椿燃ゆる

しろ卯

第1話

 椿が嫁入りしたのは、齢七つの時だった。

 まだあどけない女童は、白粉を塗られ、ふっくらとした桜色の唇に紅を注し、花嫁衣裳を纏わされる。

 せっかくの化粧を隠すように白い小袖を頭から被ぐと、手を引かれて父母が待つ広間へ向かった。


「父上様、母上様、お世話になりました」


 そうして輿に乗せられた椿は、篝火が焚かれた生家の門から送り出された。

 境谷家と水嶌家が縁を強めるために、境谷家の娘である椿と、水嶌家の嫡男冬正の婚姻が結ばれることになったのだ。

 蛍が淡い灯りを点しながら舞う山中の道を、幼い女童を乗せた花嫁行列が進む。

 揺れる輿の中で、椿の心もふわふわと揺れていた。

 まだ見ぬ花婿はどんな人だろうかと、まどろみの中で想像を膨らませる。

 優しい人ならばいいなと彼女は思う。大きな虫を捕まえてきて嫌がる椿に押し付けるような意地悪な子は、少し嫌だと顔を顰めた。


 幾度かの休息を挟んで水嶌家の屋敷に辿り着く頃には、すでに日が暮れていた。

 輿は屋敷の中まで乗り入れていく。


「どうぞお出ましください」


 待ち上臈役の女に案内されるまま、椿は輿から下りて屋敷の奥へ進む。連れて行かれた祝言の間には誰もおらず、静まり返っていた。

 椿は床の間の前に敷かれた赤い敷物の上に誘われて腰を下ろす。待ち上臈が去り一人になると、居心地悪く視線を彷徨わせながら静かに待った。

 外から吹き込んで来た風が燭台の火を優しく揺らす。そのたびに部屋の色もゆらゆらと揺らめいた。

 まるで小舟に揺られているような心地いい錯覚に、彼女の目蓋は重さを増していく。

 昨夜は緊張して眠れなかった。旅の間は輿に乗っていたとはいえ、幼い体には堪える。

 日が沈み暑さが和らいでいたのも、気を緩める一因となったのかもしれない。

 椿はとうとう耐え切れず、うつらうつらと舟をこぎ出した。

 

