第4話

「お屋敷に戻られますか?」


 問うてきたのは冬正の側付きの一人、堀井成貞だ。気遣わしげに椿の様子を窺う。


「大丈夫でございます」


 成貞の心遣いはありがたく思う椿だが、すぐに屋敷に戻るのは遠慮したかった。気怠くて、僅かの間でいいから体を休ませたいと思う。


「怪我もないし、休んでから戻ればよかろう。初めて海を見た思い出が、人魚に引きずり込まれて溺れただけというのでは、水嶌の沽券に係わる」


 冬正が仰々しく顔を顰めれば、家臣達も真面目な顔で頷く。けれどその目には嬉しさが隠しきれていない。

 主と然して変わらぬ年頃の家臣達は、いそいそと動き出す。

 乾いた流木を集め火を着けると、捕えた魚を海岸へ取りに行く。そのまま着物を脱ぎ捨てて海に潜る者もいた。

 目まぐるしく動き回る少年達。

 後ろから抱きかかえるようにして冬正に体を支えられていた椿は、目を白黒しながら彼らの様子を見物する。

 しばしして、熊笹の葉に乗せた魚の刺身が差し出された。


「食べてみよ。美味いぞ?」


 冬正が勧めるけれど、椿は先程胃の腑から水を吐き出したばかりだ。食欲などあろうはずもない。

 それでも期待に満ちた目を冬正と彼の家臣達から向けられては、断れなかった。ためらいがちに手を伸ばす。

 刺身は瀬田に来てから、すでに何度か食べたことがあった。

 山に覆われた三谷の地で獲れるのは川魚ばかり。海から届けられる魚は干して硬くなっている。どちらも火を通してから膳に上がった。

 だから生の魚と聞いて、初めは躊躇した椿だけれども、今では刺身の美味しさを理解している。

 白く透き通る切り身を指の先で摘む。口に入れると、もっちりとした新鮮な身が舌に吸い付いてきた。

 軽く海水に通したからだろう。潮の香りが口の中に広がり、刺身の甘味を引き立てる。

 味わう椿の頬が緩んでいった。


「甘くて美味しゅうございます」

「そうであろう。魚は獲れたてが一番美味い。時と共に味が落ちてしまうのだ」


 椿の評価を受けて、冬正が自慢げに頷く。彼の家臣達も満足そうだ。


「若奥方様、こちらもお食べください。甘うございますよ」


 差し出されたのは、栗の毬を黒く焦がしたような塊。

 甘い栗を想像して嬉しげな表情を見せた椿だったけれど、一転して顔を強張らせる。針が四方八方にそれぞれ動いていたのだ。


「栗が動いておりまする」

「雲丹だからな。これも美味いぞ?」

「食べられるのですか?」

「中に山吹色の身がある」


 割った毬の中には、栗の実の代わりに山吹色をした身が覗いていた。

 椿は思い切って手を伸ばしてみるが、割られても蠢く針を見て手が止まる。


「仕方ないのう」


 苦笑を漏らした冬正が、家臣から雲丹を受け取り指を突っ込んだ。山吹色の身を小指の先ですくい取ると、椿の口元に運ぶ。


「ほら、口を開けよ」


 唇にちょいちょいと付けられてしまえば、逆らうことはできない。椿は眉をひそめながら、勇気を振り絞って口を開く。

 冬正の指が入ってきて、ねっとりとした雲丹の身を舌の上に乗せた。

 噛むまでもなく、舌の上で転がしているだけで溶けていく。栗とも魚とも違う濃厚な甘味が、椿の味覚を虜にする。

 椿は目を輝かせ、口中に残った風味までじっくりと堪能した。


「美味しゅうございます」

「気に入ったか。雲丹は身が少ないが、魚と違い動きが鈍い。なくなれば獲ってこさせるから、遠慮なく食べるといい」

「ありがとうございます」


 家臣達は刺身以外にも、焚き火で焼いた魚や貝も椿に差し出す。

 胃の腑がもたれていたはずの椿だったけれど、勧められるままに次々と頬張る。どれも美味しくて、気付けばもう一口だって入らない程満腹になっていた。


「壷を仕掛けておいたから、明日は蛸を食べさせてやろう」

「足が八本あるという魚ですね?」

「憶えておったか。楽しみにしておれ」

「はい」


 笑顔で応じた椿だけれども、翌朝、生きた蛸と対面した彼女は凍り付く。

 潰れた体。うにょうにょと動く、いぼだらけの触手。

 這うようにして近付いてきた蛸に慄いた彼女は、涙目になって冬正にしがみ付いたのだった。




 椿が初めて海へ行ってから、しばらく経ったある夜のこと。

 うだる暑さに椿は寝苦しさを覚えていた。

 冬正も同様なのか。衝立の向こうで、ごそごそと音を立てる。

 音が止むと、冬正が衝立を回り込んできた。椿はどうしたのかと眠い目をこすりながら顔を向ける。


「椿、静かに」


 小袖姿の冬正は、椿にも出かける用意をするよう促す。

