第3話

 青々とした空にはお日様が眩しく輝いていた。松に止まった蝉を見つけた朱丸が、捕えようと翼を広げて幹を登っていく。


「そろそろ行ってみるか?」


 冬正からその言葉を聞いて、椿は目を輝かせた。


「行きとうございます」

「では連れて行ってやろう」

「はい!」


 さっそく椿は韋駄天丸に乗せられて、海を目指す。

 彼女が生まれ育った三谷の地には、海がなかった。

 川や池などとは全く違う、どこまでも続く海原。寄せては返す、摩訶不思議な波というもの。棲んでいる生き物は途方もなく多様で、人より大きな魚もいるという。

 冬正の話を聞くたびに、椿は目を輝かせて想像を膨らませていた。

 屋敷から離れるに従って、潮の香りが漂ってくる。


「ほら、海が見えてきたぞ」


 冬正が前方を顎で示した。椿は彼が指差す方向に目を向ける。

 白くなだらか砂浜。その向こうに、白い縞模様が浮かぶ青い大地がきらきらと輝いていた。

 ざざりと鈴を掻き鳴らしながら、幾筋にも列なる白い泡沫が陸を攻めてくる。寄せては砕ける攻防を、波と浜辺は絶え間なく繰り返す。


「気に入ったか?」

「はい。素晴らしいものを見せていただき、ありがとうございます」

「もっと驚かせてやろう。波打ち際まで行くぞ」


 浜辺近くまで進んだ冬正は、韋駄天丸からひらりと降りる。椿も冬正に手伝ってもらい、地面に下りた。

 手綱を松に結わえると、冬正は腰に下げていた太刀を外す。それから草履や袴まで脱ぎ、小袖の裾をからげる。

 供に付いてきた彼と変わらぬ年頃の家臣達も、同じように草履と袴を脱いでいく。

 どうやら海に入って遊ぶらしいと、椿は理解した。

 三谷に海はないけれど、川はある。だから川遊びに興じる童達の姿を何度か見ていたのだ。裾をからげる姿はそんな童達と似通っていて、ぴんときたのだ。

 遊びに興じる冬正の姿を見物させてもらうのも楽しそうだと、椿は心浮き立つ。


「椿も草履は脱いでおけ」


 傍観者の気分でいた椿は、冬正に命じられて目を白黒させる。

 平民ならば、川遊びをする娘もいるだろう。けれど屋敷の奥で大切に育てられてた椿だ。

 はしたなく足を晒すなど、父母に知られれば雷を落とされるに違いない。

 しかし楽しそうに遊ぶ童達を見た時、自分も混じって遊んびたいと思ったのも事実。なにせ彼女はまだ七つなのだから。


「私も、海に入ってよろしいのでしょうか?」


 冬正に問うた椿の頬が、興奮で紅潮する。

 しかし冬正の反応は予想と異なった。きょとんと意外そうな顔をして椿を見る。


「入りたいのか? それならば、また別の日に来よう。泳ぐ準備はしておらぬからな。今日は我慢しておくれ」


 夏が終わるまでまだ日がある。また連れて来てやろうと、冬正は爽やかに笑う。

 冬正の返事を聞いて椿は肩を落とす。同時に、不思議に思って目を瞬いた。水に浸からぬのなら、なぜ草履を脱ぐのだろうかと。

 とはいえ夫となった人の言葉だ。椿は言われた通りに草履を脱ぐ。

 支度を終えたところで冬正が背を向けてしゃがんだ。


「自分で歩けます」

「椿の足の裏は柔らかいからな。石や貝殻を踏めば怪我をしかねん。さ、乗りなさい」


 海を知らない椿は、何やら危険な物があるらしいと理解し、素直に冬正の背中に体を預けた。

 家臣を一人、馬と荷の見張りに残し、冬正達は海に向かって進んでいく。


「着いたぞ。下りてみるか?」

「はい」


 波打ち際より少し手前で、椿は砂浜に足を付けた。

 馴染みのない滑らかな砂の感触。土踏まずや指の間にまで潜り込み、足の裏と大地の隙間を埋めていく。

 引きずり込まれるような気がして恐くなった椿は、冬正の腕に縋った。


「何か踏んだか? 見せてみろ」


 途端に冬正が血相を変えてしゃがみ込み、椿の足を持ち上げようと手を伸ばす。


「大丈夫です。くすぐったくて、少し驚いただけですから」


 慌てて椿が言い訳をすると、顔を上げた冬正がほっと安堵の息を吐いた。柔らかく破顔する彼を見て、椿は真っ赤になってしまう。

 頬を染めた椿を見た冬正が、きょとんと瞬く。それから椿に負けじと顔を朱に染めた。


「すまぬ。女人の足に触れるなど、どうかしていた」


 指摘されて、椿も気付いてしまう。顔がますます火照って目が回りそうだ。


「いえ、夫婦ですから」

「そうだな。夫婦だからな」


 お互い耳まで真っ赤にして、椿は俯き、冬正はそっぽを向く。

 そんな初心な主夫婦のやり取りに、若い家臣達まで気恥ずかしそうに目を逸らす。いそいそと海に向かい、離れた所からにやにやと見物と決め込んだ。

 彼らの動きを目に留めた冬正が、顔を顰めて睨み付ける。その態度を見るなり家臣達はわざとらしく怯えたふりをした。

