第5話

 秋の祭りが終わった途端。水嶌の屋敷は騒がしくなった。

 男達の目が獲物を見つけた獣のように、ぎらぎらと輝く。言葉や態度が大きくなり、同時に威圧感が増す。

 女達の囀りは賑やかに、しかし声音は低くなっていく。

 屋敷に充満する不穏な空気は、もうすぐ戦が始まるのだと告げていた。


「あまり大きな戦にならなければいいのですけれども」


 松の幹に爪を引っ掻けて登っていく朱丸を眺めながら、椿はぼやく。

 生家である境谷家でも、幾度となく経験したこと。しかし戦は勝ち負けに関わらず、人の命を奪う。戦の度に、見知った顔が消えていくのだ。

 慣れてはいても、不安を覚えてしまうのは仕方のないことだろう。


「椿、何をしている?」


 振り向くと、背後に冬正が立っていた。


「朱丸を見ておりました。お義父上様はなんと?」

「うむ。後で話そう」


 控えている女中や側付きの家臣達には聞かれたくない話らしい。

 頷いた椿の隣に、冬正が腰を下ろす。

 二人が他愛のない会話をしていると、朱丸がぴいっと悲しげに鳴いた。羽を広げて地面を見つめていたが、椿が顔を上げたことに気付くと、じっと彼女を見つめ返す。


「下りられないの?」


 朱丸はぴいっと鳴いて答えとした。

 庭に出ようと立ち上がる椿を、冬正が手で制止する。


「あまり甘やかしてはよくない。あの程度の高さならば、飛び降りられよう」

「ですが」

「ほれ、朱丸。自分で飛び降りてみよ。その高さならば怪我はせぬ」


 朱丸が止まる枝の高さは大人の肩程。翼を持たない猫でも飛び降りれる高さだ。

 椿は冬正に従って静観することにした。

 しかし、ぴいっと幾度となく切なげに鳴く朱丸を見ていると、つい助けたくなる。椿はちらり、ちらりと冬正を窺った。

 冬正は口を一文字に引き結び、厳しい眼差しを朱丸に向ける。それを見て、許してくれそうにないと椿は眉を下げた。


「頑張って、朱丸」


 せめてもと応援の声を掛ければ、朱丸が悲しげに目蓋にしわを寄せる。

 椿の胸が、ずきりと痛む。

 誰も助けてくれないとようやく理解したのか、朱丸が動き出した。ゆるゆると歩き出したかと思うと、樹皮に爪を喰い込ませて幹を下りていく。


「朱丸。せめて羽を広げてみせるくらいの気概を見せよ」


 呆れた顔の冬正がなんと言おうとも、朱丸は地面に足が付くまで羽ばたかなかった。

 ようやく地面を踏みしめると、椿と冬正を睨みつける。それから、ふいっと顔を背けた。


「朱丸? 怒っているの?」


 椿が声を掛けても振り向かず、庭の奥へ歩いていく。


「どこへ行くのだ? 戻って来い」


 冬正も呼びかける。けれど拗ねた朱丸は素知らぬふりだ。


「困った奴だ」


 心配そうに朱丸の背を眺める椿の隣で、春正が苦笑する。

 しばらく庭の隅にある木陰に身を潜めていた朱丸は、餌の時間になると何事もなかったかのように現れて餌を啄ばんだ。




 夜になり臥所で二人きりになると、冬正は椿の対面に座った。大切な話があるのだと察した椿は、姿勢を正して彼の言葉を待つ。


「父上から初陣を申し付けられた」

「初陣、でございますか?」


 椿は思わず聞き返す。


「ああ。此度の戦で初陣を飾るよう、父上から申し付かった」

「それは、おめでとうございます」


 椿は手を突いて祝辞を述べる。しかし心の中は大きく動揺していた。

 初陣での勝敗は、験を担ぐ武士達にとって大切なものだ。切羽詰まった状況でもない限り、勝てる見込みが強いと判断された戦が選ばれる。

 だから危険は少ないのだと、椿も理解していた。それでも戦に絶対はない。

 胸を不安が掻き乱す。


「心配などしてくれるな。私は頼りにならぬか?」

「心配などしておりませぬ。冬正様はお強うございます。頼りになる夫でございます」


 椿が語気を強めて即座に返せば、冬正が目を瞠る。二つ瞬いてから、顔を綻ばせた。


「そうか。頼りになるか」

「はい。頼りになります」


 真面目な顔で仰々しく頷く椿の頭を、冬正が乱暴に撫でる。


「では、期待に恥じぬ活躍をして参らねばの」

「活躍はいいですから、ご無事な姿で戻ってきてくださいませ」


 乱れた髪を直しながら、唇を尖らせて椿は冬正を睨む。

 子供扱いされるのは今更だが、髪を乱されるのは許せなかった。


「功を上げてこずともよいのか?」

「功よりも、五体満足で帰ってきてくださるほうが嬉しゅうございます」


 たとえ戦に勝とうとも、戦場に出れば手足を失って戻ってくるなど珍しくもない。

