第6話
男達が凱旋した翌日の夜半に、椿はふと目が覚めた。
部屋の中も外もまだ真っ暗だ。意識がはっきりとしてくるにつれて、晩秋の寒さが彼女の体を抱きしめてくる。
椿はぶるりと震える腕を擦りながら辺りの様子を探った。
なぜ目が覚めてしまったのか。不思議に思っていると、呻き声が耳に届く。
とっさに視線で声の元を探れば、衝立が映った。その向こう側では冬正が眠っている。
「冬正様?」
嫌な夢でも見ているのだろうか?
そんな不安に駆られて、椿は冬正を起こさぬよう静かに衝立の向こうを覗き込む。
そこで彼女は目を瞠った。
横たわる冬正の上に、青白い尸蝶が群がっていたのだ。
黒揚羽蝶に似た青く光る尸蝶達は、伸びる口吻を冬正に刺している。
彼から命を吸い取っているのだと気付いた椿は、慌てて冬正に駆け寄った。
「冬正様!」
両手を振るい、尸蝶達を追い払う。
「駄目! 冬正様を吸わないで!」
椿に払われた尸蝶達が、青い炎を上げて消えていく。
全ての尸蝶が消え去ると、椿は冬正の顔を覗き込んだ。酷く顔を顰めた彼の額には脂汗が浮かぶ。
椿は血相を変えて冬正の肩に体を伸ばす。
「冬正様、目を開けてください! 冬正様! ……誰か! 誰かおらぬか!」
大声で叫びながら冬正を揺すった。
「若奥方様? 如何なされましたか?」
「冬正様が」
駆けつた者に事情を説明しようとした椿だけれども、言葉にする前に呑み込んだ。
彼女の手首を、目を覚ました冬正が握ったから。
「なんでもない。嫌な夢を見ただけだ。下がれ」
上体を起こした冬正が指示を出し、人の気配が遠ざかっていく。
大丈夫なのだろうかと不安な椿の様子に気付いた冬正が、罰が悪そうに顔を背けた。
「不甲斐ない姿を見せたみたいだな。情けない夫ですまない」
「情けなくなどありませぬ。冬正様は、椿の自慢の夫です」
今度こそ耐えられなくて、椿の瞳からぽろぽろと涙が零れていく。
「怖かったです。青白い蝶が、冬正様を覆っていて。冬正様を奪われるのではないかと、不安で……」
嗚咽交じりに訴えると、ようやく冬正が椿を困ったように見た。そして慰めるように彼女の頭に手を乗せる。
温かな彼の温もりに、椿は落ち着くどころか涙腺がますます崩壊していく。衝動を抑え込めず、冬正にしがみ付いて泣きじゃくった。
受け止めた冬正が、頭や背を優しく撫でる。
「そうか。尸蝶に憑かれておったか」
ぽつりと冬正が呟いた。
恨みを残して世を去った者達の魂が、蝶に姿を変え生者を地獄へ誘う。
多くの命が消えていく戦場だ。死者の怨念を跳ね返せぬ心の弱い者は、尸蝶を憑けて帰り易い。
尸蝶を連れ帰ったということは、冬正が戦場に立つに相応しくない、脆い精神をしているという証。
「幻滅したか?」
椿は首を左右に振った。
「いいえ。椿は冬正様が、大好きでございます」
「戦場を恐れる、情けない夫だぞ?」
「人の死を悼める、優しい夫でございます」
戦乱の世において人の命は軽い。一々悲しんでいては心が持たないから。
だから武人達は心を削り、鈍らせる。それができて一人前。
けれど椿は冬正に、そうなってほしいとは望めなかった。
「皆様が認めてくれなくとも、椿が冬正様をお認めいたします。戦に出ても優しいお心を持ち帰ってくださった冬正様は、ご立派です」
たとえ太刀を交えなくても、たとえ体に傷を負わなくても、戦場には死の匂いが充満している。
どれ程恐ろしかったか。どれ程辛かったか。
優しい冬正の心が傷付かぬはずがない。
それでも戦が終わるまで戦場に立ち、笑顔を忘れずに帰ってきてくれたのだ。充分に凄いことだと、椿は断言する。
冬正が椿を抱き寄せた。その手から、震えが伝わってくる。
「加平が、首を撥ねられた」
思わず椿は息を呑む。
祭りの夜に、椿にも声を掛けてくれた男だ。顔中にしわを刻んで、楽しそうに笑っていた。
「辛うございましたね」
乾いて痛む咽から、必死に言葉を押し出す。
「佐吉が、滅多打ちにされていた。助けに行こうとしたら、傍にいた者に止められた」
「よう我慢なされましたね」
次々と語られる名は、氏も持たない半農の足軽達。
