私はよし子じゃないけれど

槇瀬りいこ

第1話

 近所に住むおばあさんの、平屋の家の前を通る時は、警戒しながら歩いていた。


 夏休みの部活の後、昼過ぎに通りかかる時は特に注意しなけらばならない。


 やはり今日も蒸し暑い中、トヨさんは庭の草むしりのために外に出ていた。

ㅤ大きな麦わら帽子と、顔のほとんどを手ぬぐいで覆い隠して、皺の多い目元だけが私を見て大きく手を振ってきた。

 

「あら~、よっちゃんだ。今日も暑いねぇ~! 冷たいカルピスでも飲んでくかい?」

 

 見つかってしまった。

 それに、私は『よっちゃん』じゃない。親からもらった『彩香』という綺麗な名前があるのに。 

 

 独り暮らしのトヨさんは、小学生の時から私が、

 

「よっちゃんじゃなくて彩香です!」

 

 と言っても、

 

「あなたはとっても良い子だからよし子の方が合ってるよ。だからよっちゃんだ」

 

 と、ホッホッホッと笑って流された。


 トヨさんはとてもいい人だけど、そういう所が気に入らなかった。

 

 

 私が小さい頃、石垣に登って忍者ごっこをしていたら、石垣の隙間に巣くった蜂の巣に指を突っ込んでしまい、怒った蜂に追いかけられて指を刺されたことがあった。


 蜂は悪気のない私に容赦なく攻撃をやめようとはしなかった。何匹かの蜂を引き連れて、恐怖と指の痛みに泣きながら、近くにあったトヨさんの家へと助けを求めた。


 トヨさんは、「コラくそ!! 去れ!!」と蜂を威嚇しながら竹棒木で追っ払ってくれて、泣き喚く私の腫れた指の手当てをしてくれた。

 

 有無を言わさず私の指を咥え、チューと掃除機みたいな吸引力で吸って、ペっ! と唾を吐き出したのだ。


 そのトヨさんの行動に、指の痛みを忘れるほどに驚かされた。


 正直、不愉快だった。


 助けてくれたのは嬉しいけど、まさか指をトヨさんに咥えられてチューとされるだなんて思ってもいなかったからだ。私は大分引いてしまった。


 後から、それは応急処置で蜂の毒を吸い取ってくれたのだから有り難く思わないとだめだぞ。とお父さんが教えてくれたけど、それでも私は気分が悪くて、石鹸で念入りにゴシゴシと手を洗った。


 せっかく助けてくれたのに、こんなふうにトヨさんを悪く思ってしまう私は、ちっとも『よし子』じゃないって思ってた。


 そんな罪悪感に気分が沈むから、普段からトヨさんとはあまり絡みたくはなかった。

 

 そんなトヨさんの独り暮らしの平屋の前を通る時は、息を潜めるように、靴音を鳴らさずして足早に歩く。


『私はくのいち。私はくのいち……』


 と、心の中で呪文のように呟きながら。

 でも、5回に3回はバレた。

 そんな日は忍者の動きが上手くできなかったのだと、勝負に負けたような悔しさを覚えた。


 私はトヨさんちの縁側に促され、しぶしぶと腰を下ろした。


 部活の後の体操着はまだ汗で湿っていて、飼い犬のクロの匂いがした。早く着替えをしたい。

 庭にある桜の木に止まった蝉がミンミンとうるさくて余計に暑く感じる。私は額に流れる汗をTシャツの袖で乱暴に拭き取った。

 私の頭の中では、いかにして早く家に帰るか、それしかなかった。

 

「よっちゃん、はいカルピス。暑かったやろ~? 運動する時は倒れてまわんように気をつけなあかんよ」

 

 トヨさんは笑顔でそう言うと、私の腰掛ける縁側の右端に、年季の入った木製のお盆を置いた。明らかに白色が薄いカルピスがそこに乗っている。私は水滴がついたコップを手に取った。

 

「ありがとうトヨさん。いただきます」

 

 一気に飲み干した。最高記録の早さだ。

 そんな私の姿を、トヨさんは隣に腰掛け笑顔で見つめてくる。

 毎回この縁側に座ると、薄味のカルピスをもらいながら30分以上はお話をすることとなるのだ。


 私は内心ため息をついた。


 私の自宅はここから一分で行けるところにある。だからここで休憩をする必要は少しもないのだ。

ㅤ早く冷房の効いた我が家の居間で、好きなテレビを観て涼みながら、濃いカルピスを飲みたかった。

 

 トヨさんは空のコップが置かれたお盆を台所へと下げた後、なぜだか再びカルピスを作って持ってきた。それを初めて出すかのように私へと差し出してくる。

 

「え? トヨさんなんで?」


「おまたせ。よっちゃん運動で喉乾いとるやろ? 冷たいカルピス、飲んでいってな? 今日は暑かったやろ?」

 

 私はトヨさんがわざとやっているのかと思った。私が早々と帰らないように2杯目を出してきたのかと。私は挑戦状を叩きつけられた気分になって、2杯目のカルピスも一気に飲み干した。

ㅤだけど3杯目を出されてしまった時は、挑戦状でも冗談でもないのだと悟った。

ㅤ怖かった。逃げ出したくなった。

 私は3杯目を無理やり飲み干すと、タプタプになったお腹を抱えて縁側から立ち上がった。


「私用事があるの、帰らなきゃ!」


 このタイミングで素早く帰らないと、薄味カルピスの地獄から解放されない。無限ループだ。

 

「ごめんなさい! ごちそうさまでした! 私家のお手伝いがあるから帰ります!」

 

「…ああそうかい? お手伝いだなんて、よっちゃんはお利口さんやね~」

 

 トヨさんはホッホッホッと笑って、逃げ帰る私が見えなくなるまで手を振っていた。

 

 そう言えばトヨさんは、近頃物忘れが多かった。何度も何度も同じ話をしてくるから、3回目までは初めて聞くようにしていたけど、4回目からはどうにも耐えられなくて、

 

「トヨさんその話何度も聞いたよ!!」

 

 と、あからさまに不機嫌な顔で言ったこともあった。

 

「あら、そうだった?」

 

 ホッホッホッと、空気が抜けたような独特な笑い声をたてて、トヨさんは全く気にしていない様子だった。


 トヨさんが笑い声を立てる度、合わない入れ歯がパカパカとした。小学生の頃はそれが面白くて、『もっとやって!』と純粋に楽しくて笑ったけど、中学生にもなると、それを見るのも不愉快にしか思えなくなった。そんなふうに思ってしまう自分が、私はとても嫌いだった。

 

 でもカルピスの3杯目は、私の中で怒りどころか恐怖を感じさせた。初めて差し出すかのように持ってこられると、私はそこから逃げ出すことしか考えられなくなって、トヨさんを置き去りにした気分にさせられた。私には罪悪感だけが残された。

 

 

 

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