第9話
戦場からの使者が訪れたのは、朱丸がぐずった翌日のことだった。
「長田様勝利。冬正様ご負傷」
報告を聞いた途端、椿は眩暈を覚えてよろめく。
軽傷ならば使者を使ってまで伝えさせるはずがない。場合によっては命に関わる可能性がある。
「怪我の詳細は?」
椿は恐怖を抑え込み震えながら問うたが、死者は困ったように首を振るのみ。彼も詳細は知らされていないらしい。
「分かりました。伝えてくれてありがとう」
使者が休息のため使用人に連れられて下がると、椿の体から力が抜けた。
「若奥方様!」
「大丈夫」
強がってはみたものの一人では歩けそうにない。女中達に支えられ部屋へ戻る。
けれど横になって休む気にはなれず、そのまま庭へ出た。敷地の奥にある土地神を祀る小さな祠の前で跪き、椿は手を合わせる。
「どうか冬正様をお返しください。どうか、冬正様をお救いください」
そのまま彼女は夜を徹して、一心不乱に祈り続けた。
「若奥方様、少しお休みください。若様がお戻りの際に若奥方様が臥せておられたら、若様のことです。御身の怪我など二の次にして、若奥方様の看病を買って出るに違いありません」
お鯨に窘められ、椿は微かに笑う。
妻の身を案じる冬正の姿が、容易に想像できたから。
「そうね。冬正様がお戻りになった時に、きちんとお迎えしなければ」
部屋に戻った椿はお鯨達に勧められるまま仮眠を取る。
しかし昼を回っても、冬正の負傷について続報を伝える使者は訪れなかった。
時が過ぎて、瀬田の地は夜の闇に覆われていく。闇は音までも、とっぷりと呑み込んだ。
義母や女中達に窘められ横になりはしたものの、椿は寝付けずにいた。
夜風にでも当たり頭を冷やそうと身を起こす。すると、たつ、たつ、と、複数の足音が屋敷に近付いてくるのに気付いた。
急ぎ小袖を羽織った椿は玄関へと急ぐ。駆けつけた時には門前に人だかりができていた。
煌々と照る松明の灯りに浮かび上がるのは、椿にも見覚えのある顔ばかり。幼い頃から冬正に仕えている家臣達だ。
ならば冬正もいるのだろうかと、椿は視線を走らせる。けれど男達の中に、愛しい夫の顔は見つからなかった。
彼らは一畳程の板を屋敷の中へ運び込んでいく。
嫌な胸騒ぎがして、椿の鼓動が早鐘を打つ。気を緩めれば叫び声を上げて崩れ落ちてしまいそうだった。
それでも確かめなければならない。
椿は強張る目に力を込めて、視線を男達の顔から板へと下げていく。
彼らが運び込んだ板には人が横たわっていた。全身に布が巻かれているため、誰だが判別できない状態だ。
それでも椿には、すぐに誰なのか分かった。
「冬正様!」
駆け寄るなり膝を突き、彼の手を取って呼びかける。
横たわる冬正は動かない。椿は恐怖に震えつつ、彼の耳元に口を近付けてもう一度呼んだ。
「冬正様、椿です! 分かりますか?」
「……つば、き?」
布の隙間から覗く唇が力なく動いた。
紡ぎだされたのは、彼女の名。
声は枯れていて、椿の知る冬正の声とは異なる。それでも正しく冬正の声だ。
――生きている。
その事実だけで、椿は胸と目頭が熱くなった。
強張っていた表情が緩み、目元には涙が浮かぶ。
けれど家臣達の前で不甲斐ない姿を見せるわけにはいかないと、歯を食いしばって涙を零さぬよう耐えた。
だが安堵で緩んだ体を支える力は残っていない。
立ち上がることのできない彼女に気付いたお鯨が支えてくれて、椿はようやく指示を出す。
「奥へお連れして」
「はっ」
椿は臥所に運ばれていく冬正に付き添って、屋敷の中へ戻った。
燭台へ灯りが点されると、冬正の姿が明らかになっていく。
赤く染まった布で全身を巻かれ、顔さえ見ることができない。肌が見えるのは、呼吸をするために残された口と鼻だけ。その鼻は爛れ、口は火ぶくれて腫れあがっていた。
医者を呼ぶよう言いつける椿を、冬正に付き添ってきた成貞が止める。
「無駄にございます。金創医の見立てでは、もう……。若奥方様の御名を呼び続けておいででしたので、殿にお願いして、先に戦場を失礼いたした次第です」
「そんな」
