第8話

「お呼びでございましょうか、お義父上様」


 挨拶をして部屋の中を窺った椿は、珍しく機嫌の悪い冬正を見て困惑する。けれどすぐに気持ちを切り替え、国正に意識を戻す。


「長田様のご息女を、冬正の嫁にという話が来ておる」


 その言葉を告げられた瞬間、僅かではあるが椿の顔が辛そうに歪む。

 正月に冬正から話は聞かされていた。だから覚悟はしていたのだ。

 冬正から向けられる気持ちが消えたわけではないとも理解している。理解しているが、人の心はままならないもの。

 柔らかな蕾が容易く傷を負うのは止められぬ。


「椿、私はそなた以外の者を娶るつもりはない。そのような顔をしてくれるな」


 椿の苦しみを感じ取った冬正までが、苦痛を堪えるように眉根をぎゅっと寄せた。

 痛ましげに見つめる眼差しを受けて、椿は我に返る。

 武家に嫁いだ女が側室を認められないなど、恥ずべき思考だ。家を支える子を多く儲けることは、家を継ぐ者達にとって大切な務めの一つなのだから。

 己のしくじりを責めるように眉を下げると、椿は国正に向けて頭を垂れた。


「お見苦しい姿をお見せいたしました。申し訳ありません」

「椿が謝ることではない。そもそも側室を迎えるのは、世継ぎを生すためだ。子が出来ぬのであれば仕方ないかもしれぬが、私達はまだ焦る年ではないのだから」


 焦るどころか、椿はまだ若すぎる。彼女が充分に成熟するまで、冬正は子を生すつもりはなかった。

 椿から国正に顔を戻した冬正は怒気を隠しておらず、目を吊り上げて父を睨む。

 渋い顔つきの国正は、怒る息子を無視して椿に問う。


「椿、お前はどう思う? 末姫様を迎え入れたとして、上手くやっていけそうか?」

「父上っ!」


 冬正が咎める声を発するが、国正は息子を黙殺した。

 椿はためらいながらも想像する。末姫が水嶌家に嫁いできたら、どうなるであろうかと。

 末姫が正室に据えられて、椿が側室に落とされようとも、冬正が椿に冷たく接することはないだろうと思えた。

 しかし今まで彼女に向けられていた愛情の半分は、末姫に向けられてしまう。それを悲しく思わぬ女がいるものか。

 込み上がってくる苦痛を堪えるため、椿は下唇を噛む。

 けれども椿は、水嶌家の次期当主となる冬正の妻なのだ。自分の望みよりも、水嶌家のためになる選択をしなければならない。

 だから心を決めて、国正の目を真っ直ぐに見返した。


「私は、耐えられまする」

「椿?」


 冬正が悲痛な声を上げる。椿を呆然と見つめる面持ちは、まるで捨てられた子犬のようだ。

 椿はそうではないと首を横に振る。

 冬正を別の女性に奪われても平気というわけではないのだと。彼を見捨てたわけではないのだと。


「私は、冬正様を信じております。だから耐えられまする。共に過ごせる時が短くなろうとも、冬正様のお心は私にも向けられていると、忘れられてなどいないと、分かっているから」


 口ではそう言ったのに、目からは一粒の涙が零れ落ちる。


「あ、申し訳ございませぬ」


 ぎゅっと目を瞑った椿は、深く額づき顔を隠した。

 涙を呑み込む彼女を、ふわりと温かな衣が包み込む。顔を上げると、すぐ近くに冬正の顔があった。


「大丈夫だ、椿。思い詰めさせてすまない。不甲斐ない夫を許してほしい」

「いいえ。いいえ、大丈夫です。私は平気です」


 頭を振る椿の背を、冬正は優しく撫でる。

 私が大切に思っているのは、そなただけなのだと。言葉にせずとも、大きくて温かな手が語っていた。

 息子夫婦のやり取りを眺めていた国正は、胸焼け気味の腹から太い息を吐く。


「もうよい。二人とも下がれ」


 虫を払うように手を振る国正に退去の礼をして、椿と冬正は自分達が暮らす棟に戻った。

 人払いをして二人きりになるなり、冬正は椿を抱きしめる。


「椿、自分を責めてくれるな。何度でも言うが、私は椿以外の女を嫁に迎える気はない」

「ですが」

「仮に椿がいなくとも、あの姫は無理だ」


 冬正の声に滲むのは、強い嫌悪感。

 驚いた椿が顔を上げると、彼は眉間のしわを大袈裟に深めた。


「あのお方は、武家の妻にはなれぬよ。可愛がられるだけの側室に据えるのでさえ、家に諍いをもたらしかねん。正室になど据えれば、常に見張りが必要となろう。おちおち戦にも行けぬわ」