 訳も分からぬまま、椿は体に掛けていた小袖を纏う。支度を終えた椿を連れて、冬正は屋敷を抜けだした。


「どこへ行くのですか?」


 冬正に抱きかかえられるようにして、椿は韋駄天丸の背に揺られる。

 後ろには彼の家臣達が付いてきていたが、二人の会話に割り込むことはない。


「海だ」

「こんな夜にですか?」

「こんな夜だからだ。……椿に海を嫌いになってほしくないのだ」


 瀬田の地は海と共にある。豊かな海から食料を、そして富を得る。

 水嶌家に嫁いだ椿も、海と共に生きていかなければならない。

 だけど、椿は海を恐れていた。

 幾度か冬正が連れて行き、恐くないよう手を引いてくれたのに。波打ち際に近付こうとすると、彼女の体は竦んで動けなくなってしまう。

 どこまでも青い海は美しく、寄せては返す波も見ていて飽きない。潮の香りも、美味しい魚介類も、椿は気に入っている。

 それでも人魚に攫われて溺れた体験は、彼女の心を深く蝕み続けていた。


「申し訳ありません」


 水嶌家の嫁として、いつまでも海を怖がっているのは問題がある。領民達の目もあるが、いざという時に舟に乗れなければ敵襲から逃げられない。


「謝るな。海の危険をしっかりと教えずに連れて行き、椿を一人にした私が悪い」

「そのようなことは」


 椿が否定の声を上げると、冬正は首を横に振った。


「人魚が本気で泳いでいれば、追いつけなかっただろう。椿をむざむざ死なせるところだった」


 幸いと言ってよいのか、椿を海に引きずり込んだ人魚は、彼女を餌にして、他にも獲物が掛かるのを待っていたのだろう。遊ぶようにゆっくりと泳いでいた。

 だから追いかけてきた冬正の姿を見ると、逃げるどころかにまりと笑んだのだ。

 けれど人魚の思惑は外れる。

 椿を引き寄せることで人魚との距離も縮めた冬正は、容赦なく懐刀を突き刺した。そして顔を歪めて悲鳴を上げる人魚はそのままに、椿を抱えて浮上したのだ。


「もう同じ過ちは繰り返さぬ。椿は私が必ず護ってみせる」

「冬正様」


 愛馬の手綱を握りながら、椿をぎゅっと抱きしめる。


「海は恐ろしい所もある。だがそれだけではない。今宵の海を見れば、椿もきっと海を好きになるだろう」


 自信ありげに笑う冬正の顔を見て、どれ程素敵な海を見せてもらえるのかと、椿は胸を高鳴らせた。


「楽しみです」

「必ずや驚くぞ」


 椿は流れ星を探したりしながら、冬正の胸にもたれて夜の散歩を楽しむ。

 月のない夜空には、散りばめられた星々が色取り取りに煌めく。

 夢中になって見上げていると、波の音が聞こえてきた。


「椿、目を閉じていろ。いいと言うまで開けるのではないぞ?」


 冬正の言葉に椿は逆らわない。言われるまま目を閉じる。

 とくり、とくりと、彼の胸から鼓動が伝わってきた。温かくて、優しくて。

 彼女を撫でる涼やかな夜風も心地よく、目を閉じている椿は微睡んでいく。

 そろそろ夢の中に入ろうとしたところで、再び冬正の声が耳をくすぐった。


「椿、目を開けよ」


 椿はとろんとした目で上を向く。冬正のきらきらと輝く瞳と目が合った。

 嬉しくなって口元を綻ばせる彼女に、冬正は苦笑をこぼす。


「椿、私ではなく海を見よ」

「海、ですか?」


 きょとんと瞬いた椿は、不思議に思いつつも波打つ音のほうへ首を動かした。


「うわあ」


 椿の口から感嘆の声が零れ出る。

 濃藍色をした夜の海には、空にも負けぬ無数の星が輝いていた。

 幾筋もの光の帯が筋を描き、徐々に陸へと流されてくる。そして波に押されて浜辺へ打ちあげられると、一際明るく輝いた。

 浜に取り残された星々は、煌めきながら消えていく。

 壮大な絶景。それでいて儚い余韻を覚える終焉。


「お星様が落ちたのですか?」

「さて? 夏になると月のない夜に、こうして海が光ることがあるのだ。どうだ? 気に入ったか?」

「はい。たいそう美しゅうございますね。連れてきていただき、ありがとうございます」


 椿は冬正の温もりに包まれたまま、しばらく海の星々に魅了された。

 青白く、時に黄色にも見える柔らかな光。空の星々よりも近いせいか、ずっと強く輝いて見える。


「海の星を拾ってはいけませぬか?」

「行ってみるか?」

「はい」


 冬正は韋駄天丸に乗ったまま、海に近付いていく。

 景色に見惚れていた椿の体は、波打ち際近くまで辿り着いても強張る気配がなかった。それどころか、


「降りぬのですか?」


 と、浜辺を見下ろす余裕さえ見せる。


