第7話

 冬正は感情を押し殺して口を動かす。


「勿体なきお言葉にございます。されど私は末端の者。末姫様には私などよりも相応しいお方がおられましょう」


 椿がその場にいれば驚いたであろう冷えた声で、冬正は末姫の誘いを迷いなく断る。

 彼の対応に、控えの間にいた者達が揃ってぎょっとした。

 末姫の言動は目に余る。けれど主君の娘を娶るのは名誉なことだ。長田家と縁続きになる利益は大きい。金を積んででも嫁に迎えたいと考える者もいるだろう。

 それ程の宝を、あっさりと捨ててみせたのだから。

 だが彼らの関心は、すぐに末姫へ戻る。冬正へどのような罰を下すのかと。

 緊張を含んだ空気が部屋を満たす中、その中心にいる末姫は、怒気を含むでもなくきょとんと瞬く。それから、きゃらきゃらと笑い声を上げ始めた。


「妾が選んでやったのだ。身分を気にしておるのなら、父上がどうとでもしてくれるわ。妾に感謝するがいい」


 末姫の声や仕草は、自分が夫にと望んだのだから断られるはずがないと、自信に満ち溢れている。冬正の気持ちなど、一切考慮する気配がない。

 冬正はますます嫌悪感を覚えた。主君の姫君に向けるものとは思えぬ程、眼差しが冷えきっていく。


「身に余る厚遇なれど、某にはすでに妻がおりまする。末姫様をお迎えするならば側室としてお迎えすることになりますが、それでもよろしかろうか?」


 末姫の傲慢な性格を考えれば、側室になるなど受け入れられないだろう。そうと確信した冬正は、諦めさせるべく述べた。

 しかし末姫は彼の予想を上回る。


「そのような者、離縁すればよかろう? 煩く縋ってくるなら首を刎ねればよい」


 口元に弧を描いたまま、羽虫の話でもしているかのように平然と言ってのけた。

 ひゅっと、冬正の咽が鳴る。

 部屋に控える者達も息を呑んだ。

 これではまるで、末姫の気に入らぬ者は瑕疵などなくとも首を刎ねると宣言しているようなものだ。

 末姫はにこにこと女童のように笑っていた。彼女にとって身分が下の者達の命を奪うなど、羽虫を潰す程度なのだろう。

 本気で椿を自分から奪うつもりなのだと理解した冬正の頭に、血が上っていく。

 肌が粟立つような殺気が溢れ出て、控えていた男達が警戒の目を向ける。

 たとえ末姫に非があろうとも、主君の娘に狼藉を働くなど許されない。冬正がぴくりとでも動けば、男達は即座に彼を取り押さえるだろう。

 一触即発の緊張が室内を満たす。

 けれど真綿で包まれて育った末姫だけは、自分に向けられる殺意に気付いていなかった。

 自分を迎えるための懸念に解決策を与えてやったのだからと、冬正が喜んで承諾するのを楽しげに待っている。


「冬正」


 咎める国正の声が耳朶を打ち、冬正は我に返る。

 憤る感情を必死に抑え込み、ゆっくりと息を吐いた。

 次に発する言葉を選び間違えれば、末姫は、椿の首を寄越せと言い出しかねない。迂闊な選択はできなかった。


「婚姻は家同士の繋がりもありますゆえ、某の一存では答えかねまする」

「父上は妾の願いなら、なんでも聞いてくれる」

