横浜
或る人に話したことのログ
挨拶もそこそこに、彼はなぜ自分に返信をしたのか確認した。私に送ってきたマッチングアプリのメッセージの内容から、他人に危害を加えることをよしとしない人間であると判断したためだ、と答えた。この時点ではマゾ気質のマの字も相手は出していなかったのだが、とても自己卑下をしている、もしくは、ある意味でとても身をわきまえざるを得なかった人間だと思った。
貴方がよろしければ、お話ししていただけませんか?という許可と請い、その次に重ねて暇を伺い、迷惑でしたら、との謝罪。完全に自身の位置付けを下に持ってきている表現であり、プライベートでは目立つ振る舞いだった。
私の返事に彼は「光栄なことです」と返した。話し始めて、しばらく何気ない会話を挟んだ。ビデオ通話を始めても言葉遣いの端々から伝わる、なにか私が上の立場にいるような言葉遣いに、メッセージでもそうだったけれど、あなたはとても謙ったような、私が尊いものかのように話すね、と言った。ある一定は、善良な人間である自身を深く見ずにそういった判断を早々に下すことに気分を害する。
その声に皮肉が混ざらず、むしろ皮肉が混じることを恐れているかのような音に、私は内心またか、と思った。
私は他人の、その一挙一動がなにに由来するものなのかがとても気になることがあり、聞けそうな場合にはそれとなく話を促す癖があった。
この強い興味は、その他人を形作った過去への敬意であり、私が他人を哀れみ、そしてまた見下す側の立場でいたくない抵抗でもあった。
責任を負う側でありたくない故の、ロールでありたくない故の、責任を負わざるべき人間かどうか判断するための理解。
僕は分かりやすく言うとマゾ気質です、と出会って早々にぶっちゃけた彼は、過去にあった彼の出来事を話し、あなたは、と言わずに犬と呼んでほしい、いえ、便器と呼ばれたら本望だ、と言った。私は勝手に今までの予測に確信をなぞらせた。
女を神格化することと、自分の立ち位置を下げること、そして誰かからの指示を自分の変数として格納して生きることで、過去に傷ついた自分のすべてを守ろうとしているように見受けられた。
ストックホルム症候群のように、加害者側の感情に共感し、その他者のポジションと存在と意志を肯定し、自身に反映させ、合理的に生きる選択肢を自動選択する。スマートな過剰適応。そのような印象を受けた。
——暗闇のなかで、数日が経って、時間感覚も曖昧で、不安なことばっかり勝手に考えて悩んじゃって、ようやく食事を出されたとき、僕はそれを食べることにもう好きも嫌いも、なかったんですよ。だってそうするしかないじゃないですか。合理的な選択です。好きとか嫌いが遠くにいった、それ以上でもそれ以下でもなかったんです。
自分がなぜマゾの犬となったか、という話をおおよそ聞き終えたあと、そうかもね、そうね。そう言って滑らかに話ができるように呼吸を整えて話を聞き出した。
死にはいくつか種類があって、今までの話を聞いた限り、あなたはそのうちのふたつを経験していると思う。ひとつが、精神的な死。もうひとつが、大人になってからの肉体的な死。さっき話してくれたなかの、学生時代から成人してしばらく、がそれにあたると私は思っているけど、どう?
——思い当たります。
まだあなたが経験していなくて、次に経験するものは意志の死だと思う。あなたが、ご主人様に尽くせない、もしくは、あなたが犬、もしくは便器になることが無理だと悟ったときに訪れると思うの。
確かにそう、と彼は返し、私の飼い主になってはくれませんか、きっと貴方ならできると思うんです。
そう言った彼に、では、試しにロールプレイングをしてみましょうか、と言って私は続けた。
もしも、ご主人様がこれを飲んだらお前は死ぬ、と言って青酸カリを渡してきて、次に目覚めたら真っ白なベッドと天井が見えたらどうする?
——もう一度死にます。
もしも、次に目覚めた場所がご主人様のベッドで、お前は確かにあのときに死んだんだ、と言われたら?
——そのときはご主人様を殺すと思います。
なら、次に目覚めたときに、便器のあなたは死んだから、私と人間として生きようと言われたら?