町に出て領民達と気軽に言葉を交わす冬正は、この戦で命を落とした者の名を、顔を、憶えていたのだ。
訥々と語っていた声に、感情が交じっていく。
怒気。苦痛。後悔。悲哀。懺悔――
「悲しむことさえ許されなかった。皆の亡骸が見ている前で、笑って勝ちを喜んだ。私は非情な鬼だ」
嗚咽交じりに吐き出される冬正の痛み。
椿は彼を、ぎゅっと抱きしめる。
頬を濡らす涙が、互いの衣を濡らしていた。
「冬正様が鬼ならば、椿も鬼でございます。椿は冬正様がお戻りになってくださり、嬉しゅうございました。加平も、佐吉も、友三も、多くの者が帰って来られなかったのに、冬正様のご無事なお姿を見て、椿は嬉しかったのです。喜んだのです」
夫や息子、父や兄弟を亡くし、涙にくれる領民達の姿を椿は見ている。怪我をした者も、大勢目にした。
それでも彼女は、傷付いた者の姿に涙を零すよりも、冬正の帰還を喜んだのだ。
「違う! 椿は鬼などではない!」
椿の華奢な肩の上で、冬正が頭を左右に振る。
「いいえ。違いません。民の死を悼み、苦しむ冬正様が鬼ならば、彼らの死を悼むより冬正様のご帰還を喜んだ椿は、もっと悪い鬼でございます」
違う、違う、と幼子のように首を振り続ける冬正に、椿は負けずと否定の言葉を重ねた。
次第に冬正の声から力が抜けていく。
「椿は人だ。鬼などではない」
「でしたら冬正様も人でございます。それでも、もしも冬正が鬼になってしまっても、椿は冬正様のお味方です。皆が冬正様を恐れても、椿は冬正様が大好きなのです」
「椿」
椿の華奢な体が、ぎゅっと抱きしめられた。椿も力いっぱい、冬正を抱きしめる。
庭に面した板戸の隙間から、月が淡い光を注ぐ。
幼い夫婦の顔を濡らす涙が、きらきらと輝いていた。
翌朝になり椿が目を覚ますと、隣に冬正の姿はなかった。
どこに行ってしまったのかと急ぎ身を起こせば、部屋の隅で頭を抱えて座り込む背中が目に入る。
「冬正様?」
椿が声をかけると、冬正の肩が跳ねた。ゆるりと振り向いた彼の眉は、叱られた童のように力なく下がっている。
四つん這いになって静かに椿のもとまで寄ってきたが、目は合わせず、明後日の方向を見ていた。
「昨夜のことは、忘れてくれ」
言い辛そうに小声で訴える。
椿はきょとりと瞬く。
領民思いの優しい冬正の姿は、彼女には誇らしく思えた。けれど殿方にとっては恥ずかしいことなのだろうと思い至る。
椿だって、泣いた姿は人に見られたくないから。
「はい。分かりました」
素直に頷いた椿に、冬正がほっと胸を撫で下ろす。
「ですが、椿が冬正様を大好きで、何があってもお味方だということは、忘れないでくださいませ」
ようやく冬正の瞳が椿を見た。じっと見つめた後、力強く頷く。
「忘れるものか。私も椿の味方だ。何があろうとも、お前を護ってみせる」
「はい。頼りにしております」
どちらからともなく二人の表情が緩む。
やっと、椿の大好きな冬正の優しい笑顔が戻ってきたのだ。
朝餉を終えた椿と冬正は、屋敷の裏手にある山に登った。
夜明け前に降った雨の名残か。山道は赤い木の葉の絨毯で覆われる。上を見れば濡れた紅葉がきらきらと輝いていた。
「綺麗。まるで夕焼け空の中にいるかのようです」
「そうだな。これ程美しい紅葉は滅多に見られまい。椿の日頃の行いがよいのであろう」
ひらりと舞い落ちてきた紅葉を、冬正がつかみ取る。指先で表裏を確かめるてから、椿の髪に挿した。
「椿には赤が似合うな」
椿の顔を覗き込んで、気取った様子もなく自然にそんな言葉を口に上らせるのだ。椿は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
楽しげな冬正と紅葉を楽しみながら山頂まで登ると、瀬田の町が一望できた。
椿達が暮らす水嶌家の屋敷。領民達が暮らす家々。更に向こうには、どこまでも続く青い海。
「よいか、椿。これが私達が護らなければならない瀬田だ。共に護ってくれるな?」
真っ直ぐな瞳で瀬田の地を見つめる冬正の顔は、大人びている。
見事な展望に目を輝かせていた椿は、冬正の言葉で気を引き締めた。
「もちろんにございます」
決意を込めてはっきりと頷けば、冬正が満足そうに破顔する。