 廊下に微かな足音が響いてきて、椿の頬を涼やかな風が撫でる。

 慌てて姿勢を正した椿が顔を上げると、御簾を押し上げ少年が入ってきた。彼女の夫となる、水嶌冬正だ。

 黒の直垂と袴に烏帽子姿の彼は、真っ直ぐに椿の正面まで来ると腰を下ろした。

 椿より年上とはいえ、彼もまだ十一。緊張からか顔を上気させ、口を一文字に引き結ぶ。

 夫となる冬正の顔が気になった椿は、ちらりと目を上げた。

 婿の顔を覗くのは作法に反する。けれども好奇心には逆らえなかったのだ。

 しかし頭から被く小袖が邪魔をして、結局冬正の顔は確かめられない。

 残念に思い肩を落とした椿は、諦めて大人しく座っておくことにする。


 冬正に続いて、待ち上臈が三方に乗せられた三つ重ねの盃を運んできた。

 白濁した酒が一の盃に注がれ、椿の前に差し出される。事前に教わっていた通り、椿は小さな両手で恭しく受け取った。そして盃の縁に唇を付ける。

 舐める程も口にしていないのに、ほのかな甘さと共に口から鼻へと酒精が上っていく。慣れない酒の感覚に、椿は思わず眉をひそめ口を歪ませた。


「無理せずともよいぞ? そのまま回せ」


 冬正が椿に手を差し出す。


「ほら、渡せ」


 ためらう椿だが、酒を飲み干せる自信はない。彼の言葉に甘えさせてもらった。

 酒量が減っていない盃を受け取った冬正は、ぐいっと煽る。

 この時代の男達は、年齢を問わずよく酒を飲む。

 齢十一といえども、すでに何度か口にしていたのだろう。椿と違い顔色一つ変えない。

 冬正から戻された空の盃に唇を寄せ飲む真似をしてから、椿は待ち上臈へ空いた盃を戻す。

 二の盃、三の盃も、椿は唇を付けるだけ。酒は全て冬正が引き受ける。

 そうして盃を交わした二人は、晴れて夫婦となった。

 祝いの雑煮を食べると、臥所となる部屋へ移る。

 そこで椿はようやく冬正の顔を見た。

 整った眉の下には優しげな瞳があり、すっと通った鼻筋と形の良い唇が続く、見目のよい少年だ。

 こんな綺麗な人が自分の夫になるのかと、椿は嬉しく思う。


「椿にございます。不束者ではございまするが、末永うよろしゅうお頼み申し上げます」

「冬正だ。末永くよろしく頼む」


 椿が教えられたとおりに三つ指を付いて挨拶すると、冬正も頷いて答える。

 とはいえ子供同士のこと。挨拶以上のやり取りはない。


「眠いのであろう? 寝よう」


 椿と冬正は帯を解いて小袖を脱ぎ、並んで横たわる。それぞれの小袖を体の上に掛け合うと、自分とは異なる匂いが鼻腔に触れた。

 お日様の匂いだと思ったのを最後に、椿は夢の中へ落ちていく。

 幼い二人が本当の夫婦になるのは、まだまだ先のこと。




 椿が水嶌の屋敷に嫁いだ翌朝。目が覚めた彼女の隣に冬正の姿はなかった。

 上体を起こした椿は冬正の姿を探す。すると簾越しに降り注ぐ陽光を浴びながら本を読む彼を見つけた。

 朝陽に照らされ真剣な表情で本に目を落とす冬正は、昨夜見た以上に美しい。椿の口から思わず、ほうっと息が零れてしまう。

 その吐息が耳に届いたのか、冬正が顔を上げた。


「目が覚めたか? よく眠っていたな」


 白い歯を覗かせて微笑む冬正に、椿は頬を赤くしつつも慌てて頭を下げ謝罪する。


「おはようございます。寝坊して申し訳ありません」

「構わない。どうせ今日は、この部屋から出てはいけないのだから」


 冬正は眉を寄せて睨むように部屋を見回してから、肩を竦めた。それから簾の外へ目を向け、さも残念そうに嘆く。


「一日休めば取り返すのに、三日は掛かると言われているのに」


 婚礼の翌日は、臥所から出ることを禁じられている。

 動き回りたい盛りの冬正にとって、風邪をひいたわけでもないのに部屋でじっとしているのは耐えがたいのだろう。

 椿が悪いわけではないのだが、なぜか申し訳ない気がして椿は肩を落とす。

 とはいえ気落ちしていても仕方がない。気を取り直し、椿は冬正に近付いた。


「何を読んでいるのですか?」

「兵法の本だ。こっそり懐に隠しておいたのだ。内緒だぞ?」

「はい。内緒ですね?」


 立てた人差し指を唇に当てる冬正の真似をして、椿も人差し指を唇に当てる。それがなんだか可笑しく思えて、どちらからとなくくすくすと笑った。


「外に出られるようになったら、領地を案内してやろう。三谷に海はないのだろう?」

「ここには海があるのですか? とても広いと聞きました。見たいです」

「ならば連れて行ってやろう。獲れたての魚は美味いぞ」

「そちらも楽しみです」


 椿が生まれ育った三谷の地は、海から遠い。代わりに美しい大良川があるので、川魚は慣れている。しかし海の魚は滅多に食べられない御馳走だった。

 冬正は椿に、水嶌家の領地である瀬田がどのような所で、何があるのか、語って聞かせる。

 自分が育った境谷家とは異なる土地の話を、椿は目を輝かせて聞いた。

 無邪気な椿の反応が嬉しかったのだろう。冬正の声に、だんだんと熱がこもっていく。


「蛸は知っておるか? こんな顔をしていてな。腕が八本もあるのだ」

「腕が八本も? どの腕を動かしているか、分からなくなりそうです」

「だが使いこなせれば、便利だと思わぬか?」


 身振り手振りを交えて語る冬正の話が面白くて、椿は声を上げて笑う。冬正も一緒になって笑った。

 二人の声が部屋の外まで聞こえたのだろう。御簾の向こうから声が掛かる。


「若様、若奥方様、お目覚めですか?」

「ああ、入っていいぞ」


 冬正が返答するなり御簾が上げられて、衝立を持った女中が入ってきた。椿と冬正の間を仕切ると、今度は水を張った盥が運び込まれる。

 椿達が洗面を済ませ身形を整えている間に、部屋の中も整えられていく。

