1~3 再
ハイウェイを走るタクシーの窓から見たその街は、黄色い霧に覆われていた。トンネルを抜けていきなり現れたその景色に、私はコーヒーを吹き出しそうになった。
「なんじゃありゃ?」
敬語を一瞬忘れるほどの衝撃を受ける。その黄色い霧は街全体をも包み込んであまりあるほど広大で、巨大な雲が対流しながら居座ってるようだった。辛うじて霧が薄れる箇所から建物の影が見えることが、あの向こうに街があることを知らせてくれていた。
「イエローサブマリンです」抑揚のない声でタクシーのドライバーは言った。「窓、開けないでくださいね。入るんで」
私は窓に伸びていた手をひっこめた。自負できるほど経験豊富なわけじゃないが、こんな光景は見たことがない。
本来であれば、さっきのトンネルを抜けた瞬間に、街を囲む山の稜線まで綺麗に見えるはずだが、稜線どころか、数メートル先すら見えなくなっていた。
「なんですか、そのイエローなんとかって」さっき聞いたことをもう忘れていた。
「イエローサブマリン。麻薬の一種です。詳しいことは私も知りません」それだけ言って、ドライバーは口を閉ざした。それから、運転してるんだから話しかけるなと言わんばかりにアクセルを踏み込む。
麻薬。あれが全部、麻薬。
私はバッグに手を突っ込み、雑にしまっていた一通の手紙を取り出して改めて読み返した。『久しぶり。ナオくんが東京にいる間にワタシは市長になりました。そしてその任期もあと一年!いい加減に里帰りしないと、ワタシを敬えないよ!急げ!!!』
私の知らない内にこの街に何があったっていうんだ。
タクシーはもう一度トンネルに入り、街はもう見えなくなった。
つづら折りの山道を登りきるころには、左右に揺られ過ぎて車酔いしそうだった。やっとのことで目的地に到着し、タクシーと今生のお別れをする。もちろん料金を払って。
タクシーが過ぎ去る音をを背中に聞きながら、私はホテルのような施設を見上げる。これが全部、役所だというんだから驚きだ。
首が疲れたので、私は中に入ることにした。
すごい。中もホテルそのものだった。足音のしない柔らかい床。豪華だけどいやらしくないカウンター。全体的にモダンな印象をうけた。埃のにおいがする東京の役所とは大違いだ。
「いらっしゃいませ」受付の女性は小声だったが、よく聞き取れた。
「どうも」と私。「市長と会う約束をしているんですが」
「失礼ですが、お名前をうかがってもよろしいですか?」
「下村直人です」
受付の女性はパソコンのキーボードをカタカタと小気味よくならした。「承っております。ようこそおいでくださいました、下村様。市長が直接ご挨拶を差し上げたいとのことですので、このままロビーでお待ちください」
受付の女性は微笑を浮かべながら手のひらで方向を示した。私は感謝の言葉を述べ、一人掛けのソファがたくさん並ぶ空間に移動した。
私以外には新聞を読んでいる定年過ぎくらいの男。テーブルを囲んで話す二人の老婦人がいた。男の方はコーヒーを、老婦人の二人はアイスティーを飲んでいる。見ると、バーを改装したらしいカフェが壁際にあった。
もはや役所にいることを忘れそうなほど、ゆったりした時間が流れ始めたころ、レディーススーツを着た女性がエレベーターから降りてきた。スーツの女性は私を見つけると、にこやかに近づいてくる。私も立ち上がって軽く手を上げる。
「ナオくん。久しぶり」女性が言った。「いや、お帰りかな」
「お久しぶりです。森岡市長」
市長は少しムッとする。「やめてよその話し方。昔みたいにケイちゃんって呼んで」
私は少したじろいだ。この年になって人のことをちゃんづけで呼ぶのには中々恥ずかしいものがある。だけど、有無を言わさない視線からは逃げられそうにない。
「…ケイちゃん。久しぶり」
「うん。元気だった?」
「肩こりを除けば概ね」
「相変わらずだね」彼女はまたにこやかに微笑んだ。彼女が市長で、私がその市長に呼び出されたのでなければ、20年ぶりの再会に喜ぶ二人だ。だけど、それ以上に私には聞きたいことがあった。
「そんなことより、ここに来る途中で街が変な霧に包まれてるの見たんだけど」
歯を見せて笑っていたケイちゃんの口元がギュッと閉じられ、難しい顔になる。
