二つのピッチャー

@88oki

北欧家具屋のチェリーパイ


日曜日の午後だった。1週間、惰性で回さなかった洗濯物をいよいよ回して鈍色のハンガーにかけて順に干し、最後の一枚を手に取った。

バスタオルのシワを伸ばし終えてを干し終えて後ろを振り返ると、靴下や下着などの細々とした衣類をピンチに挟んでいたはずの彼女はランジェリーネットを咥えてベランダを眺めながら寝転がっていた。


1週間分の洗濯物が下がっていてもなお、きっちり水平を保った銀のピンチハンガー。それが傾くのを嫌った彼女には多少そういう神経質なところがあった。

そして、元々僕が住んでいたこの家で、同棲を始めた当初はハンガーの種類がバラバラなことも嫌がった。


同棲を始めてから、足りない収納や生活雑貨を買いに行った北欧系の家具屋で、彼女はアルミ製のハンガーを5セット購入して、足りなかったらまた買いに来ていい?と僕に尋ねた。もちろん!と答えたものの、ハンガーなんてなんでもいいと思っていた僕は、人によって違うものだなあ、と思ったものだった。

フードコートでハッキリした色彩のカウンターチェアに座って、2人で並んで昼食を取った。家では焼けなさそうな大きさのチェリーパイが美味しかった。

彼女が選ぶ家具のパターンと、僕が良いなと思ったものの違いはよく目立った。

その分共通点を拾い上げたときは、恥ずかしいくらいにはしゃいだ、いいね!が出た。

お互いの違いを面白く感じていた。


/


自分を見下ろしている僕を見てから、口を開けてネットを手に持った。僕は彼女が何をしていたのか分からなかった。僕がベランダに出ている間のどのくらい彼女はそうしていたか考えたが、そもそもなぜ洗濯ネットを口に咥えていたのか、と聞くのもなんとなく躊躇われた。

僕はとりあえず、よくわからない状況をひと呼吸置いてやり過ごそうと室内に入ってしまうことにした。放置されたスリッパに積もった薄い埃の感触を、ジーンズの端で拭った。拭って汗ばんだ僕の足裏がいつものフローリングの感触を掴んだ。

彼女はまだ当分明るそうな空を見つめて、なにしてんの?が言い出せない僕を見ずに話し始めた。


「ママが朝早く出るときは洗濯物を干すのが私の役割だったのね」


「前にも話した、小学生の頃からママと関係していた社長さんがいたじゃない?」


「その人はゴルフが好きで、ママはなんだかその頃上昇志向に当てられて、そういうのについて回ったりしてたの」


「それで、ママとその人の関係性が一番盛り上がっていたとき、私も卓球を始めたばかりで、週末にママと一緒に近所の卓球台を貸して貰えるところに練習に行っていて」


「どっちも下手くそで楽しくて、叱られることのない時間だったから、私の中でめずらしくママと一緒にいて楽しい時間だった。必要なものだったの。練習したいというよりはママと何かしたかった」


「うん、そういうの。とても幸せな時間で、この状態がずっと続けば良いのにと思う時間でさ」


「普段は怒られないように、なるべく本を読むことで会話や行動を避けていたし、大抵夜はその人が家に来ていたから、本当にあのときの私にとってかけがえのない時間だった」


「あの頃はそうは思わなかったけどね」


「いつかの週末、その日に2回目の卓球をする約束をしていたけど、当日になってゴルフに行くって言われて洗濯物をお願いされたの」


「約束を反故にされて、珍しく暴れたくなって、玄関のチェーンロックをかけてからベットでじたばたした後、洗濯物を干した」


「二人暮らしだし、私とママの分だけだし、毎朝回していたから大した量じゃなくて、すぐ干し終えた」


「でも、なぜ私だけで洗濯物を干さなければいけないか分からなくて、私のものじゃない最たるもの、そのときはブラジャーをつけていなかったから下着が母の象徴だった」


「でも流石に下着は高そうだったから、ランェリーネットを噛むことにしたの」


「私とは違って香りや味が強いのをあまり好まない人だった。だから柔軟剤を多く入れたり、当時流行っていた香りビーズを入れることもなかった」


「普段は干していても匂いを感じなかったけれど噛むと微かに柔軟剤の匂いがした。今はもう覚えていないけれど、今でもなんとなく洗濯ネットを噛みたくなることがある」


彼女はそう言って寝返りを打ち、私に背を向けて立ち上がった。立ち上がった彼女の背中に何かを読み取ろうとした。ランジェリーネットを片手に洗面所に引っ込んだ今の彼女が何を思っているのか不安になった。


/


以前家族の話になったとき、父と母は物心つく前に離婚していた。という話を聞いた。

別のタイミングで、彼女のことを知りたいと思って、父と母のそういうシーンを見てしまったと言って会話を振った。少なからず下心があった。

そして、母と妻子ある身の人が関係しており、その行為をよく見ていたと言っていた。本人は淡々と酒のつまみにでもなればという表情で話していた。


まあ、そういうのを見てしまう家庭もあるか。そう思いつつも、内心は少しへこんでいた。きっと気持ちのいい話ではないだろうから。

父親がいない彼女の家庭で見えるものなんて想像がつくはずだった。自分で会話を振っておきながら、自分の至らなさをひとつ披露した気になって、身をつまされる思いになった。

時間は取ってくれるのに、話していて楽しいのに、肝心なところでなにかしらヘマをしていた。


あの頃の彼女にとって僕は鬱陶しい存在だっただろうか。彼女に僕のことを知ってほしくて、僕も知りたくて、僕の会話が糸口になればという思いで必死にボロを出しながら話をしていたのだろう。


/


開けっ放しにしていたガラス戸を閉めてクーラーを付けた。彼女が寝ていた場所は微かに湿っていて、不安になって足裏が汚れていないか確認した。


廊下から戻ってきた彼女は冷蔵庫からピッチャーを取り出してコップにたっぷりと麦茶を注いだ。

彼女は、お茶飲む?と言いながら、自分がひと口飲んだ麦茶を差し出した。


ありがとう、とそう答えて受け取った麦茶の冷たさが身に染みた。喉を通っていった麦茶の全てが僕の想像通りだった。流しの側に置いた後に、そのコップの、円柱の外側を伝っていくであろう汗を想像できるということ、それが僕の心を平静に引き戻した。

僕の目の前に彼女がいるということ。



彼女は、毎回冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーの口を開け、麺つゆと間違えていないか確認するために鼻を近づけて香りを嗅ぐ。

一回間違えてめんつゆを注いでしまった、と話した彼女は冷蔵庫から取り出す度にそうしている。

ラベルを貼ればいいのに、と言った僕に、彼女は茶渋で汚れていくのが嫌だから、と返した。

でも僕は、冷蔵庫を開けて中身を確認する彼女を見ていてきっとそのコントのような流れが面白いと思っているから、だから貼らないのだろうな、とそう確信している。


昨日の昼も素麺だった。

夏場は素麺が安定して高い頻度で出てくる。くるりとトングで掴んだまま巻かれた、ざるの上の素麺の列。短冊に切られたきゅうりには最初の方の濃い麺つゆがちょうど良くて、錦糸卵には少し辛い。茗荷と麺つゆが香り、唇にあたる小さくなった氷の欠片。いつもの、夏。麦茶と同じ色の麺つゆが同じ二つの容器に入っているということ。

同じ容器に、似たような色合いの、けれども全く別の液体が入っていることを許容できる感覚のまま、彼女は生きているんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二つのピッチャー @88oki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る