第2話
「目が覚めたか?」
声を掛けられたほうを向くと、先に起きていた冬正が、読んでいた本から顔を上げ椿を見ていた。
「冬正様? 申し訳ありません。宴の途中で眠ってしまいました」
「よいよい。皆様、酔っ払っていたからな。我らが下がったことにも気付いていないのではないか?」
呵々と笑う冬正が、失態を犯したのではと不安がる椿に昨夜の顛末を説明する。
椿が座ったまま眠りに就いてしばらく。見かねた女中の手によって二人は宴の席から連れ出された。
臥所に戻った椿と冬正が眠っている間も、大人達が騒ぐ声は夜明け近くまで続いたという。
「覗いてみるか? 上も下もなく、赤ら顔で寝入っておられるぞ?」
冬正が白い歯を見せて、悪戯小僧の顔を出す。
「寝顔を覗くなど、失礼でございましょう?」
「今なら顔に落書きをしても、ばれぬぞ?」
「それは……」
答えに窮した椿の眉が、力なく下がる。
そんな発想を、彼女は今まで思いついたこともなかった。
「冬正様は、いつもそのようなことを?」
「まさか! いつも私がしておっては、私が下手人だとばれてしまうではないか。側付きの者達と順にしておるに決まっているだろう?」
真面目な顔で言われて、椿はあんぐりと口を開けてしまう。
どうやら水嶌の家は、境谷家とはずいぶん家風が違うらしい。境谷家でそんなことをしたら拳骨では済まないだろうと椿は身震いする。
無論、水嶌家でも、酔いつぶれた男達の顔に落書きをするなどという倣いはない。だが純粋無垢な椿は、冬正の言葉を素直に受け入れてしまった。
だからといって、大人達に悪戯をしに行く勇気はなかったのだけれども。
「若様、若奥方様、朝餉の支度ができました」
酔いつぶれた男達と異なり、女達は朝からいつも通り立ち働いている。椿と冬正は朝餉を頂き、それから庭に出た。
部屋から出ることがようやく許された冬正は、待ちかねたように木刀を振るう。
型稽古などという、綺麗な剣ではない。太い丸太を何度も打ち据えて、身体を作り上げていく。
成長途上の冬正の体には、負担が大きいだろう。だが戦は待ってはくれない。多少の無理は承知の上で、戦い方を覚える必要があった。
「見ていてもつまらぬだろう? 女中達と遊んでいても構わんぞ?」
「つまらなくはありませぬ。見ていてはいけませぬか?」
「椿がよいのなら構わぬ。好きにしろ」
少年の細くしなやかな体が、素早く動いては丸太に一撃を加える。その反動を受けて跳ね上がる木刀が、再び振り下ろされた。
その姿はまるで獲物に挑む山猫見たいで、椿は夢中になって見ていた。
その夜。椿と冬正がいつものように寝支度をしていると、女中達が衝立を運んできた。そして二人の間に境界を引く。
「若奥方様。今宵からは、こちらでお眠りください」
「どうして?」
「昨日と一昨日は、慣わしとして同衾されました。けれど大人になるまでは、離れてお休みください」
椿は冬正がいるであろう、衝立の向こうに目を向ける。衝立一枚といえども、彼が傍にいてくれないのは心細く思う。
けれど椿は、何も言わずに女中の言葉に頷いた。
どうせ朝になれば、また冬正に会えるのだ。それに声は届く。
敷物の上に横たわり、椿は小袖を被る。
そうして一人で眠った深夜のこと。
「母上様……」
眠る椿の口から、弱々しい声が零れた。閉じたままの目尻から零れた涙が頬を濡らす。
薄っすらと目蓋を上げた冬正が茵から這い出し、衝立を回り込む。妻となった女童の枕元まで移動すると、彼女の様子を眺めた。
寒いということはなかろうに。手足を縮めて丸まる姿は痛々しく見える。
「泣くな。傍にいてやるから」
椿の目尻に光る涙を指ですくい取った冬正は、彼女を抱きしめるようにして横たわった。
温もりを求めるように椿は身を寄せる。安心したのか、次第に彼女の体から力が抜けていった。