「気になるよね、やっぱり」ケイちゃんは言った。「来て。説明するから」
彼女に促されて私は市長と一緒にエレベーターに乗る恩恵に預かる。エレベーターの内装も、ホテルそのものだった。清潔そうな壁、見るからに最新式の押しボタン。ケイちゃんは一番上のボタンを押す。扉が閉まって、上昇の微小なGが体にかかった。
「ここは前はホテルだったの」最上階に着くまでの間を埋めるように、ケイちゃんは話始めた。「それをそのまま買い取って役所として使っているの。せっかくだから雰囲気もそのままにしてね」
「ロビーのバーはカフェになってた」
「アルコールは置いちゃダメなんだって」彼女は残念そうに語気にため息を混ぜた。「役所だから」
「そりゃそうだ」
「ナオくんも議会の左翼連中と同じなのね」
恨めしそうにケイちゃんは私を見た。知らぬ間に彼女は酒好きになっていたらしい。20年も経っているのだからそんな変化があって当然と言えば当然なのだが。
「左翼かどうかは知らないけど、酒は体を壊すよ。というか、君が右翼だったなんて驚きだな」
「右翼はこの街にイエローサブマリンをばらまいた。両方とも私の敵よ」
小学生のころ、些細な理由で対立した男子たちと女子たちのリーダー両方の頭をひっぱたいた幼いケイちゃんを思い出したが、そんなことより私は面食らった。『イエローサブマリン』その単語から、あの不気味な黄色い霧がフラッシュバックして、過去の思い出はどこへやら。
私は何か言おうとして口を開こうとしたが、その瞬間、エレベーターのドアが開いた。彼女は私をおいて先に降りていく。慌ててついていく。
降りた先は客室の廊下だった。そこを端まで進むと、スタッフ専用の扉があった。そこをさらに進むと階段があって、屋上に続いていた。
「ここに来る途中でもう見たと思うけど、これがこの街の現状よ」強風でなびく髪を抑えながらケイちゃんは言った。もう片方の手は屋上の柵に添えられている。
彼女の半歩後ろから街を見下ろす。ハイウェイで見た黄色い霧が山に囲まれた土地を蠢いていた。黄色い巨大な雲海。頭に浮かんだのはそんな表現だった。
「一年前」ケイちゃんはブランデーをグラスに注ぎながら語り始めた。「移民系のアングラ組織が土着のヤクザと手を組んで、新しいシノギに手を出したの。言わずもがな麻薬だったんだけど、黄色い粉だったから単純にイエローって言われてた。大麻と同じように吸引して服用するの。服用が正しい言い方か知らないけど。使用すれば、他の薬物と同じような効果が得られる。イエローが優秀なのは、安価で作れて効果も上々、おまけに使用が楽なところかな。デカい農園も、工場もいらないし」
風が強くて屋上は話し合いに向かないので、階下の部屋に移動した。おそらく元はスイートだったんだろう部屋の一角は、市長室の装いになっている。日頃ケイちゃんはここで仕事をしているのだろう。机の上には乱雑に書類が積まれている。そういえば、ケイちゃんは片付けが嫌いだった。
私は差し出されたグラスを受け取った。
「麦茶の方がよかった?」煽るように彼女が言った。
「もう子どもじゃない」私は挑発に乗ってグラスに口をつけた。すぐに後悔した。
ケイちゃんはひとしきり笑い、ソファにドカッと座った。私も眉間にシワを寄せたまま彼女の向かいに腰掛ける。
「それで」私は言った。「なんであんな状態になったんだ?」
「さすがナオくん。話がはやくて助かるわ」彼女はグラスを傾けた。もう空になりかけてる。「麻薬で一番手っ取り早く儲けるにはどうすればいいか分かる?」
私は首を横に振った。
「簡単よ。安価で大量にばらまけばいいの。イエローはその点でも優秀だった。イエローを燃やして生じる煙は、空気よりも重い上に、無害化されるまで時間がかかるの」
「それじゃ、あの黄色いのは全部、そういうこと?」
「そう。いっつも底を蠢いてるから、誰かがサブマリンって続けたみたいね」
「それってビートルズから取られてるのかな?」
「そこ気になるかなぁ」彼女は呆れていた。「それは知らないけど、別に本人たちも構いやしないでしょ、やってたんだし」
納得。
