孤独海岸のエチカ
@george_kinema7
第1話
「お兄ちゃん、そんなとこに置いたら雪だるま溶けちゃうよ?」
ああ、そうか。今日はこのあと日が出るらしいな。ちょっと屋根があるところまで移動させようか。
風が強く吹いた。顔に当たる雪はすぐ水になってマフラーに垂れていった。
「あーもう私二次関数とか意味わかんない。ちょっと教えてよ。現役教師でしょ?」
いくらでも教えるよ。小春は数学苦手だもんな。
眼鏡はもうずっと曇っている。前を向くと首元に風が入って冷たいので、びしょびしょになった靴を見ながら歩くしかない。
「私、教員関係いこうかなってちょっと思ってる。まあちょっと思ってるだけだけど。…なれるかな?」
もちろんなれるさ。こんな俺でもなれたんだ。小春はしっかりしてるから良い先生になれるよ。
バス停から細い雪道をたぶん30分くらい歩いたところだったと思う。目の端に太めの針葉樹が図々しく立っていた。その木には「この先危険、立ち入り禁止」と書かれたボロボロの看板がかかっており、やけに図々しく映ったのは全てこれを見せるために他ならなかったのだとわかった。
着いたのだ。日本有数の“自殺の名所”として知られる【
「小春、今から兄ちゃんが行くからもう少しだけ待っててくれ。」
看板の先へ行くと徐々に森が開けてきた。前を見れば、そこには黒く淀んだ日本海が広がっている。俺は呑み込まれるような気配に圧されたが、崖下で激しく蠢く波の音はどこか物寂しいニュアンスを含んでいる。妹はきっとここで死んだ。気を落ち着かせるため、俺は肺に冷えた空気を目一杯取り込んで、静かに吐き出した。
「ねえ、そこのお兄さん、そんなとこで何をしてるの?」
突然後ろから声がした。驚いて振り返るとそこには小春と同じくらいの歳と思われる少女が立っていた。背丈は高くないが、雪によって浮かび上がった輪郭が大人びた感じを醸している。髪はセミロングくらいで、俺が着ているモッズコートと比べるとだいぶ薄手な服を着ていた。そんな事を考えながらも俺は慌てて言い訳して「すいません、ここらへんに観光にきたんですけど、道に迷っちゃって。」とだらしなく顔を歪ませた。
「看板はみえなかったの?それに、今日は大雪予報がでてると思うんだけど。」
その言葉から、少女がこちらを疑っているのは明らかだった。しかし、少女の声は子どもが素朴な疑問を投げかけるみたいな感じがした。おそらくこのチグハグ感が少女に奇妙な雰囲気を与えているのだろう。俺は今まで経験したどれとも当てはまらない恐怖を感じていた。
「お兄さん、自殺しにきたんでしょ。お願い、私の話を聞いてほしい。」
不意に核心に迫られ、喉元をがっと掴まれた気がした。少女に全て見透かされている。俺は口をパクパクさせて、幼稚に反抗した。
「な、なんであんたにそんなことを言われなきゃいけないんだ!あんたに俺の何が分かるんだ!」
最近の中高生は偉いな、こんな俺でも自殺を止めようとしてくれるのか、と、大人らしく思えれば良かった。しかし俺は何としても少女と距離が取りたくなり、日本海へと走り出した。この一瞬で、もうあの黒い海に呑み込まれようと決意した。それは覚悟と言うにはあまりに安く、不甲斐ない逆張りでしかなかった。
「あ、だめだってば!それじゃ…」
威勢よくジャンプしたつもりだったが、重力に逆らえたのは一秒にも満たなかった。でももうこれで良かったんだ。早く小春のところへ行こう。
「私の話をちゃんと最後まで聞かなきゃ、」
上の方から声がした。
「死ねないのに。」
波打ち際のゴツゴツとした岩にぶつかるとわかった途端、俺が固めた決意は紙粘土のようにポロポロと崩れ、足と手をジタバタと動かした。
しかし俺は気がつけば俺はさっきの崖の上に座り込んでいた。
「だから、私の話最後まで聞かないと、って言ったじゃない。」
少女が俺の顔を覗き込み、そう言った。
「私の話、聞いてよ。私、
茫然としながらも俺は答えざるを得なかった。これに答えなければいけない気がしたんだ。
「…ツダ。津田貴尋です。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます