第1章 一年一学期
第1話 出会いはタマゴの特売日
サトシは父親の逆鱗に触れて家を出ていた。
サトシの親族は、医者や弁護士などのエリートぞろいの一族だった。
そんな中でサトシは、佐藤家の長男でありながら異分子のような存在だった。
(とりあえず、大学にいるうちに教員免許だけとっておけばいいか)
何も考えず、流されるままに公立高校教師の道を順調に進んでいた。
教師を目指していたわけではなく、なんとなく教師になったサトシは、学校という現場で忙殺された。
夢も希望もない生活に、心まで折れてしまった。
(このままでは精神的に病んでしまう)
サトシは大人になってからやっと反抗期を迎え、公立高校の教員を突然辞めた。
「こらえ性のない奴め。お前は一族の恥さらしだ。出て行け!」
言われなくても、出て行くつもりだった。
小さな一軒家を借りて自炊しながら、自分の人生をやり直したかった。
サトシにとって、人様より遅い自立の第一歩だった。
先日出演した動画の視聴回数がとても伸びていると、友達から連絡があった。
一度は辞めたくせに、教師に向いているなどとおだてられ、サトシはすっかりその気になってしまった。
その時の話に出て来た、工藤という友人が勤めている女子校の採用試験を受けてみようかなと思い始めていた。
実家を出て自炊を始めたサトシは、近所のスーパーマーケットに買い物に来ていた。
現在、無職のサトシにとって、1円でも安い食材の調達は最重要課題だった。
スーパーのチラシの内容はしっかり把握してある。
この日は卵の特売日。
Mサイズがなんと198円だ。
ワンパックが200円を切っているという、大特価セールだった。
(いつかは職に就くのだから。今後の事を考えて、今のうちに食料品を買いだめしておくか)
サトシは卵売り場まで迷わずに真っすぐ、足早に進んだ。
(あった! 間に合った。最後のワンパックが棚に残っている。今日は運がいいぞ)
サトシは手を伸ばして、ラストのワンパックをつかんだ。
と、同時にもう一人誰かの手が伸びてきて、サトシの手と触れ合った。
タッチの差だったが、サトシの方が早くタマゴのパックをつかんでいた。
手が触れ合った人は、慌てて手を引っ込めた。
「すみません」
若い女性の声だった。
声の主を見ると、そこには高校生ぐらいの女の子が、申し訳なさそうに立っていた。
いまどきの女子高生らしく、ナチュラルなストレートヘアーの前髪をピンクのヘアピンで留めて、色付きのリップクリームを塗った可愛い子だった。
きっと彼女も特売のチラシを見て、スーパーにタマゴを狙って来たのだろう。
彼女の買い物かごには、買い物した商品がいっぱい入っていた。
(高校生が一人で食料品を買っているなんて、家庭に事情でもあるのか。
このくらいの年ごろなら、遊びまわっている子もいるというのに。しかも、こんなに買い込んでどうやって持って帰るつもりなんだろう)
すると、女子高生はその場でサトシに背を向けて、携帯電話で通話し始めた。
「ごめーん、お弁当に玉子焼き入れるっていう約束だったけどぉー、アキラとの約束を守れそうにないわ。……何をわからないことを言っているのよ。そんなに駄々こねないでよ。ちゃんと別の美味しいおかずを作ってあげるから。玉子焼き以外に何がいい?」
そんな会話を目の前で聞かされ、卵を取ったサトシはまるで極悪人にされたような気分になった。
(その電話だって、本当に電話しているかどうか……嘘かもしれない。アキラって、彼氏かな? 彼氏のお弁当を作ってあげている女子高生ってところか。こういうリア充は、この世に必要ない。
とはいうものの、このまま立ち去るのも冷酷かな。たかがタマゴにこだわる俺も大人げないしな)
サトシは、女子高生の背中に向かって声をかけた。
「あの、すみません。ちょっといいですか?」
話しかけ方が、まるで宗教の勧誘だ。
サトシは内心失敗したと思った。
危惧した通り、女子高生は振り返ってはくれたが、まるで怪しい人物を見るような目でサトシを見た。
「なんでしょうか」
「タマゴ、よかったらどうぞ。うちは無くても大丈夫ですから。これで、お相手の方に玉子焼きを作ってあげてください」
「いいえ、そんな! 気にしないでください。おじさんの方が早かったのだから、おじさんのタマゴで当然です」
「いいえ、いいえ、どうぞ」
女子高生が言った「おじさん」という言葉に、サトシは軽く傷ついていた。
(おじさんか……やはり、そうだよな。俺はおじさんの部類に入ったんだよなぁ)
サトシが無理やり差し出したタマゴを、女子高生は「すみません」と言いながら素直に受け取った。
女子高生もまとめ買いしていたのか、既に買い物かごはいっぱいになっていて、これ以上かごの中に卵を置くには危険な状態だった。
タマゴを入れるために、安全な空間を作ろうとしたのだろうか。
女子高生は、上の商品を少しずつずらしながら、かごの下の方になんとかタマゴを入れた。
「どうもありがとうございました!」
礼儀正しくお礼を述べて、女子高生はレジの方へと歩いて行った。
その時だった。
女子高生の買い物かごからあふれ出た商品が、一個だけポロンと床に落ちた。
彼女は落としたことに気が付かずに、レジへと向かって歩いた。
サトシは、急いでその落とし物を拾って、女の子を追いかけた。
「あのぅ、落としましたよ!」
サトシが拾った物。それは生理用ナプキンだった。
声をかけられた女子高生は振り向き、落とした物を見ると顔を真っ赤にした。
そして、それをサトシから奪い取ると逃げるようにレジへと走って行った。
(年頃の女の子に悪い事したかな。だが、無ければ困る物だろう)
姉がいる家庭で育ったサトシにとって、生理用ナプキンは見慣れた日用品だった。
だから何も考えずに、普通にアレを拾って女の子を追いかけてしまったのだ。
サトシは深く反省した。
(やっちまったかな。キモいおじさんだと思われたかもしれない)
もちろん誤解なのだが。
(生理用ナプキンを持って追いかけるおじさんなんて、どう見てもキモい確定だろ)
友人に高校教師をしていると言うと、決まって言われることがある。
「いいな〜、毎日女子高生がいる生活。羨ましいなぁ」
自分も高校では働けば、女子高生にモテるかもしれないと幻想を抱いている友人のなんと多いことか。
ズバリ、若ければどんな男性でも人気者にはなれる。ただし、女子校。
サトシは共学校しか経験したことがなかったが、それでも女子高生の手強さはよく知っていた。
女子高生を舐めてはいけない!
彼女たちのセンサーは鋭い!
もしも、「キモいおじさん」というレッテルを貼られてしまったら、もう一生剥がれることはない。
もし、あの女子高生が自分が受験しようとしている学校の生徒だったら……
サトシは、それだけは避けたいと思った。
(あの女子高生と、もう二度と会うことがありませんように)
サトシは、大きくため息をしながら、3割引きのシールが付いたお惣菜を買い物かごに入れた。
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