第2話
何故こんな事になったのだろう。俺は深く困惑していた。ズボンが雪を溶かし濡れていく。
「とりあえずさ、ここ寒いでしょ?ちょっと暖かいところで話そ。」
そう言ったのは
このエチカとかいう女は「私の話を最後まで聞かなきゃ」などと言っている。さっぱりわけが分からない。何が起きたか、全く持って意味不明である。すると徐々に、さっきの幼稚な怒りがまたふつふつと湧き上がってきた。俺は少し不機嫌にごねた。
「いいですよ、どうせ飛び降りるんです。ここで話せばいいじゃないですか。」
「いいの?私の話を最後まで聞かないとあなた死ねないよ?」
「いや、だから、言ってる意味が分からないんですよ!どうしてそうなるんです!?」
「えーと…そういうルールだから…?」
「いやいや、何言ってるかさっぱりわかんないんだよ!あんたの話を聞かなきゃってどういうことですか!?」
そう言われましても、というように少女は眉をひそめて言う。
「でもツダさん、あなたさっき飛び降りたでしょ?もっかいやれば気が済みますか?」
俺は頭に血が昇り、再び崖へと急ぐ。
しかし、先程の安い決意もすでにどこかへ行ってしまい、俺は立ち止まった。そして今度は禍々しい黒い海がこちらを食おうとしているように見えて恐怖で足が先端から固まっていくのを感じた。
その瞬間、
「えいっ!」
と言ってエチカが背中を押した。それはなんの比喩表現でもない、シンプルな殺人だった。
「このクソガキ!!」
と、声を上げるが届かない。俺は再び海に真っ逆さまに落ちていった。それはさっきよりジタバタしていて、無様で、なにより格好悪かった。
しかし、目が覚めると、また飛び降りる前の位置へと戻っていた。これは幻なんじゃないか、とも思ったが、信じられない速度で血液を回す心臓と、全身から吹き出す汗が、それを現実だと教えている。
「ルールが有るの。この孤独海岸にはね。あなたはそのルールを守らないと死ぬことができない。」
にやにやとエチカが顔を覗き込む。もう、わかったよ。と呆れた声で俺は応えた。
エチカの言われた通りついていくことにした。針葉樹林の中の細道を二人で歩いているとエチカが話しかけてきた。
「さっきも言ったように私エチカ。中二だよ。ツダさんは?」
「俺は、ただの中学教師だよ。」
エチカはすこし驚いた顔をした。
「うっそ、ツダさん先生なの?どこ中?教科は?」
「別に、ここらへんの中学校じゃないよ。S県にある普通の中学校。担当科目は、理科。」
「え!え!でもS県ってめっちゃ遠くない?よくこんな所まで来たね!」
先程までの奇妙さが嘘だったかのようなその姿ははしゃぐ女子中学生そのものだった。
「なんか、似てるかもな。」
俺は思わず声に出していた。もちろんエチカはその隙を見逃さない。
「えっ、誰に?」
「…妹だよ。ちょうど君くらいの妹がいたんだ。」
「へー…、でもいたってことは…」
「…行方不明になったんだよ、ここらへんで。でも、たぶんもう…死んじゃったんじゃないかって、少し思っちゃってる…。」
沈黙が長かった。俺は十一年も長く生きているはずなのに、何も言葉が出なかった。
その時間もわずか数秒だったのだと思う。エチカはさっきまでの女子中学生らしい声から一変して「…そっか。」と一言だけこぼした。
エチカが指を指す。どうやら目的地についたようだ。錆びた看板には安っぽい丸ゴシック体で
「体温まる ほかほかおふろ 銭湯・サクラバ」
と書いてある。
「ここが我が家、銭湯・サクラバです!ツダさんも一回温まってから話そ!今日お客さんいないから、貸し切りだよ!」
断りたいが、どうしてもあの「ルール」を聞き出すまでは言うことに従わなければならない。仕方がないと思い、暖簾をくぐった。すると入ってそうそうにエチカが元気よく声を上げた。
「ただいまー!おばさん、自殺志願者きたよ!」
「あらあら、じゃあまずお風呂にご案内して。」
奥から割烹着を着たふっくらとした女性が出てきた。一切揺るがない女性を見て、俺以外にもここにきたやつが沢山いたんだと理解した。それにしても、物騒な会話には変わりなかった。
生まれてこの方二十五年、俺は始めて貸し切り銭湯というものを体験した。なるほど、これは確かに心を落ち着かせる事ができるだろう。
銭湯・サクラバはだだっ広くてサウナやジャグジーがついているような銭湯ではなく、むしろ、少し狭くてこじんまりとしていた。しかし、この空間は俺の頭をゆっくりほぐすには充分な場所だった。
しかし、冷静になればなるほど自分の経験した事が信じられなくなってきた。どこかの昔話みたいに実は自分は狸かなんかに化かされていて、油断したところを食われそうになっているんじゃないか、なんて考えていたところ、ドアの開く音がした。
今日は、貸し切りではなかったのか。いや、違う。その音は壁の向こうから聞こえてきたのだ。
「湯加減どーですかー?」
それはまさに今さっき俺が、自らを化かした狸のように感じてたエチカの声だった。壁の向こうから声が反響している。
「丁度いいです!」
「なら良かったー!そうだ、背中流そうかー?」
エチカは向こうで笑いを堪えながらそう言った。しかし、狸だったとしてもそれは流石にまずい。
「結構ですー!俺が捕まるから!」
向こうから大きな笑い声が響く。
「ツダさん、案外しっかりしてるね。」
「案外ってなんだ案外って。こう見えても教員だからね。」
「ふーん……。…ツダさんちゃんとしてるし、言っても良いかな。ルールのこと。」
そういってエチカは説明し始めたのだった。
この【孤独海岸】のルールについて。
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