 家臣に護られた将だとて、攻め込んできた敵兵に傷を負わされたり、流れ矢で負傷することもある。

 椿は冬正の身を案じた。


「椿は変わっておるな」

「お叱りになられますか?」


 男達は命がけで武功を挙げに行くのだ。それなのに夫の戦功を望まないなど、武家の妻として顰蹙を買いかねない。

 そんなこと、椿だって知っている。けれど冬正には無事でいてほしいと思ってしまうのだ。


「いいや」


 しょんぼりと項垂れる椿に対して、冬正は首を横に振る。


「正直に言えば、嬉しいと思った。だが他の者の前では言うなよ?」

「分かっております」


 許されないはずの想いを嬉しいと言ってもらえて、椿の顔に笑みの花が咲く。


 心配する椿をよそに、翌日から大人達は冬正に祝辞を述べた。側付きの家臣達も、彼の活躍を期待する声を掛ける。

 笑顔で応える冬正の表情がいつもより硬いことに、椿だけが気付いていた。

 平気な振りをしていても、命のやり取りをする場所に向かうのだ。不安を覚えるのは已むを得まい。

 ならば自分まで暗くなってはならないと、椿は心を奮い立たせる。


 そして迎えた、明日は出陣という日の夜。

 眠る椿とは衝立を隔てた向こうから、幾度も寝返りを打つ音が聞こえた。四半刻程過ぎても鳴りやまぬその音に、冬正の不安が垣間見える。

 椿はそっと茵を這い出す。


「眠れないのか?」


 衝立の向こうへ回り込む前に、冬正のほうが声を掛けてきた。


「はい。そちらに行ってもよろしいですか?」

「……。ああ、お出で」

「ありがとうございます」


 少しの間を置いて許しを得た椿は、冬正の茵に潜り込んだ。


「添い寝をするのは久しぶりだな」

「もう大人ですから、一人で寝られますもの」

「然して変わってはおるまい」

「もう!」


 椿が冬正の胸を叩いて抗議するけれど、彼は笑うだけで痛がる素振りも見せない。

 嫁いだ当初。椿は慣れない生活が心細くて、中々寝付くことができなかった。時には寂しくて泣いた夜もある。

 そんな彼女を、冬正は自分の隣に誘ってくれたのだ。


「必ず、帰ってきてくださいね」

「心配するな。勝てる戦だ。危険はない」

「それでもです。必ず椿のもとへ帰ってきてくださると、お約束ください」

「分かった。必ず椿のもとへ帰ってくると約束しよう」


 冬正が差し出した小指に、椿の細い小指が絡まる。

 いつも通りの柔らかな夫の笑顔を見て、椿はようやく安心した。それでもつい念を押す。


「絶対ですよ?」

「絶対だ」


 半身に伝わる優しい温もりを感じながら、二人は夜の帳に身を任せた。




 外はまだ暗い刻限。

 冬正が具足を纏う姿を、椿は部屋の隅に端座してじっと見つめていた。

 本来ならば、冬正の戦支度は妻である椿の務めだ。けれどまだ幼い椿に具足は重く、肝要の紐を結ぶ力にも懸念がある。

 だから身支度は別の者に任せざるを得なかった。

 次は自分の手でと、椿は悔しさを覚えながら、一つ一つの手順を食い入るように凝視し頭へ叩き込んでいく。


「若奥方様」


 声を掛けられた椿は、頷いて立ち上がる。冬正の前に進み出ると、何度も練習した通りに兜の緒を締めた。

 兜の緒であれば、道中で結び直すこともできるから。

 儀式的なことだと理解していても、椿の指先は緊張で震えていた。それでも奥歯を食いしばり、冬正の無事を祈りながら力いっぱい紐を結ぶ。


「しばらく留守にする。家のことは頼む」

「お任せくださいませ。ご無事でのお帰り、お待ちしております」

「ああ」


 年端もいかぬ夫婦は、互いの顔を己の瞳に焼き付ける。

 冬正の姿がじわりと歪んでいく。けれど戦の見送りに涙は禁物だ。笑顔で送り出さなければと、椿は目に力を込め無理にも口角を上げる。


「椿」


 滲む涙を見せまいと顔を俯けた椿の耳に、冬正の声が響いた。

 反射的に顔を上げた椿の視界が、彼の顔で覆われていく。

 部屋にいた者達があっと声を上げた時には、椿の唇に柔らかな何かが触れていた。


「あ……」


 驚いた椿の目尻から、涙が引っ込む。

 口元を両手で押さえて顔を上げると、冬正が悪戯が成功したとばかりに笑っていた。でもその表情は強張っていて、彼も緊張しているのだと椿は悟る。

 だから椿は彼の気持ちに応えるべく、口を尖らせ眦を吊り上げたのだ。


「もう! 冬正様!」

「しばらく会えぬのだ。このくらい許せ」

「皆の前でございます」

