第2話

ㅤそれから数日が経った通学時、トヨさんの錆だらけだった自転車はピカピカの新品に変わっていた。


 トヨさんは学校へと歩いていく私を、たまに年季の入った自転車に乗りながら追い抜かしていく。

 

「よっちゃん、おはよ~う! お先に~!」

 

 元気に挨拶をして行くが、その自転車の運転テクニックは危なっかしくて見ていられなかった。

ㅤあんな亀みたいなスピードは、私が本気で走ったなら追い越せそうに思えた。いつかコケてしまうんじゃないかと心配していた所で、新品の大人用の三輪車に変わったのだ。これでトヨさんはコケなくて安心だとホッとしたが、

 

「よっちゃん……おはよ、……おさき、…にぃ~」

 

 トヨさんからの挨拶には、少しも余裕は見られなかった。


 新しい三輪車に乗りながら、少し照れたように笑い、危なっかしく私を追い越した後、ふらふらと大きく揺れ動きだしたのだ。


 三輪車なのに、なんで自転車よりも不安定なのかと不思議に思った。

ㅤそのふらふら具合が酔っぱらいのように見えて、もしもコケたならマンガみたいに面白いだろうなと思ってしまって、

 

『コケろー!!』

 

 気付けば私は、念を込めて心の中で叫んでいた。


ㅤ中二病の私は、まだ目覚めていない特殊能力がこの手にあるのかもしれないと、日頃から念力を試したい気持ちがあったのだ。


 あろうことかトヨさんのふらふらはさらに大きく弧を描きはじめた。


『え!? 私の念力のせい!? 違うよね!?』


 偶然なのか特殊能力なのか、ついにトヨさんは三輪車と共に、バタン! と派手に倒れこんでしまったのだ。


「トヨさん!!」


 私はトヨさんに駆け寄り三輪車を歩道に立て掛けた。

 トヨさんはアスファルトに倒れ込んだまま、額から血を流してホッホッホッ…と力なく笑っている。


「トヨさん! どうしよう!! 私の念力だったらごめんなさい!! なんで私、こんなこと!!」


 私は動揺して何が何だか分からなくなくなった。

 トヨさんの頭からは大量の血が流れ出て止まらない。怖くて心臓がドクドクと高鳴って苦しくてパニックになって、次々と涙が溢れた。


「あー! どうしよ! どうしよ! 誰か、誰か助けて下さい!! 誰かぁー!!」


 私はどうすることも出来ずに、ただトヨさんに寄り添って無我夢中で助けを呼ぶ事しかできなかった。


 その間も、トヨさんの額からは真っ赤な血が滴り落ち、私の制服を赤く染めていく。

 泣きわめく私の大声に、近所の住人が一人二人と集まりだした。

 

「サヤちゃん、ここは私らにまかせて学校へ行きなさい!」

 

 顔なじみのおばさんがそう言うが、私は「イヤだ!」と泣き叫んでトヨさんの傍を離れなかった。

 

「……よっちゃん、大丈夫やから、…はよ行って。ちゃんと勉強せな。……よっちゃんはやさしいなぁ…。心配してくれてありがとうな」

  

 トヨさんはアスファルトに倒れたまま額から血を流し、顔を赤く染めながら手を振った。

 

 その後の学校では、授業も友達との会話も上の空だった。トヨさんのその後が気になって、心配で心配でならなかった。授業が上の空なのはいつものことだけど、大好きな給食ですら、いつも必ずするおかわりが出来なかった。

 


 トヨさんの額の傷は大したことはなく、2針ほど縫う程度のものだったらしい。でも大腿骨が骨折していたらしく、手術のためにしばらくは入院だと聞いた。


 私は心の中で、『コケろ!』と念を込めて叫んでしまったことが悔やまれて、眠れない日々を過ごした。

 あの事故は特殊能力のせいじゃないとしても、私はあの時『コケろ』と思った。トヨさんが転んだら面白いと思ったのだ。


ㅤ私は全然、少しも『よし子』なんかじゃない。


 私はトヨさんに謝りたくて、入院した何日か後の日曜日、お母さんと一緒にトヨさんのいる病院へとお見舞いに行った。

 

 

 白いカーテンを開けて覗きこむと、ベッドに横になっていたトヨさんは私を見るなり笑顔を見せた。

こんな悪い子の私に、「よっちゃんや!」と言って喜んでくれる。

ㅤトヨさんの周りの空気がカラフルな色を帯びたようにフワッと明るくなった。

ㅤ私はそんなふうに喜んでくれるトヨさんの目を、真っ直ぐと見ることが出来なかった。


 私はあの時、心の中で『コケろ!』と言ってしまったことを謝った。

 私はよし子なんて呼んでもらえる子じゃない。今までも、トヨさんがしてくれた優しさに素直に喜べない私がいたんだから。

 

「私はよし子じゃないよ。悪い子だもん。すごくすごく、悪い子だもん。……ごめんね、トヨさん」

 

 泣いて謝る私に、トヨさんはホッホッホ…と力なく笑って、ベッドからシワシワの手を伸ばし、私の頭を優しく撫でてくれた。

 

「かまわんかまわん。そんなのは少しもよっちゃんのせいやないよ~。……かわいそうに、気にしとったんやな~。この怪我はな、新しい車が慣れんかったからや。それだけのことやよ。…心配してくれてありがとうな。 ……ほんとに、よっちゃんは、ええ子やな~」

 

 顔をしわくちゃにして、トヨさんもまた、涙を流して微笑んだ。


 しばらく入院をしたトヨさんは、平屋の家には帰らず、遠くの特別養護老人ホームに入所したと聞いた。

 あれからトヨさんに会うことはなかった。

 何年かが経って、トヨさんは天国へと旅だったと風の便りで聞いた。

 

 

 大人になった今でも、空き家のトヨさんちの前を通ると、ホッホッホッと元気に笑うトヨさんの姿が思い出される。

 それに無意識のうちに私は、つま先立ちで歩いてしまうようだ。そんな私が、昔の私と重なるようで、笑みがこぼれた。


 空き家は今では沢山の雑草に覆われ朽ち果て、あの頃の面影すら薄くなっていた。


 もしも今の私があの頃にいたなら、もっとトヨさんとの接し方も違っただろうけど、トヨさんにとってはあの頃の『よっちゃん』の方が、本当のよし子だったのかもしれない。


 私はよし子じゃないけれど、トヨさんから『よっちゃん』と呼ばれることが、結構好きだったんだと、今となっては思う。




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私はよし子じゃないけれど 槇瀬りいこ @riiko3

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