苦しげに刻まれていた眉間のしわが取れ、口元には笑みまで浮かぶ。
冬正は満足気な顔をして目を閉じる。
朝になり、隣で眠る冬正を見て驚く椿に、冬正は悪戯っぽく笑う。
「皆には内緒だぞ?」
「はい」
口元に指を当てられて、椿は戸惑いながらも頷いた。
椿が嫁いで半月程が経ったある日のこと。
新しい生活に慣れてきた椿が朝餉を終えると、冬正が誘ってきた。
「椿、いい所に連れて行ってやろう」
「海ですか?」
「さて? どこであろうな」
椿は女中達に手伝ってもらい、外出の支度をする。
童といえども武家の妻。無暗に顔を人目に晒すものではない。麻の小袖を頭から被ぎ、冬正の愛馬である韋駄天丸の背に乗せられた。
横向きに座った椿の後ろに跨る冬正が手綱を振るう。韋駄天丸はゆっくりと歩いているのに、体は上下に揺れる。
「怖くはないか?」
「大丈夫でございます」
本当は、馬の高さに体が強張っていた。けれど冬正と一緒に出掛けたくて、海を見たくて、椿は怯えを隠す。
「力を抜け。ゆるりと行くから落ちはせぬ。安心しろ」
「はい」
韋駄天丸は海から遠ざかり、山へと入っていく。腹まで届く下草の海を、韋駄天丸はものともせずに進む。
しばらく山を登っていくと、下草が短く刈られた場所に出た。
冬正が韋駄天丸の足を止める。そこには一本の木があった。
滑らかな褐色の幹に灰白色の斑模様。枝には涼しげな緑の葉が茂る。
咲いているのは白い花弁を重ねた可憐な花。そして木の下には、枝に咲くより多くの花が散らばっていた。
大人よりも少し高い程度の若木は最近植えられたのだろう。根元には草が見えない。
「夏つばきだ」
冬正の言葉を聞いて、椿は目を瞠る。それから改めて夏つばきの木を見た。
「夏にもつばきが咲くのですね。とても綺麗です」
うっとりと花を眺める椿を見て、冬正が満足そうに頬を持ち上げる。
「気に入ってくれたならよかった。嫁いでくる者の名が椿だと聞いて、植えさせたのだ」
「私のために? 嬉しいです」
韋駄天丸の背から降ろされる間も、椿の目は白い花へ向かう。
冬正に手を引かれて木の近くまで行くと、足下に落ちていた花を一輪拾った。
彼女の小さな掌にすっぽり収まる小振りな花。花弁は薄く繊細で、雪の中で凛と咲き誇る寒つばきと違い、儚げな印象を与える。
「用は済んだし、帰るか」
冬正に声を掛けられた椿は、名残惜しそうに夏つばきを見た。
もっと見ていと思うが、まだ冬正に対して遠慮があった。
白い衣を纏った無垢な夏つばき達が、手を振るように風に揺れて踊る。椿は韋駄天丸の背から何度も振り返っては、夏つばきの木を眺めた。
韋駄天丸は、小気味よい歩調で山を下っていく。
木立の中を進んでいると、草むらの奥でかさりと音が鳴った。
冬正が素早く椿を抱き寄せ、目を走らせる。家臣達は即座に冬正と椿を護る位置を取り、太刀に手を掛けた。
長閑だった雰囲気が、一瞬にして張りつめる。
不穏な空気に怯えた椿が冬正の胸元にしがみ付くと、すぐに彼の手が優しく彼女の背を撫でた。
「大丈夫だ。じっとしていろ」
椿にしか聞き取れない程の小声で冬正が囁く。それでも椿の緊張は解れない。
膠着状態は間もなく破られた。ぴいっと笛に似た甲高い音と共に、下草が揺れたのだ。
目線で頷き合った家臣達が草むらに飛び込む。それからすぐに笑い声が上がった。
「若、鳥です」
どこかの間諜か刺客の可能性もあるとみて、気を張り詰めていた冬正達。音の正体が分かり、気を抜ききることはないものの詰めていた息を吐く。
「鳥ですか?」
「椿は鳥が好きか?」
「はい」
「では見に行こう」
馬から下りた冬正が、ひょいっと椿を横抱きに抱え上げた。
「一人で歩けます」
「山は危ないのだぞ? 蛇や蛭に噛まれたらどうする? そなたの柔らかな肌では、草も刃になろう」