「街の人はある日突然、あの黄色い霧に包まれてしまった」彼女は続けた。「それ以来、全員中毒になって、あの街の空気に毎月お金を払ってる。サブスクみたいに」
アルコールのせいで彼女の舌はよく回っていた。顔も赤らんできている。私は地元の変化について行けず、血の気が引く思いだった。
「街のいたるところにイエローの煙を吹き出す煙突があって、そこから延々とイエローがまき散らされてるの。市民を中毒にして、金を巻き上げるために。私たちが屋上で見たのはイエローと普通の空気の境界面」
ハイウェイで街を見た時は街全体を黄色い霧が覆い、空まで黄色がかって見えていたが、ハイウェイより高い屋上から見下ろすと、実際、あの霧があるのは盆地の底の部分だけで、それより上は綺麗な空気だった。青空も見えた。
「ああ、それでこのホテルを」
「そう買い取ったの。街の行政はほとんどこの近くに移設されてるわ。ほとんど機能してないけど。というよりする必要がなくなったって言った方が正しいかな。霧の中の街はいま、さっき言った土着のヤクザが自治してる状態」
「そんなの国が黙ってないだろ」
「国は何も言わないわ。議会の右翼連中は与党の息がかかった奴ばかり。コイツらはヤクザがこの街でのさばるのを見過ごして、市民の投票先を操作してる。もちろん、ヤクザを排除する動きもあるけれど、あんなに巨大に膨れ上がったものを処理するだけの予算が組めない現状」
にわかには信じられない論理だが、現実に起きてる以上、信じるしかないのか。
「君はイエローを嫌っているように見えるけど、市長だ。この街にもまだ正気を失ってない市民がいるんじゃないのか?」
ケイちゃんはかぶりを振った。「私が市長に就任したころはイエローのYの字もなかった。それがここ一年で劇的に変わってしまった。次の選挙ではどうなるか分からないわ。おそらく、私がいなくなればこの街はもっとヒドイことになるでしょうね」
私はしばし黙る。あの黄色い霧の向こうには計り知れない闇がありそうだった。
ケイちゃんはそのあと飲み続け、最後には船をこぎ始めていた。
「イエローのもっとも邪悪な側面はね」ぐったりと寝てしまう前に、彼女は口だけを動かして言った。「吸った人を多幸感に包んで、馬車馬のように働かせて、家族を設けさせ、最後は狂って死なせること。常人の人生の三回分を十年で味わうの。苦しみや、悲しみは抜きにして、おいしいところだけをね」
ラッキーなことにここはホテルを改装してつくった市長室なので、隣はベッドルームだった。私はケイちゃんの手からグラスをひったくりテーブルに置くと、彼女の肩と足を抱えるように持ち上げ、ベッドまで運んだ。
翌日、民宿に泊まっていた私は頼んでもいないモーニングコールに起こされた。わりかし急いで外に出たのだが、ケイちゃんは車のボンネットに体重を預けながら腕を組んでいた。
「遅い」
「今起きたんだって」
「まぁいいわ。いくよ」
彼女は軽く手招きした。どこに何をしにいくのかというのか。まぁ走りながら聞けばいいかと思い助手席側に乗り込むと、目の前にハンドルがあった。
「運転よろしく」ケイちゃんは笑った。イタズラが成功した時の笑顔だ。「事故ったら訴えるから」
「なら運転させないでくれよ」
足元を見ると、信じられないことにマニュアル車だった。私は一番左のペダルを睨みつけた。
目的地はすぐに分かった。ケイちゃんの案内で昨日登った山道を下って、細い脇道にそれると、フロントガラスが妙にモヤがかかったように見えにくくなっていった。朝霧かとも思ったが、それがだんだんと車全体を包み込むように濃くなり、そして黄色がかってきたところで、私はブレーキを踏んだ。
「引き返す」私は言った。
「だめ」
「なんでさ。あんな危険なとこ行って何になるっていうの?」
「ナオくんにはちゃんとこの街の現状をその目で見てほしいの」
「そのことなんだけどさ」私は思い出したように言った。「なんで俺を呼んだの?こんな状況になってるなら、わざわざ来なかったよ」
「今言った。この街の現状をちゃんと見てほしかったの。それに、この車は海外のメーカーに作らせた特注品だから、あの街の中を少し見て回るくらい、どうってことないわ」
