Titleless Story

水無月うみ

1

 十月のある土曜日の朝、秋野あきのは親友の〈みみず〉と共に談笑していた。それは彼らにとって毎週の恒例行事であり、談笑場所である公園は土曜の朝になるといつも男二人の声が響いていた。風雨で汚れた二人掛けのベンチに座るのは、通常その二人くらいだった。

 取り立てて身のある話をするわけではない。ちょっとした愚痴や自慢、最近の出来事とか、話題は下らないようなものばかりだ。だが二人にとっては、そこで毎週のように会い、そんな下らない、すぐ忘れるような話をするというのが、一番大事だったのである。

 その日の二人の談笑も一区切りした頃だった。

「〝彼女〟との関係は、一体何だったんだろう?」と秋野が言った。今にして思えばそれは、〝幼馴染〟にしては親しすぎたし〝恋人〟にしては素っ気ない関係だったからだ。

「どうとも言えんなあ。」秋野の問いに対し、〈みみず〉は少し悩んだ後にそう言った。そしてそう一言言うと、彼はまたビールを浴びるように飲み始めてしまった。まだ朝の七時だというのに、彼は既にビール瓶一本を空っぽにしていた。

「別に結論付ける必要も無いんだろうけどさ。でも何だかそれって逃げてるみたいで。」

 ビール瓶を横目に、秋野は言った。特に何とも思っていない風にしながら。すると〈みみず〉は、飲み進める手を止めて、言葉を選ぶかのようにゆっくりと、こう呟いた。

「確かにお前と彼女との関係はいささか歪だったように思う。親しいことは親しかったが、それとは少し違う。友人とも恋人とも括ることはできない。でもあの関係はあの形でしか成立しなかったんだと俺は思っている。何せ、彼女は一つとして聞こえなかったんだ。普遍的な関係なんて、お前のその性格としかもあの環境じゃあ作れっこない。」

 一つとして聞こえなかった。あの環境。〈みみず〉がだいぶ言葉を選んで話したことは秋野には手に取るように分かった。気を遣う必要は無いのに、と思いながらも秋野は「そうだな。」と〈みみず〉に対して少し笑った。〈みみず〉はその後は特に何も言わず、またビールを体内に流し込んだ。そのようにしてその日の談笑は終わろうとしていた。

 だがその終わる前に、〈みみず〉が二本目のビール瓶を空にしてしまった時、秋野は彼女との関係を形容する言葉を見つけることができた。その言葉は、秋野と彼女——佐奈田凛との関係のあいだに、すっと軽々しく馴染んだ。

「パートナー。」秋野は声にもならないような声で呟いた。

 秋の涼しげな風が、辺りの落ち葉を宙に浮かせながら吹き込んできた。ビールに集中している〈みみず〉は分厚いジャンパーを羽織っているくせにぶるっと震えて「そろそろお開きにするか。」などと白々しく言った。パートナーは聞こえていたのか分からないが、〈みみず〉は特に何も反応してこなかった。


 佐奈田凛さなだりん。それは、秋野文浩ふみひろの青年時代の流れを大きく変え、彼の初恋の対象となり、彼を落ちこぼれさせた少女の名だ。佐奈田と出会わなければ、秋野は一人の中庸な人間として、安定した軌道の上で人生という旅路を踏みしめていくことができただろう。

 しかし、幸運にも不運にも、それは中学一年の夏だった。二人は、朝の通学列車の中で出会った。

 秋野は、佐奈田と出会ったことを後悔はしていない。むしろ、彼にとって佐奈田は、ぱっとしなかった自分の人生を良かれ悪かれ変えてくれた人物だ。個人的な恨み、憎しみなどというのは、今までの一度と感じたことはない。

 ただ重要なのは、佐奈田との関係——いや、なぜ彼女は秋野という人間に接したのか、という問い。純粋な好意だったのだろうか。あるいは、赤の他人と接することへの好奇心? それとも、いささか突飛ではあるが、助けを求めていた? 分からない。

 ただ、確かなことが三つある。それは、「その時秋野は、人生最大の幸福感に包まれていた」ということ、二つは、「そこには〈みみず〉もいて、三人の日々は何と名付ければいいか分からないほど〝溢れていた〟」ということ。そして最後は、

「佐奈田凛は、聴覚障害を持った人間だった」ということ。


〈みみず〉と別れると、秋野は寄り道したりはせずまっすぐ自宅へと帰った。徒歩十分。コンビニも自販機もない、本当に都内かと思うほど静まり返った侘しい街の住宅街の中。秋野はジャンパーのポケットに手を突っ込み歩きながら、静かに物思いにふけっていた。

 佐奈田、〈みみず〉、夏、旅……。あらゆる要素に決着をつけられていないような気がした。不完全燃焼とも違うような、苦みのあるような青春の後味。何が秋野を悩ませているのか、その正体は分かっているのに、どうすればいいのか分からない。

 こういう時、すぐ煙草に頼ってしまうのが、昔からの秋野の悪い癖だ。煙草を吸うと、意識がぼんやりとして、何もかもをうやむやに忘れ去ることができる。

 ズボンのポケットから、ソフトタイプのピアニッシモとライターを取り出す。口に咥え、手で覆いながら先端に火をつける。そして、静かに一番目の煙を吸う。その時、

「煙草、吸うんだ?」

 懐かしい音がした。紙が擦りあうような音。秋野が振り向く。でもそこには誰もいない。あるのは静かな住宅街だけ。目を閉じる。そしてゆっくりとまた目を開く。すると、十年前に戻ったみたいだった。佐奈田がそこにはいる。青のゆったりとしたパーカーに黒のジーンズ。色あせたノートに書いて、秋野に見せる。秋野もノートを持っている。都合よく、鉛筆もセットで。自然な動き。秋野は書いて見せる。

「うん、美味しくもないんだけどさ。」すると少女の佐奈田はこう書いてみせる。何か含んだ笑みを浮かべながら、いつもの速筆で。もちろん秋野は何と書かれるか知っている。

 幻影の中で、懐かしい、あの日々の記憶が蘇っていく。秋野と、幻影の少女が呟く。


「美味しくないものこそ、一番中毒になるんだよ。」

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Titleless Story 水無月うみ @minaduki-803

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