山に生える草の中には葉先が鋭いものも多い。中には毒を持つ植物もある。
椿は恥ずかしく思いつつも、それ以上は逆らわなかった。
幼子のように扱われるのは不服でも、冬正に大切にされるのは嬉しかったから。
家臣達に案内された先にいた鳥には、まだ幼さが残る。今年生まれた若鳥だ。
遠目からだと鴉に間違いそうな程黒い。目も羽同様に黒く、愛らしいつぶらな瞳をしていた。
それでも猛禽類独特の力強く鋭い爪と嘴を持つ若鳥は、羽を広げて人間達を必死に威嚇する。
「何の鳥だ?」
「分かりませぬ。ノスリに似ておりますが、この見た目ですゆえ」
冬正が鳥に詳しい幡部喜蔵へ問うたが、彼でさえ断定は難しいと首を振った。
なにせ病に侵されているのか、羽毛が鱗のように硬くなっていたのだ。
「この様子では、空も飛べますまい」
指摘された通り、若鳥は羽を広げて威嚇するばかりで、飛び立とうとはしない。
後退り木の幹に爪を掛けて登ろうとするが、翼を使えないからか、あるいは体が重いのか、冬正の背丈程まで登ると落ちてしまう。
椿は心配そうに若鳥を見つめた。
山の獣達を狩る猛禽類だとて、飛べなければ獲物を狩るどころか身を護ることすら難しい。
「このままだと、どうなるのでしょうか?」
椿の不安に対して、喜蔵は苦く眉をひそめる。
「近くに親鳥がいると思われます。完全に巣立つまでは、親が面倒を看るかと。その後は……」
言葉を濁し、樹上を見回す。
椿も見上げてみるけれども、親鳥の姿どころか巣らしきものさえ見当たらなかった。
猛禽類の雛が巣から落ちることは珍しくない。外敵に襲われて逃げ落ちることもあれば、飛びたいという欲望に駆られて自ら飛び落ちることもある。
それらの雛は、たとえ羽が生えそろわぬ幼鳥だとしても、鋭い爪を使って木を登り巣に戻っていく。
そして飛べるようになれば、親鳥から餌の獲り方を教わり、自然界を生き抜く術を学んで巣立つ。
落ちた鳥の雛を拾うことは、決して彼らを救うことには繋がらない。
けれど目の前で威嚇する若鳥は、前提である飛ぶことすら叶わない。
無事に成長できるのか。そして生き延びられるのか。
椿は心配で、若鳥から目を逸らせなかった。
彼女の様子を見ていた冬正が、若鳥を改めて見る。
「よし。連れて帰ろう」
「よろしいのですか?」
「そろそろ鷹が欲しかったのだ。これも何かの縁だろう。巣から雛を奪って育てるよりも、病の若鳥を連れ帰るほうが親鳥も諦めがつこう」
朗らかに笑った冬正は、家臣に命じてさっさと雛を拾わせた。
鷹狩は武士の嗜みだ。冬正の主張は理に適っている。
しかし目の前の若鳥は、鷹狩りには使えそうになかった。病が治ったとしても、そもそもノスリ自体が鷹狩りに向かない鳥だ。
知っていながら、喜蔵は主の思いを汲んで指摘を呑み込む。
冬正の望みが鷹を手に入れることではなく、椿の心を護ることだと察したから。
そうして連れ帰った若鳥は、家臣達が誂えてくれた鳥小屋で飼われることになった。
日陰では黒く見えたけれど、日に透かしてみれば羽も瞳も赤みを帯びている。
「よし。お前の名は朱丸にしよう」
「早く病を治して元気におなり、朱丸」
椿は冬正と共に朱丸の世話をした。
初めは警戒していた朱丸だったけれど、徐々に心を開いていく。しかし羽毛の状態が治ることはなく、鷹に育つこともなかった。
屋敷の屋根どころか、松の低い枝にすら飛び乗ることができない。たまに枝に停まっている姿を見て椿が喜べば、幹に爪を引っ掻けて下りてくる。
「朱丸。せめて飛び降りるくらいの気概を見せよ」
冬正が呆れた顔を向けるも、朱丸は首を傾げて見つめるばかり。
とうぜん鷹狩りには使えないのだが、冬正は朱丸を見捨てることなく屋敷に置き続けた。
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