 思わず噴き出した冬正は、家臣達の行動を見ていなかった椿が不思議そうにするのを見て、取り繕うように咳払いをした。


「椿は、あの岩の上に座って見物しているといい。うむ、それがいい。そうしよう」


 冬正は一人で喋り切ると、さっと椿を抱き上げる。

 抱え上げられて驚いた椿だったけれど、その拍子に顔を上げたせいで、二人を眺める家臣達の表情を見てしまった。

 にやにやと笑う彼らの視線にさらされて、椿は砂を見つめて羞恥に耐える。

 そうこうしている内に、波打ち際近くの岩に下ろされた。


「海は危険が多い。一人で勝手に動いてはいけない。何かあれば、すぐに私に声を掛けなさい」

「はい」


 いつもより神妙な声を出す冬正に、椿は表情を引き締めて頷く。

 冬正の表情や声には、照れ隠しの意味合いが過分に含まれていたのだけれども、彼女は思い至らない。

 言葉通り、海は危ないのだと心に留め置いた。


「私はこれから、妻のために馳走を獲ってこよう。期待しておれ」

「楽しみにしております」

「うむ」


 大きく頷いた冬正は、表情をぱっと晴れさせて家臣達のもとに駆けていく。

 裾をからげた足を海の水に浸けた家臣達が、冬正の指揮に従って動く。

 てっきり遊びに興じるのだと思っていた椿は、彼らの思わぬ真剣な表情に驚き目を瞬いた。

 しかし引き締まった顔を見せる冬正はいつも以上に格好良く見えて、椿はほうっと見惚れる。

 しばらくして、歓喜に満ちた賑やかな声が上がった。

 何事が起きたのかと、椿は目を凝らす。

 一人の家臣が、手を空高く突き上げた。彼の手には、両手で抱える程の大きな魚が掴まれている。

 水から上げられた魚はびちびちと体を跳ねさせるが、尾の付け根を握られて逃げることは叶わない。


「椿! 見ておるか?」

「はい。大きなお魚ですね」

「後で食べさせてやるからな。獲れたては美味いぞ」

「はい。楽しみでございます」


 大きく手を振る冬正に、椿も手を振り返す。

 花が綻ぶ笑顔で見物する少女を見て、冬正も彼の家臣達も頬を緩ませる。

 彼女によい所を見せたいのだろう。いつにもない気迫で、魚を追い始めた。

 少年達が魚に夢中となっている間に、潮は徐々に満ちていく。気付けば椿が座る岩の周りは、海水で囲まれていた。

 椿は水際の位置が変わったことに驚く。

 とはいえ岩の下にある海水はくるぶし程と浅い。裾をからげれば椿一人でも歩いて岸辺まで戻れるだろう。

 しかし勝手に動いていけないと冬正から注意を受けている。

 どうしたものかと、椿は冬正のほうを窺った。


「右へ行ったぞ! 追い込め!」


 指揮を取っていた冬正が、ちらりと椿を見る。視線が合うと、柔らかく目を細めた。彼の瞳に危機感は見当たらない。

 ならば大丈夫なのだろうと安心した椿は、微笑んで彼に手を振る。

 海を知らない椿。しばらく待てば元に戻るだろうと、この時は楽観視していた。

 けれど彼女の予想とは裏腹に、水嵩はますます増していく。膝を超える程になると、椿はさすがに焦りを覚えた。

 冬正を呼ぼうと顔を上げると、彼も同じように考えたらしい。魚獲りを切り上げて椿のほうに歩いてくる。

 椿はほっと胸を撫で下ろし、冬正を待つ。

 それにしても、この増えた水はいったいどこから流れてきたのか。

 不思議に思い、椿は沖を見やる。すると彼女の視界の先に、海の中を泳ぐ黒い影が映った。

 冬正達が捕まえた魚よりも、ずっと大きな影だ。もしかすると人の赤子程もあるかもしれない。

 椿は好奇心を押さえられず、得体の知れない大きな影をよく見ようと、岩に手を突いて海中を覗き込む。

 影は岩のすぐそばまで来ていた。

 赤子などより更に大きい、丸々と太った巨鯉に似た魚。黒く長い背びれは髪のように揺蕩う。

 何より椿の目を引き付けたのは、魚の顔。人間の女と見まごう顔が、にまりと笑んでいた。薄く開いた口には細く尖った歯が並ぶ。

 海に棲まう妖の一種、人魚だ。


「椿! 目を合わせてはならぬ!」


 冬正が声を張り上げる。

 椿は顔を上げようとしたけれど、すで海の中から見上げる人魚と目が合った後だった。

 人魚が海面から飛び上がり、椿を襲う。恐怖で悲鳴を上げることさえできない椿の腕に、人魚の黒髪が巻き付いた。そして海に引きずり込んでいく。


「椿!」


 冬正の叫び声を最後に、椿の世界から音が消えた。

 海水の冷たさに椿が驚いたのは一瞬のこと。空気の代わりに鼻や口から海水が流れ込んでくる。鼻の奥がつんっと痛み、口や咽も塩辛さでひりりと痛んだ。

 塩水を吐き出そうと体が反射的に咳込む。そのせいで肺腑から空気が抜け、海水が更に口に流れ込んでくる。


 ――苦しい。助けて!