 そう言った冬正の顔は、栄螺の肝でも噛んでしまったかのように苦く歪む。

 椿は冗談だと思ったのだが、冬正は本気だ。


「いっそ、比良にでも送ればよいのに。あの姫ならば、策を与えずとも内から食い潰してくれよう」

「まあ」


 比良家はかねてより長田家と争っている家である。

 和睦の印などと称して、敵対する相手に娘を嫁がせることは多い。その際に利発な娘を選び、相手の内情を探らせたり中から不安を煽ったりするなど、敵を落とすための役目を担わせる場合もあった。 

 そんな大役を、ただ嫁がせるだけで成し遂げられると言うのだ。冬正が末姫を、どれだけ問題のある姫君と認識しているか、分かろうというものである。

 椿は冗談とも本気とも取れない冬正の言葉に、それ程に酷い姫がいるのだろうかと、不思議そうに首を傾げた。


 結局、冬正が首を縦に振らなかったので、国正は澄明のもとを訪れ、平身低頭で末姫の嫁入りを辞退した。

 元々長田家に比べて水嶌家は家格が低すぎる。冬正が戦に出るようになってから徐々に上向いてきているものの、それでもなお家格は釣り合わない。

 大切な末姫様が嫁いで来られても、苦労させてしまうのではなかろうか。今は倅を物珍しく見ておられるが、いずれ飽きがこよう。

 そんなふうに国正が心苦しさを滲ませて伝えれば、娘が可愛い澄明は、納得した様子で嫁入り話を取り下げた。

 だが澄明が引いたのは、国正の口車に乗ったからというだけではあるまい。

 新年早々、末姫が冬正に対して取った暴挙は、長田家に従う多くの家の者達に目撃されている。

 挙句の果てに椿を離縁させるなりして末姫の嫁入りを強行すれば、家臣達の間に不信感が芽生えかねない。そうなれば内からの崩壊を招くと、澄明も理解していた。

 だから娘のために打診はしても、強行するつもりはなかったのだ。

 娘可愛さに家を傾ける程愚かでは、乱世で生き抜くなど不可能である。

 こうして末姫の嫁入り騒動は、一端幕を閉じたのだった。



   ※



 季節は廻る。

 長雨が止み、からりと晴れたある日のこと。庭の松に止まった蝉が、耳をつんざかんばかりの勢いで鳴いていた。

 いつもならば眉をひそめる喚声だが、気に留める者はいない。

 屋敷のあちらこちらで指示が飛び、使用人達は忙しなく動き回る。

 緊張と熱気が溢れる中。椿は冬正が具足を纏うのを、不安をひた隠して手伝っていた。

 長田家の戦に、水嶌家も参陣するのだ。


「心配するな」

「心配などしておりませぬ。冬正様は此度も無事に戻ってこられますもの」


 冬正の言葉を、椿は即座に否定した。

 だが本心では冬正の身を案じている。

 彼はこれから戦に出向くのだ。何度経験しても、慣れることなどない。

 無事に帰ってきてほしい。怪我もしないでほしい。いっそ戦の話など立ち消えてしまえばいいのにと、男達が耳にすれば怒り狂うであろう言葉が、椿の頭の中をぐるぐると行き交っていた。