「どうぞご猶予を」


 末姫はつまらなさそうに冬正を見下ろす。しばらくして何を思い付いたのか、にんまりと口角を上げて控えの間から出ていった。

 新年を祝って和気藹藹としていた空気は霧散している。

 互いに目を見交わし、それから水嶌親子を気の毒そうに見た。

 今日は水嶌家に降りかかった災難だが、次はどの家が末姫の標的になるか分からないのだから。




 疑いや怒りを隠して澄明に挨拶を終えた冬正は、予定を繰り上げ帰路に付く。

 長居していれば再び末姫に捕まりかねない。そう判断した国正に命じられて、一足先に三本松城を発ったのだ。

 屋敷に帰りついた冬正を、何も知らない椿が笑顔で迎える。彼女の顔を見て、荒んでいた冬正の心が和らいでいく。

 けれど椿はすぐに冬正の異変に気付き、顔を曇らせた。共に戻ってくるはずだった舅の姿がないことも彼女の不安を煽る。


「何かあったのですか?」


 冬正が愛馬から降りると、駆け寄ってきて心配そうな顔を向けた。


「大したことではない」


 すぐに相好を崩して首を横に振る冬正だが、幼い頃から共に暮らしている椿を騙せるはずがない。

 彼女の表情が強張ったままなのを見て、観念し肩を竦める。


「奥で話そう」


 頷いた椿は、冬正と共に自分達の部屋へ戻った。

 冬正は椿の側頭部に手を添えて引き寄せながら、彼女を安心させるように数度撫でる。

 安心したいのは冬正のほうだったのかもしれない。強張っていた彼の表情が、椿との時間で和らいでいく。


「末姫様にお会いした」

「長田様の姫様ですね?」


 ただ顔を合わせただけではないことは冬正の様子を見れば分かる。椿は不安を覚えながら話の続きを待つ。

 怒りややるせなさといった感情を呑み込むため、冬正が眉をぐっと寄せた。

 つまらぬ話を椿の耳に入れたくないと思う反面、黙っていれば彼女の不安を悪戯に煽るだろうことを彼は承知している。だから太い息を吐きつつも重い口を動かす。


「夫になれと言われた」


 椿の目が丸く広がっていく。

 身分の上下がはっきりしているこの時代。上からの命令を拒むには、命を捨てる覚悟が必要だ。

 末姫を迎えるのであれば、側室や妾というわけにはいかないだろう。椿は身を引くことになる。

 驚愕と不安が襲い掛かり、彼女の頭の中は真っ白になった。唇が震え言葉が出ない。呼吸さえ止まった気がする。


「私の妻はそなた一人だ。末姫様を娶る気はない」


 すぐに冬正が優しく椿の髪を撫でながら、安心させるため微笑んだ。

 彼の眼差しを受けて、ようやく椿は息を吸う。


「ですが、長田様からご下知があれば、迎えぬなどという選択肢がございましょうか?」


 青い顔で冬正の胸元に縋る椿を、冬正は愛しげに見つめる。

 それから一呼吸を置いて、表情をがらりと変えた。眉をこれでもかと寄せ、困っているのだと顔で表す。


「あれは、自分の思い通りにならなければ気が済まぬ、そういう女だ。私はあんな女を迎えたくはない。何より椿の傍に置くなど、考えただけでぞっとする。不安でそなたの傍らから離れられなくなりそうだ」


