第2話 過去

 高校生の時、私には好きな男子がいた。入学式の時、一目ぼれをしたのだ。彼は背が高く、笑顔が素敵だった。式が始まる少し前、パイプ椅子に座って同級生と笑いあっている彼の顔を見た途端、私の周囲から音が消えた。彼を見た瞬間、私の視界には彼だけが捉えられた。周囲の風景が霞んで見えた。こんなことはドラマか漫画の中でしか起こらないと思っていたが、彼が同じクラスだと分かった時、これからの高校生活はきっと薔薇色になると思っていた。思っていたはずだった。しかし、現実はそう上手くは運ばない。

 事件は夏に起きた。


 高校一年の夏休み、クラスの十人くらいで海に行く事になった。そのメンバーの中に片思いの彼もいた。彼はバスケ部に所属していて、一年生からレギュラー候補で、クラスでも目立つ存在だった。私は明らかに人数合わせで呼ばれていたが、そんなことはどうでも良かった。彼と話ができるかもしれない。素敵な思い出ができるかもしれない。頭の中で色々と考えて、前日はなかなか眠れなかった。

 

 電車を乗り継いだところに、その海はあった。

 夏休みの海は混んでいた。楽しそうな家族連れがビーチパラソルを立てている。お互いしか見えていないカップルもいる。中には一人で海に来ている男の人もいた。その男の人は幸せそうな家族を眺めていた。波打ち際ではしゃぐ子供達は、砂浜にいる母親に向かって必死に手を振っていた。


 その中に私たちも混ざった。

 私はずっと片思いの彼を目で追いかけていた。楽しそうにビーチバレーをしている姿、砂浜で男子数人とじゃれあっている姿、どれも学校で見る彼の姿とは違って新鮮だった。


 しばらく砂浜で遊んだ彼は一人で沖合まで泳ぎだした。私も持って来た浮き輪つけてこっそりと彼の後を泳いだ。気づいて欲しいけれど、気づかれないほどの距離を取った。


 この海水浴場は、少し泳ぐと数か所の岩場がある。彼はそこに向かって泳いでいるようだった。

 五分ほどたった頃だろうか、彼の様子がおかしい事に気が付いた。動きがおかしい。あれは……溺れている。きっと足が攣ったのだろう。助けなければと周囲を見渡すが、誰も気づいている人はいない。その間にも彼は水面でもがいていた。助けを呼びに戻る時間はなかった。


 私は急いで彼に近づいた。運よく、岩場までは数メートルの距離だった。

 意識がもうろうとしている彼の背後に回り、しっかりと両腕を掴んで岩場まで運んだ。岩場は思った以上にゴツゴツとしていた。そのせいで私の足はすり傷だらけになった。

 とりあえず、比較的平らな岩場に彼を寝かせた。これからどうしようかと思っていると、彼を探す声が聞こえた。

 声の主は一緒に来たクラスの女子だった。一人用のビニールボートでこちらに向かって来ている。


 私は思わず岩場の反対側に隠れてしまった。見つかれば何を言われるか分からないと咄嗟に思ったのだ。彼を探していた女子は、岩場で倒れている彼を見つけると大声で叫んだ。


「大変よ、誰か来て」

 

 その声に気が付いたクラスの男子たちがこちらを向いた。彼女はゴムボートで岩場まで近づき、必死に彼の名前を呼んだ。

 私はその場所にいられなくなり、こっそりと浜辺まで戻った。傷だらけの足に海水が沁みて痛かった。


 それから、男子たちの手によって砂浜まで戻ってきた彼は、意識を取り戻した。彼はゴムボートに乗っていた彼女に言った。

「助けてくれてありがとう。俺、足が攣ったみたいで。キミが岩場まで運んでくれたんだ」

「え、う、うん。何とか一人でね。大変だったけど無事でよかった。私は当然のことをしただけよ」

 楽しそうに話す二人の会話を聞きながら、私は傷だらけになった足を眺めた。彼が無事で良かったと自分の足に言い聞かせた。


 帰り道のこと。

「あれ、足どうしたの?」

 私の傷だらけの足を見て彼が尋ねた。

「あ、あの……岩場で……」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。彼は鞄から絆創膏を取り出した。

「これ、気休めにしかならないけれど」

「あ、ありがとう」

 私が言えたセリフはそれだけだった。彼にもらった絆創膏は、握りしめたせいでぐしゃぐしゃになっていた。


 彼はその後、助けた(ということになった)女子と付き合い始めた。卒業をするまで二人の幸せな様子を見せつけられ、私の高校生活は、薔薇色とは程遠いものになった。

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