椿は目の前が真っ暗になり、息も継げない。
生きている。そう喜んだばかりだというのに、彼の命は風前の灯火だったのだ。
すでに呻く力も残っていないのだろう。冬正は静かに眠っているように見える。
「なぜ、このような」
冬正は若さに似合わぬ落ち着いた戦いを好み、自軍の損害を最小限に抑えてきた。
それらは全て、彼の帰りを待つ椿のもとへ戻るため。戦功よりも冬正の無事を願う彼女の心情を汲んでのことである。
そんな彼が、勝ち戦で全身に及ぶ重傷を負うなど考え辛かった。共に戻ってきた家臣達には目立つ怪我がないのだから、なおさら疑問が浮かぶ。
小さな呟きから彼女の思考を読み取ったのだろう。成貞が唇を噛む。
「此度の戦、若は功を焦っておられました。先陣を切り、敵城へ乗り込まれたのです」
末姫との縁談を断った件で、水嶌家への風当たりは強くなっていた。
己が招いた事態だからと、冬正は戦功を挙げて主家への忠誠を示そうと考える。比良知朱を討つため、自ら敵城に踏み込んだのだ。
追いつめられた比良は、長田側の者を道連れにして自害を選ぶ。火薬を用いたのか、轟音と共に火の手が上がったと成貞は語る。
「重勝が若を見つけた時には、全身を火に包まれていたそうです」
その東重勝の姿は、戻ってきた者達の中に見当たらない。
成貞は椿を気遣って口にしなかったが、冬正を救うため炎の中に飛び込んだ重勝もまた、大火傷を負った。幸いにも命に別状はなく、本隊と共に帰還する予定であるが。
「お傍に付いておりながら、お護りすることもできず申し訳ございませぬ」
謝る家臣達に対して、椿は首を横に振る。
涙が頬を伝い床を濡らした。
「よくぞ連れ帰ってくれました。礼を言います」
「……勿体のうございます」
今にも消え入りそうに力なく、虚ろな目で冬正を見つめ続ける椿の姿は、あまりに痛々しい。
自分達の不甲斐なさを痛感しながら、成貞は苦渋を呑み込んで応える。
椿は冬正の頬に触れた。
「冬正様、どうか椿を置いていかないでください」
その声が届いたのか、冬正の腫れた唇が動く。
「つば、き?」
「冬正様! お目覚めになられたのですね?」
「椿、どこにいる? 椿」
布で覆われている彼の目に、愛しい妻の姿は映らない。だから彼女を探しているのだ。
冬正が歯を食いしばり腕を上げる。けれど彼に残された力では、床から紙一枚入る程浮かせるのが精一杯。
彼の意を汲んだ椿は、冬正の手の下に己の手を滑り込ませた。
触れた瞬間、冬正の口から呻き声が漏れる。
椿はすぐに手を引こうとした。それなのに、冬正の指先が椿の手を求めて動いたのだ。そして彼女の手に触れると、やんわりと包む。
きっと彼は椿の手を握りしめたつもりだったのだろう。けれどそんな力は、すでに残っていなかった。
「つ、ばき」
もう一度椿の顔に触れようと、冬正が手を浮かす。
椿は頬を流れる涙をそのままに、傷を刺激せぬよう彼の手を優しく持ち上げた。
椿の頬に掌が触れた途端、冬正の口元がほんのり緩む。
冬正の姿を焼き付ける椿の目からは、止めどなく涙が零れ続ける。咽の奥から飛び出しそうになる嗚咽だけは、彼に聞かせまいと必死の思いで呑み込んだ。
「ただいま帰った、椿」
耳を近付けねば聞き取れぬ程の、小さく掠れた声。
一音も拾いそびれぬよう、椿は耳を傾ける。
「お帰りなさいませ、冬正様」
冬正の耳元に口を寄せ、彼に届けと祈りながら言葉を紡ぐ。
彼の目には映らないと分かっていても、顔に笑みを貼り付けて。
「すまない、椿。こんな姿になってしまった」
「いいえ。いいえ、よいのです。生さえいてくだされば、それだけで椿は嬉しいのですから」
彼が生きていて、声を聞かせてくれるだけで、椿は充分に幸せなのだ。
冬正は何か言いたげに唇を震わせた。けれど結局、何も言葉にせず閉じる。しばしの間を置いて再び唇が動いた。
「留守中、大事なかったか?」
死を前にしているとは思えぬ、穏やかな声。
「何事もなく、平穏でございました」
「そうか」
暗闇の中で声だけ聞いていれば、冬正は戦に赴く前と変わらないように思える。声は枯れ果てているけれど、妻を気遣う、優しい夫の声だ。