 冬正は大袈裟な口調で不満を述べると、椿をぎゅっと抱きしめ、彼女の首筋に顔を埋めた。


「まあ」


 椿は呆れと驚きが混じった声を上げて、子供をあやすように冬正の背を撫でてやる。

 冬正の狙い通り、椿の不安は逸れた。

 彼の息が首筋に当たって、くすぐったかったのだろう。椿はくすくすと笑う。

 彼女が落ち付いたのを確かめると、冬正は顔を上げる。愛しい妻の頬を両手で包み、彼女の目を覗き込む。


「どうかしばらくは一人にならないでくれ。私が必ずそなたを護るけれど、そなたも気を付けてほしい」


 冬正は長田家からの刺客を警戒していた。

 甘い囁き声とは裏腹に、追いつめられた眼差しで懇願する。

 椿は冬正が抱える不安の大きさを、正確に推し量っていた。愛する夫を慰めるために、細く白い手を彼の頬に添え、柔らかな表情を浮かべる。


「ここには気心の知れた者しかおりませぬ。冬正様がお留守の時は屋敷の中で大人しくしておりますから、ご案じなさらないでくださいませ」


 何が起きているのか正確な所が分からない椿の胸にも、不安が渦を巻いていく。

 主家の姫から気に入られただけで冬正がここまで不安定になるとは、椿には思えなかった。

 彼が語った以上に、なんらかの圧力が掛かったのかもしれない。椿のために無茶をしてしまうのではないかと、そんな予感が込み上げてくる。

 滲み出そうになる不安を悟らせないため、椿は甘えるように冬正の胸元に額を押し付けた。




 松の内が明けて、正月の浮かれた気分も消えてしばらく経った頃。

 冬正は火鉢に手を翳して暖を取る国正と睨み合う。

 二人の間には、一通の書状がある。長田澄明からの文だ。

 内容は、澄明の末の娘である末姫を冬正の嫁に迎えるようにとのお達しだった。

 これを頑なに断る姿勢を崩さない冬正に対して、国正から太い息が零れ落ちる。彼の顔には苦渋のしわが刻まれていた。


「冬正、いい加減に折れろ」

「お断りいたします」


 椿の前では物腰柔らかく、我を張ることの少ない冬正だが、彼女以外に対しては己の意見をはっきりと主張する。

 特に今回の件は、頑として首を縦に振らなかった。


「家長として命ずる」

「なれば父上の跡目は直正にお継がせください。私は直正の家臣に下りましょう。それでもならぬと仰るのであれば、椿と共に家を出まする」

「ならぬ」


 いくら娘に甘い澄明とて、家も継がぬ若造に愛しい娘を嫁がせたくなどなかろう。だからこそ、冬正は嫡男の座を弟直正に譲ると申し出る。


「何も椿を離縁せよと申しているのではない。椿を側室にし、末姫様を正室に迎えればよいではないか。椿を娶った頃は、当家と境谷家の家格はあちらが上だった。だが今は逆転している。側室に落としたとて問題はない」

「お断りいたします。私の妻は椿ただ一人。そもそも父上。武家の定めでは、一度正室を決めたなら、たとえ格上の家から嫁が来ようと正室は据え置くもの。それを末姫様に明け渡せなど、横暴でございましょう?」

「椿はまだ幼い。正妻と言ってよいものか」


 武家に嫁いだ娘の務めは子を残すだけではない。家を取り仕切るなどの務めを果たせられるかのほうが重要だ。

 それゆえに、生家の身分や子を生さないからなどという理由で、正室がその座を側室に脅かされることは滅多になかった。

 けれど椿はまだ若く、正室としての地位を確立しているとは言い難い。末姫を正室に迎えても大きな問題はないと国正は考える。

 冬正と椿の気持ちを除けば。


「そもそも、あの姫様に武家の妻が務まりましょうか? 仮に形だけの正妻とした所で、椿の存在に納得するとお思いですか?」


 冬正の寵愛を受ける椿を見た末姫が椿に手を出さないなど、冬正には到底思えなかった。どんな危害を加えるか、想像するだけでおぞましく思う。

 だから国正からどれ程正論をぶつけられようとも、冬正は断固として首を縦に振らない。

 険悪さが増すばかりの春正に、国正は苦く顔を歪める。


 公家や武家の結婚は、総じて戦略的な意味合いを持つ。本来ならば、主君から嫁を貰うことは誉れであり喜ばしい。

 たとえ冬正自身が嫌だと言っても、家長として無理矢理にでも話を進めるべき慶事である。

 しかし国正もまた、様々な利点を差し引いても末姫を家に取り込みたくはないというのが本音だった。

 末姫に対する澄明の溺愛ぶりは、問題視する家臣が現れる程に度を越している。

 澄明が老いてから生まれた彼女は、欲しいものは何でも与えられ、気に入らぬものは全て排除された。物も、人も。

 彼女の機嫌を損ねて手打ちにされた者の数は、他家の比ではないという。

 内側から輪を乱す者を迎え入れたなら、どんな禍を水嶌家に招き込むか分かったものではない。

 だから冬正の意見を聞く場を設け、頭ごなしに命じはしなかった。だが冬正の弁明では、主君から持ち掛けられた縁談を断る理由には足らぬ。

 まだ青い息子を恨めし気に見ながら、国正は白くなった火鉢の炭を突く。


「だいたい、私が末姫様とお会いしたのは正月が初めてですよ? なぜこのようなことになっているのですか? あの時もすでに、私のことをご存知の様子でしたし」

「お前の噂を聞きつけてな、女中を連れて瀬田まで見物に来ていたらしい。そこでお気に召したそうだ」

「私は珍獣か何かですか?」


 冬正は苦々しく顔を顰めた。

 末姫の身に万が一のことがあれば、彼女の傍にいる者達の首が飛ぶのだ。男一人を見るために遠出するなど軽率であろう。もしかすると、その行いですでに命を落とした者がいるかもしれなかい。

 末姫の行いを知る程に、冬正は嫌悪感ばかりが増えていく。


「私の噂を聞いているというのなら、私が椿以外の娘に興味がないことも耳に入っているのではありませんか?」

「今までちやほやされてきたのだ。自分を拒絶する者がいるなどと、思いもよらぬのだろうよ。……お前と話していては埒が明かぬ。誰ぞ、椿を呼んで参れ」

「父上!」


 こんな話を椿に聞かせたくないと冬正は気色ばむ。

 だが嫡男よりも当主の命令が優先されるのは当然の理。程なくして椿が呼ばれてきた。

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