私はケイちゃんの目をしばらく見つめていた。昔から男勝りだったケイちゃんは、私が出ていったあとでもこの街に残り、今や市長になってる。なのに、助手席に座る彼女は酷く小さく見えた。
「わかった。でも一周したらすぐ戻るから」
「オーケー、それでいいよ」
街の様子について、なにから言えばいいのやら。まず、車は私たちの乗る一台しか走っていなかった。そのことについては、みんなこの街から出たくないから、交通手段は自転車で事足りるんだと、ケイちゃんが教えてくれた。そして言わずもがなだろうが、黄色い霧のような煙が街全体にかかっていて、数メートル先がもう見えにくい。よく見えるようにしようとライトをつけると、横からケイちゃんの手が素早くのびてきて、ライトを消した。
「みんな光に敏感なの」彼女は言った。霧の奥から悲鳴のような声が聞こえてきた。
車が通ってないせいで少しガタガタになったアスファルトを徐行より少し速いくらいで進んでいると、見知ったチェーン店の看板がさび付いてるのを何度も見た。それがここが日本であることを物語っていて少し安心するのだが、黄色い霧の中からぬうっと現れる、道端にうずくまった中毒者は何度でも私の背筋を凍らせた。
「道にうずくまってる人以外の人間がいない」
街の半ば、中心のストリートにさしかかったころ、私は気づいたことを口にした。いまだ話が通じそうな人間は姿を現さない。
「外には末期の中毒者しかいないの」ケイちゃんは言った。「次の信号を左」
信号はどの色も点灯してなかった。
「ゆっくり止まらずに進んで」
いつの間にか霧が一層濃くなっていた。前に進んでいるかも分からないほど、視界は塞がれている。タイヤが砂利を踏み潰す感触だけがアクセルを伝って足に届いた。私は事故を起こさないか不安になっていたが、ケイちゃんは肘を窓辺につけてなにも見えない前を見据えている。
ほとんどクリープ現象で車は進んでいた。
「引き返そう。前が見えなくちゃ進みようがないよ」
「そのまま進んでいけば、大丈夫だから」
「事故りそうなんだけど」
「いいよ。少し擦るくらいなら。それに、もう道分かるでしょ?」
「え」
ケイちゃんは無言で顎をしゃくって、前方の電柱をさした。ただの電柱。だけど、私には特別な意味がある電柱だった。
「あ、待ち合わせの電柱」
「そう。よくあそこに集まって遊びに行ってたでしょ」
「そうか。ここあの辺なのか」
いつの間にか忘れていた記憶が頭の中に湧いてくる。遊びに行くためにあの電柱に向かって走ってる自分が思い浮かぶ。どこから走っていたっけ。そうだ、家。この道は私の実家に向かう道だ。
私がなんの指示も受けずにハンドルを切ったのを、ケイちゃんは何も言わず横目で見ていた。
黄色い霧はその濃さを極め、フロントガラスに押し寄せて来ていた。向かい風でも吹いているかのようだ。視界は完全なイエローになっていたが、もう曲り角はない。真っ直ぐ進めば、実家につくはずだ。
「もうすぐ着くよ」私は言った。
「そうだね」
懐かしさがこみあげてきて、私の口元は緩んでいた。こんな状況だが、郷愁は感じるものだった。はやる気持ちもあったが、視界のせいで慎重にアクセルを踏んだ。ガリガリと砂利が鳴る。
突如として、霧が晴れた。いや、完全には晴れてはいなかったが、数メートル先なら見通せる開けた場所に入ったようだ。私の目にはバカでかい煙突が飛び込んできた。地下から生えてきたようなそれは、実家があるはずの場所にどっしりと構えて、黄色い煙を上空に向けて吐き出していた。高さにして十メートル、直径も同じくらいありそうだ。
私は唖然として、無意識にブレーキを踏んでいた。ケイちゃんが私の肩に手を置く。
「止まらないで。お願いだから」
「え、ああ」
現実に戻って来た私はまた車を発進させた。でも、まだ全部を飲み込めてはいなかった。車は煙突を半周して、街の反対側へと向かっていく。その間も、私はかつては家だったこの場所に、あの電柱のような思い出がないか探っていた。
「これがこの街。私たちの故郷」ケイちゃんが一言そういった。
イエローサブ Φland @4th_wiz_u
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