の感触は、鍛え抜かれた彼の硬い手とは程遠い。火膨れてぶよぶよと柔らかく、少し力を入れただけで、皮がずるりと剥けてしまう。

 顔もどこが鼻でどこが口か分からぬ程に焼け崩れている。


「冬正様……。どうしてこのような……」


 目に映る彼の姿が信じられなくて、椿は強張った顔を左右に振った。

 それでも彼は冬正だ。どんな姿になろうとも、たった一人の愛しく大切な夫。

 目を開けてほしくて、声を聞かせてほしくて、椿は休まず呼びかけた。


「冬正様、椿です! しっかりしてください!」

 

 なぜ、このような姿になってしまったのか。彼の身に何があったのか。

 疑問を抱いた椿は思い出す。

 戦で火傷を負ったのだと。

 布に覆われて顔を見ることは叶わなかったけれども、屋敷に戻って来た彼を迎えたではないかと。


「冬正様! 目を開けてください。お願いです!」


 咽が枯れて悲鳴を上げても、椿は声を張って愛しい夫の名を呼び続けた。

 けれど冬正は、彼女の名を呼んでくれない。

 いつもなら彼女の声を聞けばすぐに、


「椿」


 と、優しい眼差しを向けて、甘い声を返してくれるのに。

 椿は両目から涙を溢れさせ、何度も何度も繰り返し、愛しい夫の名を呼んだ。

 次第に冬正から発せられる呻き声は弱くなっていった。椿が握っていた彼の手からも、力が抜けていく。


「冬正様!」


 手の届かぬ所に行ってしまう。

 そう直感した椿は、必死になって声を張り上げた。咽が裂ける程に叫び、彼を死神に奪わせまいと抱きしめる。

 それでも冬正の体は、ぴくりとも動かない。


「嫌です! 冬正様、目を開けてください! 椿を置いていかないでくださいませ! どうか神様、冬正様をお助けください! お願いです!」


 椿は泣いて縋った。

 無茶な願いだと分かっていても、冬正を失うなど受け入れられるものではない。

 そんな彼女に冷や水を浴びせる声が掛かる。


「もう、無理だよ」


 反射的に椿は顔を上げた。

 童が涙でぐしゃぐしゃに濡らした顔をして、気の毒そうに椿を見つめている。


「もう、無理なんだよ」

「嘘です」


 椿は頭を振って否定した。

 童は眉を下げしゃがみ込む。そして椿の頬に伝う涙を指ですくい取る。


「助けてあげようか?」

「お願いします! なんでもしますから!」


 椿に迷いなどなかった。

 たとえ自分の命と引き換えであろうと、冬正が無事ならば喜んで差し出しただろう。


「冬正の代わりに、椿が傷を背負わなければならないよ?」

「構いません」


 椿は童をひたと見つめる。

 童は悲しげに顔をくしゃりと歪めると、冬正の額に手を添えた。途端に冬正が金色の光に包まれる。

 光が鎮まると、中から現れた冬正の体には傷一つなかった。

 以前と変わらぬ姿の彼を見て、椿は自然と顔を綻ばせる。


「冬正様!」


 伸ばした手に触れたのは、以前と変わらぬ愛しい夫の肌。

 溢れ出る歓喜が胸を満たす。

 だがそこで、童の存在を思い出した。


「冬正様を御助け頂きまして、ありがとうございます」


 慌てて額ずき礼を述べる。

 童は首を横に振った。それから冬正の胸の上に転がる一寸程の珠を拾い上げると、椿に差し出す。

 まるで水晶玉に金粉を閉じ込めたみたいな不思議な珠を。


「それを呑めば、冬正の怪我は椿に移る。命を失うことはないけれど、冬正が苦しむはずだった間は、代わりに椿が苦しまないといけない。それに姿は」


 童は最後まで言わず横たわる冬正に視線を向けた。

 彼が言わんとすることを察した椿は息を呑む。

 珠を呑めば、先程までの冬正と同じ全身が爛れた姿になるのだ。