「夫婦なのだ。よいではないか」


 椿は真っ赤な顔をして、冬正の胸を拳で叩いた。

 諸手を挙げて降参を示す冬正から、緊張が消えていく。ぷっくりと膨らんだ椿の頬を、楽しそうに指で突ついた。


「おやめください。椿はもう、童ではないのです」

「そうか? ほっぺが膨らむのは、童の証であろう?」

「そのような意地悪を言うのであれば、もう知りません!」


 そっぽを向く椿の頭を、冬正の掌が優しく二度叩く。いつもよりゆっくりと、感触をその手に刻み込むように。


「心配してくれるな。私が椿との約束を破ったことがあったか?」

「心配などしておりませぬ。冬正様は椿との約束を、必ず守ってくださいますから」


 しっかりと冬正の目を見て、椿は断言した。

 必ず帰ってきてくれるのだから、心配する必要などないのだ。

 そう不安が渦を巻く心に落とし込む。


「若、そろそろ」

「ああ」


 もう刻限だ。二人は表情を引き締め直した。

 椿は侍女が差し出した火打石を手に取ると、冬正に向けて火の粉を飛ばす。彼に憑こうとする死神を追い払うために。

 決して冬正を渡してなるものかと、椿は強い意志を込めて火打石を打った。


「行って参る」

「行ってらっしゃいませ」


 玄関に向かって歩き出した冬正の後ろに、椿も続く。

 外へ出ればもう、冬正は水嶌家の嫡子として振る舞わなければならない。椿もまた、彼の妻としての振る舞いを求められる。

 戦が終わって戻ってくるまで、彼女の好きな冬正とは話せないのだ。


「者ども! 水嶌の恐ろしさを思い知らせてやろうぞ!」

「おお!」


 屋敷の前に集まる兵達に向かって国正が声を張ると、男達の威勢のよい声が地鳴りのように響いた。

 馬上の人となった冬正が、軍勢と共に遠ざかっていく。姿が見えなくなり、見送っていた人達が屋敷に戻っても、椿はいつまでも見送った。




 冬正の初陣は、予想通り危なげのない勝利で終わった。


「冬正様!」


 屋敷近くまで戻ってきた軍勢の中に冬正の姿を見つけた椿は、思わず駆け出しそうになって我に返る。

 幼いとはいえ武家の妻。はしたない姿を見せるわけにはいかない。

 逸る気持ちと足を抑え込み、まだかまだかと冬正の姿が眼前まで辿り着くのを待った。


 韋駄天丸に跨がった冬正が、徐々に近付いてくる。

 怪我はないだろうかと目を凝らす椿は、冬正の表情が旅立つ前と変わっていることに気付いた。

 晴れ渡った日の穏やかな海を思わせた冬正の柔らかな表情。それが雨が降る前の、灰色に染まる海に変わっていたのだ。

 初陣を飾ったことで経験を積み一人前になったと、精悍になったと、誉めるべき変化なのだろう。

 けれど椿は、ちっとも嬉しい気持ちになれなかった。

 実際に戦場を見たことはない彼女だが、どんな所かは想像が付く。武家に生まれた少女は、物心ついた頃から大人達の話を聞いて育ったのだから。

 死の匂いが充満する戦場で、冬正はいったいどれ程辛い体験をしたのか。


「冬正様」


 喜びで膨らんでいた心が急激に萎んでいく。椿は締め付けられる胸の前で手を握った。

 しかし苦しんでいるのは椿ではない。冬正だ。

 ならば悲しむ顔は見せられないと、感情を呑み込み、ひたと冬正を凝視する。すると馬上の彼と目が合った。


「椿」


 彼の唇が、彼女の名を紡ぐ。

 直後、目を逸らされた。間を置かずに上げられた顔には、以前と変わらないように見える笑みが浮かぶ。

 それはほんの一瞬のことだった。けれど椿は確かに見たのだ。目が合った瞬間、冬正の顔が苦しげに歪んだのを。


「お先に」


 一声掛けた冬正が、手綱を振るう。

 軍勢を追い抜き、椿のもとへ誰よりも早く到着する。


「約束通り、戻ったぞ?」


 韋駄天丸の背から下りた冬正は、手綱を下男に預け椿の前に立つ。両手を広げて怪我はないと示しながら。

 冬正は、以前のように悪戯っぽく陽気に振る舞う。

 その姿が却って痛々しく思えて、椿の目に涙が滲んでいく。だがそんな涙は見せまいと、椿は口角を引っ張り上げて笑みを作った。


「お帰りなさいませ、冬正様」

「ただいま帰った、椿」


 笑顔で迎える椿に、明るく笑い返す冬正。

 戦から無事に帰ってきた夫に喜ぶ妻と、妻の顔を見て戦の緊張から解放される夫。

 傍目には睦まじく映ったかもしれない。

 けれど椿は冬正が無理をしていると感じて、胸が軋んだ。

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