 いつもより遅い朝餉を済ませると、椿は再び冬正の話を聞いて過ごした。


「早く海に行ってみたいです」

「そう焦らなくても、椿はこれからずっとここにいるのだ。いつでも見に行けるさ」


 名前しか知らぬ相手に嫁がされた椿。

 けれど気さくな冬正にすっかり心を許し、不安はいつの間にか消えていた。


「実はどのような嫁が来るのかと心配していたのだ。椿でよかった」

「私も、冬正様で嬉しゅうございます」


 顔だけでなく性格もよい夫のもとに嫁げて幸せだと、彼女は冬正を見つめてにっこり笑う。

 冬正も柔らかく微笑み返す。それからぎこちない動きで椿の頭を撫でた。


 夜になると、二人は再び三つ重ねの盃を交わす。今度は冬正が先に口を付け、続いて椿が頂く。

 昨夜と同様に、酒は冬正が引き受けてくれた。

 椿は待ち上臈に気付かれない程度に、冬正へ視線を向け目尻を下げる。気付いた冬正が少しだけ口の端を上げた。

 盃を交わし終えたら、その日の儀式は終わりとなる。

 待ち上臈が退室するなり、二人は隣り合って横になった。


「おやすみなさい、冬正様」

「おやすみ、椿」


 互いの小袖を掛け合って目を閉じる。

 優しい冬正となら家族と離れていても寂しくなさそうだ。椿は安心して夢の中へと入っていく。


 そして迎えた嫁入り三日目。

 前日より早い時刻に、椿と冬正は三度目の盃を交わした。それから椿は女中に手を引かれて隣室に連れて行かれる。


「うわあ」


 御簾を上げた途端、隣室に飾られていた赤い小袖が椿の目に入った。

 赤地に染め抜かれた白椿。周りには銀糸で刺された雪輪模様がきらきらと輝く。

 もうすぐ夏が来るこの時期には合わぬ絵柄。だからこそ、椿のために誂えてくれたのだと一目で分かった。


「冬正様がご用意してくださったのですよ」

「冬正様が? とても嬉しいです。冬正様、ありがとうございます」


 椿は花が綻ぶように笑み崩れながら振り返る。

 小袖に咲く白椿にも負けぬ、輝く笑顔。冬正が目を瞠り、ほんのりと恥ずかしそうに頬を緩めた。

 それを見た女中達が、珍しいものを見たとばかりに、


「まあ」


 と、小さく声を上げて互いの目を見交わす。

 椿は不思議に思って小首を傾げる。一方の冬正は、不機嫌そうに眉をひそめてしまった。

 こほんっと咳払いした冬正が、椿に視線を戻す。


「気に入ってくれたならよかった。嫁を迎える時は、夫が赤い小袖を贈るのが慣わしだからな。これから水嶌の家を一緒に盛り立ててほしい」

「はい。精一杯務めさせていただきます」


 女中達の手によって椿は飾り立てられていく。梳いた髪を結い、化粧を施され、赤い小袖を纏った。

 差し出された手鏡の中には、見慣れぬ少女が映る。

 驚いて目を丸くする椿に、女中達は優しく笑う。


「お似合いですよ。さ、若様にもお見せいたしましょう」


 戸惑いを残したまま、椿は冬正が待つ部屋に戻った。


「冬正様、ありがとうございます。似合いますか?」

「よく似合っている」


 冬正は緑青に染めた大門の直垂と袴を身に着け、烏帽子を被って出迎える。その装いは、椿の花に寄り添う葉といった趣向か。

 はにかむ椿を見て、冬正は満足そうに微笑んだ。


「さあ、行こう。父上達がお待ちだ」

「はい」


 椿は冬正と共に、屋敷へ来た初日に婚礼の儀式を交わした祝言の間へと向かう。

 あの夜は衣擦れの音さえ大きく聞こえた部屋の中は、賑やかな声で溢れていた。祝いに駆け付けた水嶌家縁の者達がすでに集まっているのだ。

 大人達の声に、椿の足が緊張して止まってしまう。すぐに気付いた冬正が振り返り、手を差し出した。


「大丈夫だ。おいで」


 椿の細く小さな手を彼の掌が包み込む。すでに槍や太刀の稽古をしている冬正の手は、ごつごつと硬い。

 こんなに鍛えている彼が傍にいてくれるのなら怖いものはないだろうと、椿は頼もしく感じて前を向いた。

 部屋に入る直前に手を離され、椿は残念に思う。だけど大人達の前に手を繋いで現れるのは恥ずかしい。

 椿は気を取り直して、冬正に続いて部屋の中に足を踏み入れた。

 一斉に向けられた、大人達の値踏みする視線。思わず椿の足が竦む。

 ごくりと息を呑み込むと、椿は冬正の背中だけを見つめる。そして震える足を叱咤しながら部屋の中を一歩ずつ進んでいく。

 緊張しすぎて、まるで薄氷を踏むかのよう。崩れ落ちないかと不安で、胸が早鐘を鳴らす。

 最奥の上座に敷かれた赤い敷物の上に冬正と並んで座った時には、どっと疲れが出て大きく息を吐いてしまった。


「私共のためにお集まりいただきまして、ありがとうございます。水嶌忠正が一子、冬正にございます。此度は嫁を娶ることになりましたこと、真にありがたく、皆様に御礼申し上げます」


 拳を床に突いた冬正が口上を述べる。椿も隣で三つ指を突いて頭を下げた。


「椿でございます。不束者ではございますが、末永くよろしゅうお頼み申し上げます」


 続いて椿も挨拶をすると、冬正の父であり水嶌家の主人である水嶌忠正が祝いの言葉を返す。それを合図に宴会となった。

 次々と酒が運び込まれ、主役の二人を肴に大人達は盛り上がっていく。年若い椿と冬正は、料理を摘みながら大人達の余興を楽しんだ。


 夜が更けても、宴会が終わる気配はない。椿は閉じそうになる目蓋を必死に持ち上げた。舟を漕ぎそうになれば膝を抓って耐える。

 それなのに、気付けば夜が明けていた。

 眠ってしまったのだと気付いて慌てて起き上がる。けれども周りに大人達の姿はなかった。

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