 容姿が分からぬ程の姿になっても、冬正は愛してくれるだろうか。水嶌の家に置いてもらえるだろうか。

 不安が椿の全身を駆け廻る。

 それでも椿が選ぶ道は決まっていた。

 赤い珠を口の中に入れ、咽の奥へ落とす。途端に焼けた鉄でも呑んだかと錯覚する程の熱が咽を襲った。

 熱は咽から胸、胸から腹へと広がっていき、全身を内から焼いていく。


「あ、嗚呼……」


 うつ伏せに倒れた椿の口から、悲鳴が迸る。その声まで焼けていて、もう、どこが熱いのか椿には分からない。

 目尻から溢れた涙は、零れ落ちる前に湯気となって消えた。

 口を開けて必死に空気を取り込み、赤く揺らめく大地に爪を立てて、椿は焼かれる苦痛と戦い続ける。

 もがき苦しむ椿を、童は悲しそうな表情で見下ろす。


「取り出そうか? 冬正は死んじゃうけど、椿のせいじゃない」


 椿は夢中で首を横に振り、嫌だと訴えた。

 珠を吐き出してなるものかと両手で口を押さえ、全身を焼く痛みに耐える。

 彼女の視界は真っ赤に染まっていて、手も足も、がくがくと震えていた。


「せめてもだ。馴染むまで、眠るといいよ」


 童が小さな手を差し伸べて、彼女の頭を撫でる。

 そうして椿は眠りに就いた。




 日が昇り、椿と冬正の様子を窺いに臥所を覗いたお鯨は、冬正に覆い被さるようにして眠る椿を起こそうと近付き悲鳴を上げた。


「誰ぞ! 誰ぞ! 化け物が居る!」


 その声で目を覚ました椿は、不思議そうにお鯨を見やった後、自分の異変に気付く。

 手が、赤く腫れていた。袖をまくれば、腕も赤く火ぶくれている。

 頭の中が真っ白になった椿だったけれど、すぐに我に返って冬正に飛びついた。


「冬正様!」


 火ぶくれていた口元の火傷は治まっている。彼の口元に手を近付ければ、呼気が触れた。胸に耳を当てれば、とくり、とくりと、柔らかな脈動が聞こえる。

 震える手で冬正の顔を包む布を取っていく。

 すると、見慣れた冬正の顔が現れた。


「嗚呼」


 椿の顔が、花が咲くように綻んでいく。

 夢ではなかったのだ。冬正は救われたのだ。

 理解した椿は嬉しくて嬉しくて。双眸から涙が流れ落ちた。


「若奥方様! 若!」


 そこへ成貞達が太刀を抜いて部屋に飛び込んで来る。彼らは椿の姿を見るなり絶句した。

 赤黒く爛れた肌。燃え落ちた髪の毛。

 その姿は、彼らがほんの数日前に見た光景とよく似ていたから。けれど、その姿であったはずの彼らの主君は、まだ横たわっている。


「いったい何が?」


 成貞が疑問を口にするが椿には届かない。

 彼女はただ愛しげに、冬正の顔を見つめていた。


「まさか、若奥方様なのですか? いったい何があったのです?」


 動揺しながらも成貞が重ねて問うて、ようやく椿は顔を上げる。

 彼女の顔を見た途端に、全員が目を瞠った。女中達は口元を手で覆い、中には震えている者までいる。

 椿の顔は、焼け爛れていた。

 目蓋が腫れて、目はほとんど開いていない。鼻や口も形を失っている。愛らしかった彼女の面影は、どこにも見当たらない。

 痛ましい姿の彼女はけれど、涙で濡れた顔に、嬉しくてたまらないとばかりに満面の笑みを咲かせていた。


「神様が、願いを叶えてくださったのです」

「神様、ですか?」

「ええ。冬正様をお救いくださいました」


 それだけ言うと、成貞達への興味を失ったかのように、椿は冬正へ顔を戻す。


「冬正様、どうか起きてくださいませ。朝でございますよ?」


 赤く腫れた手が、優しく冬正の頬を撫でる。

 誘われるように目を開けた冬正の瞳が宙をさまよう。

 椿を見つけると嬉しげに目を細めた。けれどすぐに凍り付く。