怪我など悪い夢だと、椿はそんなふうに錯覚しそうになった。そう、思い込みたかったのかもしれない。
「ですが、お会いできなくて寂しゅうございました」
「私もだ。椿が傍におらぬと落ち付かぬな」
どちらからともなく、くすくすと笑う。
だけど全身が痛むのだろう。冬正の口が、堪えるように引き結ばれる。
苦痛と戦う彼の様子に、椿は胸が引き裂かれるように痛む。漏れ出そうになる泣き声を押し留める彼女の唇には、血が滲んでいた。
「何か欲しいものはございませぬか?」
「水を少しもらえるか?」
「はい」
椿は女中が差し出した片口を受け取り、冬正の口元に宛がう。中には薬湯を冷ましたものが入っていた。
ほんの少しだけ含んだ冬正は、口や咽を襲う激痛に呻ぎ体を震わせる。
痛ましい反応の一つ一つが、椿の胸を深く抉っていく。
声を上げて冬正の名を呼んで、大丈夫かと問いたかった。死なないでくれと縋りたかった。
けれどそんなことをすれば、なおさら冬正に無理を強いる結果に繋がる。
椿を心配させぬために、冬正が命を燃やして平然を装おうとするのは容易く想像できた。
だから椿は耐えるのだ。
「椿」
「はい。なんでございましょう?」
椿が声を返しても、冬正は何も言わずに、静かに呼吸を繰り返す。微かに唇が震えたけれど、言葉は生み出されなかった。
「いや、呼んでみただけだ」
「はい」
そうではないのだろうと、椿は思う。
何か伝えたいことがあるのだと気付かない程、彼女が冬正を見つめ続けてきた歳月は短くない。
しかし冬正が言わぬと判断したのだ。彼女は彼の意思を受け入れる。
「椿」
「はい」
「少し、休む」
「はい」
動かなくなった冬正を見守る椿の唇から、押し留めていた嗚咽が溢れた。
彼に気付かれてはいけないと、手で塞いで声を押し殺し、椿は静かに泣く。
なぜ、冬正がこんな目に遭わなければならないのか。なぜ、戦など起きるのか。
涙と共に、疑問が湧き出てくる。
最期は夫婦水入らずにしてやろうとの、せめてもの心遣いか。いつの間にか臥所には椿と冬正、二人きりになっていた。
椿は冬正の手を取ったまま彼の傍から離れない。
脈が一つ振れる時間さえ惜しいと、夜を徹して彼を見つめ続ける。
「どうか、冬正様をお救いください。冬正様が助かるのであれば、私はなんでもいたしますから」
涙と共に零れ落ちたのは、切なる祈り。
明け方近くになり、椿はとうとう睡魔に負けた。
座ったまま目蓋を落とした椿は、黄金色に燃える世界に迷い込んだ。
※
金色に燃える炎が、きらきらと、そしてゆらゆらと。風に踊り、揺れては煌めく。
圧倒される椿だけれども、恐れは感じなかった。
椿は金色の世界を進んでいく。
しばらく歩いていると、人影が見えた。背に負うた朝陽に溶けて姿ははっきりしない。更に進めば、赤い着物を纏った童だと気付く。
伸びた髪も赤く燃えている。俯く彼の双眸からは、ぽたり、ぽたりと、清らかな雫が滴り落ちていた。
「どうしたの?」
椿が声を掛けると、童が顔を上げた。
柘榴石を思わせる赤い瞳は、人のものではない。
しかしその瞳を見て、椿は誰かに似ていると思った。それが誰なのか思い出せないのに、親しみを覚える。
椿は悲しむ童を慰めたくて、彼のもとへ足を進めた。
一歩、一歩と近付いていくと、金色に揺らめく大地に人が横たわっているのに気付く。その人物こそが、童が泣いている理由であろうと椿は思う。
一間程の距離まで行き、椿の足が止まる。
横たわる人物は、全身が真っ赤に染まっていて顔の判別が付かなかった。けれど耳に届いた呻き声で、椿は彼の正体を知る。
「冬正様?」
くぐもった声であろうとも、椿が彼の声を聞き間違えるはずがない。
残りの距離を一気に縮めると、縋りつくように彼の手を取った。
「冬正様、椿です! 冬正様!」
椿は何度も呼びかける。
しかし冬正は呻くばかりで応えない。
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