第3話
その後、少し酔いの入ったケイちゃんはとりとめのない愚痴を漏らすようになり、最後には寝てしまった。旧知の仲とはいえ、数十年ぶりに再会した相手の前で熟睡するなんて、よっぽど無害な男だと思われているのだろう。
ラッキーなことにここはホテルを改装してつくった市長室なので、隣の一室はベッドルームだった。私はケイちゃんの手からグラスをひったくりテーブルに置くと、彼女の肩と足を抱えるように持ち上げた。
ベッドに運び込むまでケイちゃんは、ウーとか、ンーとか言っていたが、起きる様子はなかった。真っ白なベッドの上にスーツのまま寝る彼女を見おろして、そのままだとシワになると思ったが、それ以上彼女に触れるのはやめることにした。
翌日、民宿に泊まっていた私は頼んでもいないモーニングコールに起こされた。わりかし急いで外に出たのだが、ケイちゃんは車のボンネットに体重を預けながら腕を組んでいた。
「遅い」
「今起きたんだって」
「まぁいいわ。いくよ」
彼女は軽く手招きした。どこに何しにいくのかというのか。まぁ走りながら聞けばいいかと思い助手席側に乗り込むと、目の前にハンドルがあった。
「運転よろしく」ケイちゃんは笑った。イタズラが成功した時の笑顔だ。「事故ったら訴えるから」
「なら運転させないでくれよ」
足元を見ると、信じられないことにマニュアル車だった。いらないんだよ一番左のペダル。
目的地はすぐに分かった。ケイちゃんの案内で昨日登った山道を下って、細い脇道にそれると、フロントガラスが妙にモヤがかかったように見えにくくなった。朝霧かとも思ったが、それがだんだんと車全体を包み込むように濃くなり、そして黄色がかってきたところで、私はブレーキを踏んだ。
「引き返す」私は言った。
「だめ」
「なんでさ。あんな危険なとこ行って何になるっていうの?」
「ナオくんにはちゃんとこの街の現状をその目で見てほしいの」ケイちゃんはいつになく真剣だった。「お願い。私とナオくんのたった一つの故郷でしょ?」
その通り。イエローサブマリンに侵されたこの街は、私と彼女が育った街だ。それでもなんとなく他所の街な気がしていたのは、ケイちゃん以外知り合いがもういないからだろう。私もケイちゃんも二人とも孤児だった。
「それに、この車は海外のメーカーに作らせた特注品で、窓は防弾使用な上に開閉はハナからできないし、車内の空気は完全に密閉されてて、連続で10時間までならそのままで大丈夫な空調システムを積んでるの。あの街の中を少し見て回るくらい、どうってことないわ」
私はケイちゃんの目をしばらく見つめていた。私が出ていったあと彼女はこの街に残り、今や市長になってる。その孤独が目の奥に見えた。
「わかった。でも一周したらすぐ戻るから」
「オーケー、それでいいよ」
街の様子について、なにから言えばいいのやら。まず、車は私たちの乗る一台しか走っていなかった。そのことについては、みんなこの街から出たくないから、交通手段は自転車で事足りるんだと、ケイちゃんが教えてくれた。そして言わずもがなだろうが、黄色い霧のような煙が街全体にかかっていて、数メートル先がもう見えにくい。よく見えるようにしようとライトをつけると、横からケイちゃんの手が素早くのびてきて、ライトを消した。
「みんな光に敏感なの」彼女は言った。車の前の霧の奥から悲鳴のような声が聞こえてきた。
車が通ってないせいで少しガタガタになったアスファルトを徐行より少し速いくらいで進でいると、見知ったチェーン店の看板がさび付いてるのを何度も見た。それがここが日本であることを物語っているのだが、黄色い霧の中からぬうっと現れる、道端にうずくまった中毒者は何度でも私の背筋を凍らせた。
「道にうずくまってる人以外の人間がいない」
街の半ば、中心のストリートにさしかかったころ、私は気づいたことを口にした。昨日のケイちゃんの話では、街の人口も税収も増えているはずだ。なのに、いまだ話が通じそうな人間は姿を現さない。
「外には末期の中毒者しかいないの」ケイちゃんは言った。「次の信号を左」
信号はどの色も点灯してなかった。
「ゆっくり止まらずに進んで」
いつの間にか霧が一層濃くなっていた。前に進んでいるかも分からないほど、視界は塞がれている。タイヤが砂利を踏み潰す感触だけがアクセルを伝って足に届いた。私は事故を起こさないか不安になっていたが、ケイちゃんは肘を窓辺につけてなにも見えない前を見据えている。
ほとんどクリープ現象で車は進んでいた。
「引き返そう。前が見えなくちゃ進みようがないよ」
「そのまま進んでいけば、大丈夫だから」
「事故りそうなんだけど」
「いいよ。少し擦るくらいなら。それに、もう道分かるでしょ?」
「え」
ケイちゃんは無言で顎をしゃくって、前方の電柱をさした。ただの電柱。だけど、私には特別な意味がある電柱だった。
「あ、待ち合わせの電柱」
「そう。よくあそこに集まって遊びに行ってたでしょ」
「そうか。ここあの辺なのか」
いつの間にか忘れていた記憶が頭の中に湧いてくる。遊びに行くためにあの電柱に向かって走っる自分が思い浮かぶ。どこから走っていたっけ。そうだ、孤児院。この道は孤児院に向かう道だ。
私がなんの指示も受けずにハンドルを切ったのを、ケイちゃんは何も言わず横目で見たいた。
黄色い霧はその濃さを極めて、フロントガラスに押し寄せて来ていた。向かい風でも吹いているかのようだ。視界は完全なイエローになっていたが、もう曲り角はない。真っ直ぐ進めば、実家につくはずだ。
「もうすぐ着くよ」私は言った。
「そうだね」
懐かしさがこみあげてきて、私の口元は緩んでいた。はやる気持ちもあったが、視界のせいで慎重にアクセルを踏んだ。ガリガリと砂利が鳴る。
突如として霧が晴れた。いや、完全には晴れてはいなかったが、数メートル先なら見通せる開けた場所に入ったようだ。私の目にはバカでかい煙突が飛び込んできた。地下から生えてきたようなそれは、孤児院があるはずの場所にどっしりと構えて、黄色い煙を上空に向けて吐き出していた。高さにして十メートル、直径も同じくらいありそうだ。
私は唖然として、無意識にブレーキを踏んでいた。ケイちゃんが私の肩に手を置く。
「止まらないで。お願いだから」
「え、ああ」
現実に戻って来た私はまた車を発進させた。でも、まだ全部を飲み込めてはいなかった。車は煙突を半周して、街の反対側へと向かっていく。その間も、私はかつては孤児院だったこの場所に、あの電柱のような思い出がないか探っていた。
「これがこの街。私たちの故郷」ケイちゃんが一言そういった。
イエローサブ Φland @4th_wiz_u
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