「夜だからな。うっかり濡れたら、大人達に海に出たと知られてしまう」


 言っている傍から韋駄天丸の足に水が掛かり、波が青白く光った。まるで韋駄天丸の足から光が放たれているみたいだ。

 波打ち際に添って韋駄天丸が歩むたびに、足下が輝く。後ろを振り返れば、光る蹄の後が伸びていた。


「綺麗。まるで夜空の上を散歩しているようですね」


 椿の愛らしい口から、うっとりとした吐息が零れる。


「連れてきてよかった。もう大丈夫そうだな」


 安心した表情をした冬正が、優しく椿の頭を撫でた。

 二人は顔を見合わせて微笑む。

 波の音が優しく響き、天地を覆う星々が幼い夫婦を祝福する。

 けれど、しばらく浜辺の星を堪能していた椿が、不意に眉を寄せて冬正を見上げた。


「海のお星さまが動いております」

「虫だからな」

「お星様ではなかったのですか? 蛍でございますか?」

「蛍より小さい。飛びもせぬ」


 気付かれたかと、冬正が愉快げに笑い声を上げる。

 星だと信じていたのに、その正体は虫だったなんて。

 椿は恨めし気に冬正を睨んだ。


「すまぬ、すまぬ。許せ。詫びに面白いものを見せてやるから」


 冬正は後ろを徒歩で付いてくる家臣を手招くと、小石を受け取った。


「椿、見ていろよ?」


 石を海に向かって投げると、落ちた場所を中心にして光が広がっていく。強く広く輝いた光は、すぐに波に溶けて消えた。


「凄いです」

「そうだろう」


 頬を赤く染めて目を輝かせる椿に、冬正は満足そうに頷く。

 主君の奥方を喜ばせるため、冬正が連れてきた家臣達は次々と石を海に投げ込む。

 輝いては消える、刹那の星団。幻想的な美しさと儚さ。

 星ではないと知っても、椿は魅せられてしまう。

 少年達は、ただ石を投げ込むことに飽きたのだろう。水面を何度跳ねさせられるか競争を始めた。青く輝く光が、飛び石のように沖へと伸びていく。

 先程までとは一味違う、軽やかで楽しげな光景。

 椿は夢中になって見物した。


 だけれども、まだ幼い彼女は夜の帳に勝てなかった。次第に目蓋が下がっていって、ついには夢の中へ落ちてしまう。

 そして目が覚めた時には、臥所で眠っていた。

 海に星が落ちていたのは夢だったのかと、椿は残念に思う。

 しかし屋敷を夜中に抜け出したことを冬正達と共に叱られて、現実だったのだと思い知らされた。



   ※



 田を埋め尽くす金色の海原が、風に揺れていた。穂が軽やかな鈴の音を奏で、恵みの季節がやってきたことを告げる。

 農民達は親も子も借り出して、総出で稲を刈り取っていく。賑やかな声は水嶌の屋敷にまで届いた。

 すっかり寂しくなった田圃に、稲の櫓が立ち並ぶ。黄金の実りを得た人々は満足気に笑う。

 乾いた後に穂から離された籾達は、衣を脱いで俵の屋敷に納まる。すると、どこからともなく太鼓や笛の音が聞こえ始めた。

 豊穣を祝う祭りが始まるのだ。


 椿は水嶌家の者達と共に、敷き物に座って祭りを見物した。

 篝火に照らされた領民達は、祭囃子に合わせ楽しそうに踊る。


「椿、行くぞ」

「冬正様?」


 立ち上がった冬正が椿の手を引く。

 戸惑いながら椿は冬正に連れられて、踊りの輪に混じる。


「ほら、椿。真似してみよ」

「こうでございましょうか?」

「そうだ。上手い、上手い」


 見様見真似の椿は周囲に比べてぎこちなく、一拍は遅れていた。それでも必死に踊りの輪に交じろうとする彼女の様子を、領民達は微笑ましく見守る。


「若様の奥方様、お上手でございますね。とても初めてとは思えません」

「お優しそうな奥方様を迎えられて、若様はもちろん、私らも幸せ者ですな」


 褒めそやす声が恥ずかしくて、椿の頬は赤く染まっていく。


「本当に、こんな可愛い妻を貰えて、私は幸せ者だよ」


 領民達へ返された冬正の言葉のせいで、椿は耳や首筋まで赤くなった。

 俯きそうになってしまうけれど、下を向けば動きが分からなくなる。椿は恥ずかしさを忘れるため、一生懸命に手足を動かした。

 そんな彼女の愛らしい姿が、いっそう人々の心を惹きつける。

 椿がちらりと横を見れば、慣れた様子で手足を動かし、領民達と気安く話す冬正がいた。

 皆から慕われる夫の姿が誇らしく思えて、椿はますます彼に心を寄せていく。

 例年よりも笑い声に溢れた祭りは、椿の心を瀬田の地に縫い付けた。

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