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十年前、秋野は〈海沿いの町〉に住んでいた。というより、秋野は生まれたときからその町で育った。だから、その〈海沿いの町〉は秋野の生まれ故郷ということになる。だが今は別の街に住んでいる。秋野は大学進学と同時にその町を出たのだ。
秋野はいち早くその町から出ることを望んでいた。なぜなら、〈海沿いの町〉は海沿いというだけで何でもないような町だったからだ。観光できるものや退屈しのぎになるようなものなんて何もないし、唯一ある海も、特段綺麗だとかそういったものではない。年老いた人間の住む郊外住宅地がただただ広がっている、そんな町だった。しかし秋野が退屈しているということに、両親が気づいているわけでもなく(気づいていたとしても、何もしなかっただろう)、秋野はそんな町での日々を送ることを強いられていた。
特別な趣味嗜好もなく、強い家族愛があるわけでもない。親友と呼べるような、遊び相手になるような友人もいない。そのために小学五年までの日々を、秋野は海に行ったりして過ごした。もちろん、それすらも退屈なわけだったが。
小学六年の春、秋野は強く思った。このままではいけない。自分から環境を変えていかなければならない。そんな決意が、秋野に空いていた穴にがちりとはまったのだった。
では具体的にどう変えていけばいいのか。秋野が導いた答えは、進学する中学を変えることだった。このまま地元の中学に進学してしまえば、きっとまた退屈な日々を送ることになる。秋野は分かっていた。
両親を説き伏せ、別地域にある公立の中高一貫校を目指し必死に勉強した。どんな空白の時間も生まないように気を付け、塾にも行かずに努力し続けた。だがそれは、秋野にとっては比較的容易なことだった。今まで何もせずだらだらと過ごしていた退屈な時間を、学びという有意義なこと、そして確固たる目的があることに注ぐのは、非常に気持ちがいいものであった。
年を越し、すぐに二月はやってきた。二月もあっという間に終わり、気づけば三月だった。〈海沿いの町〉にも、桜前線がやってきていた。
秋野の努力が結果を裏切ることはなかった。秋野は四月から、その中高一貫校に通うこととなった。合格発表の掲示板に自分の番号が載っているのを見たとき、秋野は泣くでもなく喜ぶでもなく、ただ、呆然としていた。それは秋野にとって初めての「自分で選んだ」ことであり、それが実った絶大な感動を、彼は噛み締めているのだった。
桜が満開に咲き誇った四月、彼はまるで着られているような大きさの真新しい制服に身を包み、入学式に向かった。同じ制服を着ている入学生の姿を移動の列車で見るたびに、秋野はどこか誇らしげな気分になった。そしてそれは、普通に地元の中学に進学した生徒を見るとより強さを増した。秋野は叫びたくなった。「俺はお前らとは違うんだ。」、と。
入学式が終わり、四月が終わり、五月、六月と、秋野の新生活はあっという間に過ぎ去っていった。その間様々な行事やテストがあったが、一つ終わるごとにまた次ととにかく忙しなかった。良く言えば、とにかく充実していた。悪く言えば、潰れていってしまう。
——秋野の心象はその忙しなさの中、時間が経つにつれて暗がっていった。
暗がりの原因は、忙しさのせいもあるが、それが大きな理由ではない。
一言でいえば秋野は、すぐに周りとの差に打ちひしがれていったのだ。
その中高一貫校には、その県でもトップクラスに頭のいい学生がうじゃうじゃと入学する。もちろん、その入学試験に突破で来たからには、秋野も十分頭はいいのであるが、一年間必死に努力した秀才を凌駕する天才は、どこにだっているものだ。
初めての中間テスト。猛勉強して挑んだにもかかわらず真ん中の順位を取ったとき秋野は、四月の時の傲慢な気持ち——俺はお前らとは違うんだ——をことごとくぶっ壊された。それ自体は彼にとって良い出来事だった。ただ秋野は、さらにそこから這い上がる方向に思いを持っていきはできなかった。……中庸な人間は中庸なままなのだと、彼は感じてしまった。狐は虎にはなれない。だから虎の後ろに付く。そういうことを、秋野はその時にひどく思い、決めつけたのだ。
その後の期末テストも、体育祭などの行事も、秋野は「とりあえずでいいや」と構えて取り組むようになった。全力を出すことなんて馬鹿馬鹿しい。乗り越えられないものだってあるのだ。そう考えた。それは、「裏切られる」ことに対する恐怖心に由来しているものだった。秋野は思う。落ちこぼれたわけじゃない、中庸に生きようと思ったんだ、と。
七月一日。いつものように学校から列車に乗って帰り、〈海沿いの町〉に着くと、秋野はふと自分が安心していることに気が付いた。理由は簡単。〈海沿いの町〉はどこまでも中途半端な町だ。特別な取り柄があるわけでもなく、唯一ある海もそこまで綺麗じゃない。——年老いた人間の住む郊外住宅地がただただ広がっている、そんな町だった。……
「お似合いだったんだな。」秋野はその日、必然性というものを強く感じた。
七月七日。七夕。織姫と彦星が、一年のうち一回だけ出会うことのできる日。夜空は天の川で綺麗に染め上げられる。そんな、何ともロマンチックな一日。人々の中には、浴衣などを身にまとい、恋人や家族、友人たちとそんな美しい夜空を見上げる。
もっとも、そんなのは「常識」ですらない、半数の人々が迎える七夕の話だ。秋野みたいな残り半数の人間にとって、その日は他と同じような代り映えしない一日に過ぎない。
金曜日の七夕の朝。秋野はいつもと同じように制服を身にまとい、一人で列車に乗車した。秋野が乗る位置はいつも決まっていて、前から二番目の号車。そして、そこにあるボックス席に座る。向かい側に座る人間はいない。駅の出口から遠いうえ、乗客数も少ないためだ。
座って、小説本を読みながら思う。外の景色も、自分自身も、何も変わらない。いつも通りの一日だ。面白い展開も、悲しい悲劇も起こらない。中庸で、凡庸。普遍的。
だが秋野にとって、「いつもどおり」というのは極めて気持ちがいい言葉である。何かが変わってしまうのは恐ろしいことだ、そう思っているために。
窓の外の景色が、前から後ろへとどんどん変わっていく。
——しかしその日、秋野には似合わず「変化」が生じた。一つ述べておくが、それは決して、七夕がもたらした奇跡などではなかった。秋野に起こるべくして起こった出来事。ずっと前から、それは水面下で少しずつ進行していたのだ。それが表面に現れたのが、たまたま七夕だっただけだ。
次駅に着くと、いつも座られないボックス席の向かい側に、少女が座った。
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