 だから椿は感情を隠し、余裕の表情を浮かべるのだ。

 私は大丈夫だと、冬正は何事もなく帰ってくると、自分自身と彼を安心させるために。

 ふっと目元を緩めた冬正の掌が、椿の頭を優しく二度叩いた。

 温かな重みが椿の緊張を緩ませる。その一方で、胸の内に寂しさが膨らんでいく。

 しばらくはこの優しい掌ともお別れだ。

 潤む目尻を誤魔化すため、椿は冬正を睨んで口を尖らせる。


「おやめくださいませ。もう子供ではありませぬ」

「そうか?」

「もうっ」


 口の端を吊り上げる冬正の胸を、椿は小突く。しかし鍛え上げられた彼が動じることはなかった。

 楽しげに笑い出した冬正を見て、椿も自然と笑みを零す。

 最後に兜の緒を締めると、互いの表情も引き締める。


「家のことは頼む」

「お任せくださいませ。ご武運をお祈りいたします」


 冬正は椿の背に手を回し、彼女を強く抱きしめた。

 部屋を出れば人目がある。二人の触れ合いは、これで戦が終わるまでお預けだ。

 温もりを忘れぬよう、成貞が呼びに来るまで、体をひたとくっ付けて離れない。


「若。お支度が済みましたなら、どうぞお出ましください」

「うむ。すぐに行く」


 椿が冬正の胸から顔を上げた時には、彼はすでに彼女の夫ではなく、戦人の顔に変わっていた。

 かすかな寂しさを覚えながら、椿もまた、武家の嫁の顔となる。

 火打石を打ち鳴らして厄を追い払い、冬正を送り出すのだ。

 門の外には戦支度を終えた男達が待っている。誰もが昂奮と闘志をみなぎらせ、幾ばくかの不安を覆い隠す。

 最後に出て来た国正が愛馬に跨り出陣の合図を出すと、一団は戦場に向けて進み始めた。

 遠ざかっていく冬正の背中を、椿はじっと見つめる。

 曲がり道で微かに振り返った冬正と椿の目が合った。彼は厳しい表情のまま小さく頷くと、もう振り返ることなく遠ざかっていく。


「どうぞご無事で」


 椿は手を合わせ、冬正と皆が無事に帰還することを祈った。



   ※



 じりじりと暑さが増していく。何もしていなくとも、人々の額には薄らと汗が伝う。

 蝉達の声は益々賑やかになり、眩し過ぎる陽光と共に人々を苛んだ。

 そんな中、椿は水嶌の屋敷で忙しく過ごしていた。

 戦場に出るのは主に男衆の仕事だが、その間、女達が何もせず男達の帰りを待つわけではない。

 物資の仕入れから戦場に届けるための手配、近隣の領地との連携など、女達にも多くの仕事がある。

 椿も冬正の妻として、彼の母であり国正の正室である生野の指揮の下、帳面や届いた書状と睨み合い指示を飛ばす。


「もう立派な奥方様ですね」


 新たな書状を運んできたお鯨が、微笑ましく椿を見た。

 水嶌家で働く者達は、椿が幼い頃から見てきている。だから彼女に対して、他家から嫁いできた者という感覚が薄かった。

 自然と接し方も、主従の線は引きながらも気安い所がある。


「まだまだよ。お義母上様のように、もっと手際よくしなければと思っているのだけれども、中々難しいわ」

「私どもから見れば、若奥方様も充分に働いておられますよ」

「そう言ってもらえると嬉しいわ。ありがとう」


 長田の末姫を迎えるかもしれないという話が出た後だけに、椿は冬正の妻としてきちんと勤めを果たせているか、以前にも増して気にしていた。

 そのことを女中達も察しているのだろう。さり気なく声を掛けては椿を励ます。

 椿が再び帳面へ視線を落とした時、けたたましい鳴き声が響いた。

 声の主は椿と冬正が世話をしている朱丸だ。拾った当初はまだ幼さが見えた朱丸は、今では立派な成鳥に育っている。

 とはいえ羽毛は相変わらず鱗のように硬く、空を飛ぶことはできなかった。


「珍しいですね」


 いつもは大人しい朱丸を知っているお鯨が、朱丸へ視線を向けて眉を寄せる。椿も表情を曇らせた。

 いったい何が気に入らないのか。朱丸は夜明け前からずっとこの調子だ。

 帳簿を置いた椿は、縁側の端に設けられた鳥小屋に向かう。中では朱丸が忙しく羽を動かし鳴き続けていた。

 怪我はしていないようだがどこか不調なのだろうかと、椿は注意深く朱丸を観察する。


「どうしたの? 朱丸」


 言葉を喋ることができない朱丸。それでも何かを訴えたいのだろう。椿の目をひたと見つめて一際大きく鳴いた。

 椿が鳥小屋から出してやると、庭に飛び降り桐の木に向かう。そして羽をばたばたと動かしながら、爪を使って器用に幹を上っていく。

 高い枝まで到達すると西の方角を凝視し、ぴーと切なげな声で甲高く鳴いた。

 そちらの方角に何かあるのかと、椿も朱丸が見つめる先へ顔を向ける。

 青い空と緑に覆われた山々。

 特に異変はなさそうだと見た椿だが、はっと気付いて青ざめた。朱丸が見つめるずっと先には、冬正達が出向いた戦場がある。

 胸騒ぎがして、椿は襟元を押さえた。

 再びぴいっと甲高く鳴いた朱丸を見ると、悲しげに揺らぐつぶらな瞳が椿を見下ろしていた。


「大丈夫よ。冬正様はきっとご無事な姿で戻られるわ。さ、下りていらっしゃい」


 外に出て少し落ち着きが戻った様子の朱丸に向けて、椿は両手を広げる。

 翼を広げて木から飛び降りた朱丸が、彼女の腕の中に納まった。

 空を飛ぶことは未だにできない朱丸だけれども、椿か冬正が下で待ち受けてやれば、木から飛び下りる。

 椿は朱丸の背を撫でてやった。

 体をすり寄せ気持ちよさそうに目を閉じる朱丸を見ていると、椿の心も和んでいく。


「甘えん坊さんね」


 目尻を下げたものの、一度芽生えた不安を払拭するまでには至らなかった。

 椿は天に向かって祈りを捧げる。


「どうか冬正様をお守りください。どうかあの人を、無事にお返しください」


 戦功など挙げなくてもいい。ただ元気な姿で戻ってきてくれさえすれば、それだけで椿は満足なのだ。

 そんなこと、もちろん人前では口にしないけれど。

 男達は戦功を挙げ食い扶持を得るために、戦場に命がけで出向くのだから。大将の妻が消極的な考えをしているなど知られてはならない。

 真摯に祈る椿を、朱丸がじっと見上げていた。

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