 椿は人魚に捕まれていないほうの手を、必死に空へ向けて伸ばす。水面越しに見えた青い空は、きらきらと幻想的に揺らめいていた。

 意識が朦朧としていたせいで危機感が鈍っていた椿は、苦痛を忘れ、うっとりと見惚れる。

 伸ばしていた腕から力が抜けていく。椿の瞳から光が消えようとした時だった。

 揺蕩う彼女の手をつかむ者がいた。

 今度はなんだろうと、椿はぼんやりと視線を動かす。その視界に映ったのは、冬正の怒りに満ちた顔だった。

 水嶌家に嫁いでから、椿は一度も冬正が怒るところを見たことがない。彼はいつも穏やかで、たまに眉を怒らせることはあってもすぐに解れる。

 だから柔らかな瞳を鋭くして睨み付ける彼の顔を見て、椿は驚いた。衝撃で失いかけていた意識が戻る程に。

 同時に息のできない苦しみが襲ってきて、椿は顔を歪める。

 苦痛にあえぐ椿の腕が引っ張られ、体が春正に近付く。その直後だった。揺れる空の色しかなかった海の色に、朱が混じる。

 それが何の色なのか、椿には確かめられない。

 驚愕と安堵で一時的に意識が明瞭になったとはいえ、彼女の体は限界が近付いていたから。

 目蓋が重くて目が閉じていく。自分の体なのに、手足の自由が利かない。胸も頭も痛くて、椿は何も聞こえず、何も見えなかった。

 もう眠ってしまいたいと抵抗をやめようとした彼女の顔に、突然、暖かな空気が浴びせられる。


「椿! しっかりしろ、椿!」


 冬正の声が、彼女の名を呼んだ。

 悲鳴に似た叫び声で、何度も、何度も、椿を呼び、彼女の体を強く抱きしめる。

 肌を通して伝わってくる温もりが、椿の意識を繋ぎとめた。


「冬正、様?」


 掠れた声が、椿の愛らしい唇から零れ出る。霞みかかった視界いっぱいに映る冬正の顔が、くしゃりとしわを寄せた。


「椿! よくぞ生きていてくれた。もう安心せよ。すぐに岸へ運んでやるからな」


 冬正の目からは、涙が溢れる。

 すでに彼の顔は海水で濡れていたし、椿は意識を朦朧とさせていたから、彼女が気付くことはなかったけれど。

 椿を抱えたまま、冬正は岸に向かって泳ぐ。


 戦が開かれるのは、陸の上だけとは限らない。舟を操っての海戦が開かれることもある。

 海に面した領地を持つ冬正達は、幼い頃から海に親しんでいた。

 鎧を纏ったまま泳ぐ術を身に着けている彼にとって、幼い椿を抱えて泳ぐことは大した労ではない。

 もしも椿が混乱して暴れれば、彼も巻き込まれて溺れたかもしれないけれど。しかし幸いにも、椿は疲れていたのもあって冬正に身を任せていた。


 浜に上がった冬正は、椿を抱え直して走る。波打ち際から離れた所に座らせると、彼女の背後に回り込んだ。


「少し堪えよ」


 冬正に耳元で告げられて、何を? と椿が問う前に、答えは与えられた。冬正の手が椿の鳩尾に添えられ、胃の腑に圧迫感が加わる。

 胸から込み上がってくるものを抑えられず、椿は砂の上に海水を吐き出した。


「待っ、て……」


 椿が止めようとしても、冬正は止まらない。

 飲み込んでいた海水が体から抜けていく。椿のかすかに残っていた体力も絞り出されて、指一本動かす力も残らなかった。


「若奥方様、お水です。口をおすすぎください」

「ありがとうございます」


 蚊の鳴くような弱々しい声でなんとか礼を言ったものの、竹筒を受け取るどころか、水を口に含む体力もない。


「貸せ」


 椿の様子を見た冬正が竹筒を受け取り、自分の口に水を含む。そして椿の顔を上げさせると、彼女の唇に自らの唇を重ねた。

 唇から伝わってくる、柔らかな感触。椿は大きく目を見開く。

 けれど冬正は驚いている時間など与えない。唇を離すなり、すぐに椿の顔を下に向けさせた。


「さ、すすいで吐け」


 椿は冬正を恨めしく思いつつ、口の中にある、ほんのり温かな水で口をすすぎ、砂の上に吐いた。

 齢七つでも、彼女は娘だ。男女のことに憧れだってあった。

 初めての接吻にときめきを覚える余韻さえ許されないとは、あまりではなかろうか。

 気力を振り絞り、涙目で冬正を睨む。


「すまない。私が油断していた」


 申し訳なさそうに顔を歪めた冬正の謝罪は、椿の怒りとは別の所にあった。

 椿の愛らしい眉が、へにょりと八の字に下がる。

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