——どうなんだろう、そのときも僕はご主人様を殺して死ぬと思います。
彼は意志に生きていた。自分の意志となるまで、私はここでは或る人への敬意よりも、そうせざるを得なかった環境に増悪を示す。彼はなり果てるまで、ここまで貫いてきた。
私の言おうとしている言葉はこういった場合、明らかな毒だ。若いと踠き苦しむ劇薬で、歳を重ねていれば重ねているほど、死に直結する毒薬になる。
ただ歳を重ねていけば、逃れられない分急がずに、緩やかに、確実な死が降ってきたとき目の前にある死のシミュレートをしていた分、切迫せずに済むこともある。
あと2年で、彼はミッドライフ・クライシスの時期へと差し掛かる。そして、感覚の鋭い彼は、他よりも、より手を伸ばした先の壁の高さに絶望するだろうという確信から、もう少し毒を盛ることにした。
もしも、私が犬を飼ったら。犬をベッドの前の椅子に縛って、厚みがある透明度の高いビニールを被せる。そこに早漏のセカンドバージンの男を呼ぶ。
それでその前で、イけもしないセックスをして、イっちゃうって言いながら、ものの数分でことを終わらせる。そのあと、私はあなたを誘わない。
——きっと泣きながら、勃起していると思います。
ゴムの包装を破る音は聞こえなかった、し、していなかったかもしれない。あなたは考えるかもしれない。自分のご主人様がイケもしないのに演技をし、奉仕もさせずにセックスしている面があることと、自分との関係性において、彼女が求めていることがなんなのかを。でも、諦めるまでの時間はない。なぜなら、もうひとりの彼はセカンドバージンの早漏だから。ものの数分で、あなたが葛藤にたどり着く前に全ては終わる。
——どうするんだろう、俺は。
そのまま話を続ける。
私はもうひとりの誰かが退室してから、ビニールだけを外して、いつものようにおでこにキスをする。
それから、後ろに回り込んで、手の拘束を外して、次に足元にかがみ込む。私を抱きたいか訊ねながら、左足の拘束を解く。
——めちゃくちゃに抱きたいと思う、気持ちがぐちゃぐちゃになってて。
私は、そう、とひとことだけ言ってから、右足の拘束をそのままに、シャワー室に行く。あなたは中に出されたのか考える。掻き出しているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
——せめて上がってから、どちらか確認させていただくために、舐めさせていただきたい。
私は、確認したいと言ったあなたに対して、便器を辞めるなら舐めて、と言いながらテレビの横にあるガラス戸を開け、グラスに注いだ水を飲む。
——俺は。
そこで、あなたが答えを発せなくても、喉乾いてない?と言ってグラスを差し出す。私は空になっていないグラスを受け取り、ガラステーブルに置いて、抱きしめてから、ベットサイドに座るように促す。
私は灰皿からライターを取って煙草に火をつけて、ソファーに座る。あなたは、その日のことを飛び飛びでしか思い出せないかもしれない。
——そうだと思う。あのときのことも飛び飛びで、思い出せないから。
私は、他人と対等になるための力がなくて、遠い先にいつも絶望する。意思を全うできないまま死に続けている。あなたはどちらを取ってもいい。お互い、長い年月を重ねてきたね。
——まだどちらを取るのか分からないけど、俺はどっちを取っても幸せなのか。
そうだと思う。私は、わたしなら、どっちをとっても幸せ。いずれ皆死ぬ。遅かれ早かれ、未だにヒトは肉体から逃れられていないから。
彼はひとりでに話す。俺は、と言いながら選択肢を考えていた。朝のMTG後から通話を始めて、既におやつの時間になっていた。2人ともお腹が空いていて、それじゃあご飯を食べたら切りますか。と言って、トーストを焼いた。細胞を同じにしたいという彼に、同じ釜の飯とかいうもんね、とか、やっぱり掴むのは胃袋ですよ、とか、そんな会話をしておやすみなさい、いい夢を、と言い合って切った。
昼間に言うおやすみなさいは違和感があって、ただ割り振られたタスクを消化するだけでは刺激が足りないような気がした。サブスクライブしている映画サイトから『龍三と七人の子分たち』を選んで観た。
現代に生き続けながら、馴染めなくても取り残されて無様でも、意志を貫く様もまた美しいと思ったラストシーンだった。
人間は存在しているだけですばらしい。他人は存在しているだけでわたしの中で事足りる。充足してしまう。
ただそれを、個人として在るとき、あなた自身に向けて思ってほしいものです。
そんな関係性で夜中の海に行くな @88oki
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