「椿?」

「はい。お帰りなさいませ、冬正様」


 布を巻かれた冬正の手が、椿の頬へ伸びた。

 最期にもう一度だけでも会いたいと願った、愛しい妻だ。彼女がすぐ傍にいることに、彼は歓喜する。

 そして、絶望した。

 彼の瞳に映ったのは、彼が知る、愛らしい少女の顔ではなかったから。


「嘘、だろう?」


 零れ落ちた冬正の言葉が、椿の心を貫く。幸せに溢れていた表情が、一瞬にして悲しみへと塗り替えられていった。

 やはり受け入れては貰えないのだと。

 赤く爛れた頬に失意の雫が伝い落ちる。

 冬正は椿の涙を見て、自分の言葉が彼女に与えた意味を知る。


「違う。そうではないのだ、椿」


 冬正は慌てて起き上がり椿の頬を両手で包み込んだ。誤解を解こうと彼女の瞳を覗き込む。

 対して椿は、愛する夫の瞳に映り込んだ自分の姿を見て現実を突きつけられる。

 こんな姿になっては冬正の傍にはいられないだろう。もう愛してもらえないだろう。

 そんな思いに駆られ、辛さに耐えられず表情を歪ませた。


「お前がどのような姿であろうと私は構わぬ。だがその姿、もしや私の怪我を肩代わりしたのではないか?」


 冬正は首を横に振って訴える。

 一方の椿は彼の言葉に驚き、まじまじと見つめた。


「夢を見たのだ。椿によからぬことを吹き込む者がいて、椿を止めたかったが、体が動かず声も出せず、聞き耳を立てているしかできなかった」


 彼もまた、あの赤い衣を着た童の夢を見たのだ。


「なぜ、そなたがこのような姿に。痛みはないのか? 座っていて大丈夫なのか?」


 冬正は涙を流れるままにし、愛しい妻の頬を優しく撫でた。


「申し訳ございませぬ」

「何を謝ることがある?」

「このような姿になってしまいました。冬正様に、相応しくございませぬ」

「莫迦を言うな。お前程私の妻に相応しい女など、この世のどこを探してもおらぬわ。私の妻は椿、そなただけだ」


 涙をこぼす椿を冬正が抱きしめる。

 椿は耐え切れず、声を上げて泣いた。


「椿、そなたをそのような姿にした私の傍に、これからもいてくれるか?」

「冬正様がお許しくださるのなら、椿はお傍にいとうございまする」

「許すどころか、私のほうから頼み込もう。どうか私の傍にいてくれ。もう二度とそなたを傷付けさせぬから。私には椿が必要だ。そなたのいない世の中など耐えられぬ」


 体を少しばかり離した冬正が、椿の額に己の額を当てて微笑む。

 間近に見る冬正の瞳はきらきらと輝いていて、偽りなど欠片も見当たらない。心の底から嬉しそうに笑っていた。


「椿、ただいま帰った」


 椿はようやく、冬正の気持ちが本当に変わっていないのだと理解する。

 くしゃりと歪んだ顔を濡らすのは、安堵と歓喜の涙。


「お帰りなさいませ、冬正様」


 冬正が椿の頬を壊れ物を扱うように優しく撫でて涙を拭う。

 椿も手を伸ばし、冬正の頬に触れた。


「椿、愛している」

「私も、私も愛しております、冬正様」


 部屋の中にあった二人のものではないすすり泣く声が、そっと遠ざかっていった。


 冬正が屋敷に帰ってきてから、椿と冬正は以前と変わらぬ仲のよさを見せた。

 否。以前よりも冬正が椿を構い、僅かでも傍から離れることを厭う姿は、周囲を呆れさせる程だ。

 茵も共にすると言いだした時は、さすがに周囲が止めに入る。


「若奥方様のお体に障ります」

「然様なことはわきまえておる。私が椿の体に障るようなことをいたすと思うのか? ただ添い寝をするだけだ」


 そこまで言われてしまえば誰も言い返せない。

 年若くとも二人は夫婦。それに椿を誰よりも大切に思っているのは間違いなく冬正だと、屋敷中の者が知っていたから。