自分は冬正の妻なのだと、この瀬田の地と、ここで暮らす領民達を護る領主の妻なのだと、彼女が本当の意味で意識したのは、この時だったのかもしれない。
水嶌冬正の隣に立てることを、椿は誇りに思う。
その日以降、冬正のもとに尸蝶が現れることはなかった。
※
月日は流れゆく。
椿は十四、冬正は十八となった新年のこと。白く染まる水嶌家の庭では、寒つばきが二輪、仲睦まじく身を寄せていた。
稚かった女童は、僅かに開いた蕾のような愛らしさと美しさを併せ持つ娘へと変貌を遂げる。
幼さを残していた少年も、整った顔立ちに精悍さを加え領地の娘達の目を奪う。
二人の仲のよさは変わらずで、瀬田の鴛鴦夫婦として周囲から温かく見守られていた。
「では行って参る」
「行ってらっしゃいませ。馳走を用意して待っておりますね」
「それは楽しみだ。なるべく早く帰ってくる」
年が明けて二日目の、まだ日も昇らぬ早朝。冬正は国正と共に、年始の挨拶のために主君である長田家の三本松城へ向かった。
控えの間に案内された水嶌親子は、同様に三本松城を訪ねてきた武将達と挨拶を交わす。
そうしていると、急に城の奥から緊張した空気が流れてきた。
何事かと、居合わせた者達は話を切って警戒を高める。
そばだてた耳に入ってくるのは、静まり返った廊下に響く衣擦れの音。歩き方から女であろうと察せられた。それも、身分のある者。
裾を引き摺る音が部屋の前まで到達し、男達は面を下げる。
御簾が上がり姿を見せたのは、澄明の末の娘である末姫だった。
正月らしい緋色に箔を乗せた鮮やかな打掛を纏う末姫は、公家風の化粧を施した顔を扇子で隠す。
齢十六になる姫は、澄明が目に入れてもいたくない程可愛がっている掌中の珠と有名だ。
城の奥で大切に育てられているはずの姫君が、なぜ男達が集う場所に足を運んだのか。居揃う男達は内心で戸惑う。
末姫の背後には女中達が付き従っているが、主を諌める様子はなかった。
訝しがりつつも顔を伏して末姫の動向を窺う男達の気持ちなど慮ることなく、末姫は控えの間をぐるりと見回した。
「水嶌冬正はどこにおる?」
男達が頭を垂れているせいで顔が見えなかったからか、不機嫌な声で問い掛ける。
冬正は、なぜ自分の名が挙げられたのかと疑問に思った。だが応えぬわけにはいかない。
「某にございます」
「おお、そなたか。許す。面を上げよ」
「はっ」
嫌な予感がした冬正は、深く額づく真の礼から、肘を曲げたまま上体を僅かに起こす行の礼へ緩めるに留めた。
「面を上げよ」
「はっ」
苛立つ末姫の声に返答し上体を更に起こす冬正だが、なおも視線は下げ続ける。
立っている末姫からは、床に座り下を向く冬正の顔が見えぬのであろう。不機嫌そうに目を細めた。
真っ直ぐ冬正に向かって進むと、彼の前で足を止める。そしてあろうことか、閉じた扇子を冬正の顎に宛がい顔を上げさせた。
そのあまりに傍若無人な振る舞いに、控えていた男達は眉をひそめる。
しかし末姫はお構いなしだ。
冬正の顔を満足気に眺め、唇で弧を描く。
「ふふ。近くで見ると、ますますよき男じゃなあ」
末姫の声にも表情にも、椿が冬正に向けるような、優しさや労わりの感情は欠片も見当たらない。
冬正は、まるで自分が人ではなく、物として扱われているような錯覚を感じた。
不快な気持ちが込み上がってくるが、その感情を主君の娘に向けるなど許されない。視線を床へ落として瞳に宿る嫌悪感を隠す。
末姫は冬正の心情には関心がないらしく、満足そうな顔のまま、耳を疑う言葉を投げつけた。
「喜べ。妾の夫にしてやろう」
冬正は瞠目する。
彼女は主君の娘ではあるが、彼の主ではないのだ。冬正を夫に望むのであれば、澄明に頼み、澄明から水嶌家に申し込むなり命じるなりするのが道理である。
しかしそれ以前に、彼にはすでに愛する妻がいるのだ。末姫に望まれたとて何を喜べようか。
傲慢な申し出に対し、怒りを通り越して呆れを覚える。
相手をすることすら煩わしいが、無言のままでは承諾したとみなされる危険があった。
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