 こうして二人の間を遮っていた衝立は取り除かれることとなった。



   ※



 祭に向けて稽古をしているのだろう。賑やかな祭囃子の調べが、風に乗って瀬田の地を駆けていく。

 肌が張って曲がり辛くなった指で針仕事をしていた椿は、手を止めて耳を澄ませた。目を閉じれば、祭りの景色が目蓋の裏に浮かんでくる。

 冬正と共に領民達に交じって踊った秋祭り。

 幸せな日々を思い出して緩んでいた口元が、苦しげに歪んでいく。

 痛みはないとはいえ全身が焼け爛れた姿をしている。気にしないと決めても、やはり人目が気になってしまう。

 外に出ようとすれば体が竦み、屋敷の中でさえ人に会うのが怖かった。

 このままではいけないと思うのに、椿は踏み出すことができずにいる。


「冬正様」


 今は優しい夫も、こんな状態が続けば嫌気が差してしまうのではなかろうか。

 不安が胸の内で蠢く。


「呼んだか? 椿」


 出かけていたはずの冬正が声を返してきて、椿は驚き振り向いた。

 頭巾で顔を隠した冬正が、風呂敷包みを抱えて嬉しそうに笑っている。

 比良家との戦後から、彼は外出の際に頭巾を被るようになった。火傷の痕は全て消えているのに。

 椿が理由を問えば、末姫からの縁談をかわすために火傷の痕が残っていると偽っているのだと、もっともらしく言う。


「お帰りなさいませ」

「ただいま帰った。少しいいか?」

「ええ、もちろんです」


 縫いかけの布地を脇に片付けて、椿は冬正に向き直る。

 頭巾を取って椿の正面に座った冬正は、持っていた風呂敷包みを彼女の前で広げた。

 中から現れたのは、大小二つずつの桐の箱。


「開けてみろ」


 頷いた椿は小さいほうの箱に触れ、蓋を取る。中には乳の付いた赤い組み紐が二本入っていた。


「これは?」

「大きい箱も開けてみろ」


 よく分からぬまま、椿は言われた通りに大きいほうの箱も開けてみる。


「まあ」


 中に入っていたのは、赤い鳥の面。

 椿が確認したのを見て取ると、冬正は残りの箱も開けていく。こちらには黒い鳥面と組み紐が入っていた。


「これをかければ人目を気にすることもあるまい。もうすぐ祭りがある。夫婦鳥と洒落込もうではないか」


 冬正は手にした鳥の面を顔に当てがって、悪戯っぽく口の端を上げる。


「よろしいのですか?」


 思わず問うてしまったのは、彼女の胸に不安が燻り続けていたからだろう。

 傷痕を背負ったのは自分で選択したこと。後悔はなかった。

 けれど、姿を目にした者に怖がられることは、どうしたって悲しい。そしてそれ以上に、自分の容姿のせいで冬正の評判まで落とされてしまうことが、椿は恐ろしかった。


「私が椿と共に祭りに行きたいのだ。駄目か?」

「そのようなことはございませぬ。冬正様と一緒なら、私はどのようなことでも幸せなのですから」

「私も同じだ。椿と一緒なら、どのようなことも喜びに変わる」

「まあ」


 冬正の気遣いと彼が心から椿と出かけたいと願っている気持ちが伝わってきて、椿は胸が温かくなる。

 彼女がくすくすと笑えば、冬正も幸せそうに顔を綻ばせた。


 その年の秋祭り。

 揃いの鳥面を被った若君夫妻が祭りに色を添える。

 領民達は、相変わらず仲がおよろしいことだと、微笑ましく見ていた。

 夏の戦から冬正が顔を頭巾で隠すようになり、そして椿の姿を見かけなくなったことを、領民達も心配していたのだ。

 賑やかな祭囃子が、今年も瀬田の夜を賑やかに彩った。

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