僕の半生

緋髄こしあ

前編

 小学生から高校生の間、僕は両親を殺したいぐらい憎んでいた。

 激怒している母親の説教をうつむいて静かに聞き流しながら、視界の端に映る鈍器を後頭部に振り下ろしたかったし、はさみで首筋を切り裂いてやりたかった。


 5歳のとき、友達の家に遊びに行った。そこで友達の親子関係を見聞きした。

 死にたくなった。


 親に意見しても怒られない、文句を言っても許してくれる、許可を取らなくても自由に行動できる。

でも自分の親は?


 5歳から29歳ぐらいまでずっと続いた自殺衝動との戦いの始まりだった。


 今は言語化できているが、実際あの時はなんか変な衝動が湧き上がってきたと思って、無性に爪を噛みたくなった。

 自分の体を傷つけたくてたまらなくなった。


 自殺衝動を止めるために僕は自分の体を傷つけるようになった。

 自傷すればアドレナリンが出て一時的に楽になったからだ。

 でも当然、ずっとやれば耐性ができてどんどんエスカレートする。

 心が早く死ねと言うのに、僕は死にたくなかった。


 最初は爪ぐらいだったのに、じきに鋭くとがったものを使って腕に傷を付け、みみず腫れを作って遊んだ。

 なにせ脳内麻薬が常に出ていたような状態だったから、はた目から見ればそうとうおかしな奴だったと思う。


 普段は常に怒っているような人でも、こちらが風邪を引いている時だけは優しくなったりする。

 自分の親と他人の親には差異こそあったが、そのときはまだ、自傷を繰り返せば親が僕のやっていることを心配してくれるんじゃないか、優しく接してくれるんじゃないかという打算があった。

 甘かった。


 ある日、僕は普通に小学校から帰ってきたら親が烈火のごとく怒っている状態だった。

 日々怒られてはいたが、今回のは最悪で、午後四時過ぎから夜の十一時過ぎまでずっと怒られた。


 ほぼ毎日一回は怒られていたが、通常は一、二時間ぐらいで終わっている。


 朝登校したときは普通だったのに、いきなりそれだったから、落差で驚いた。

 学校の先生が親に連絡を取り、他人の甘言と世間体を何よりも大事にする両親は、それで激怒していたのだ。


 原因は僕の腕のみみず腫れ。

 そこで決心したのだ、自傷は決してバレてはいけないと。


 死にたい欲求、衝動は溜まる。どこかで発散しないとならなかった。

 我慢することはしなかった。それで収まるような状況でもなかった。


 両親は監視体制を強めた。

 僕の行うすべての行動にあらゆる許可が必要になった。

 それ以前の生活はよく覚えていないが、さすがに水道水を使ってもいいか、外出してもいいか、ものを食べてもいいかを尋ねるようなレベルではなかったと思う。


 僕が自分の判断で好きなことをしようとすると、勝手なことをするなと怒る。

 しかし親の機嫌が悪い時に許可を取ろうとすると、自分で考えろ、と言う。

 昔からこの傾向はあったが、ここまでひどくはなかった。


 でも家で本を読んでいるときだけは、二回に一回ぐらいの頻度でそっとしておいてくれた。

 というか自分が、本を読む間だけ周囲の音が聞こえないようになった。

 今も同じ状況で、文字を読んでいる間は周囲の音が一切耳に入らない。記憶にも一切残らず、何の音が鳴っていたのか、どういう話をしていたのかはその部分だけ空白になる。

 読書中だけは静かに生活できたのだ。


 その読書中に、僕はヒントをもらった。

 とある有名小説の二巻に、自分への罰として自傷をするキャラクターがいた。

 自分が悪い、自分が悪いと叫んで頭をガンガン打ち付けていた。

 これだ、と思った。


 試しに、比較的やわらかいであろう木製タンスに頭をたたきつけた。

 があんとなって火花が散る。溜まった衝動がすっと消えるのを感じた。

 いける。


 溜まった衝動はひどくゆっくり抜ける。我慢していてもゆっくり休めばじきに消えるが、当時はゆっくり休む隙間など無かった。

 自傷はそれをすーっと抜いてくれるのだ。


 小学校時代の僕はそれが何かもわからないまま、自傷するといやな感じが無くなるからやっているだけだった。

 でも僕は、答えをくれた小説から、それが悪いことだと思った。

 自分への罰としてやっていたわけじゃないのに、いつしか自分が悪い奴で、自傷は罰だと思った。


 だから両親が怒ったのだ、と思った。

 両親が説教するときもそういう風に、僕が悪いから注意してやっているんだと言う。

 自分が悪い。


 親が何か失敗したら僕が悪い。親の手伝いをしなかったから僕が悪い。親の持ち物が無くなったから僕が悪い。

 できないのは努力が足らないからだし、片づけをしてもしなくても物が散らかるのは僕のせいだし、親がいらいらするのは僕が悪いからだ。


 忘れ物が多くなって、他人が怖くて顔をびくびくしながら見るようになり、自分は生きる価値が無いと思いながら、他人と少しでも違うところがあるとその部分がみっともなくて恥ずかしくなった。

 それと同じぐらいに、親が怖くて憎くてしょうがなくなった。

 親が嫌いで憎くて殺したくて、でもそれがバレれば自分が殺される、山奥に捨てられる、警察に通報されて逮捕されてしまう、と思った。


 だから、親を尊敬しているフリをしたし、親のことが大好きだと言ったし、仲のいいフリをしたし、あらゆる要求に従順になった。

 どんな理不尽を経験しても、僕が悪いから親は悪くない、と思うようになれたし、親がすべて正しくて僕は間違っていると思った。


 自傷はどんどんエスカレートしていった。

 常に脳内麻薬が蔓延しているからか、寝れなくなって体調が悪くなった。

 一週間に一回は軽めの風邪を引き、数日に一回は下痢になり、運動をしたところで体はいつまでたっても温まらない。

 このとき、平熱は34度。

 常に体全体が冷えて凍えている状態だった。


 一回頭を打ち付けるだけでは衝動が抜けなくなって、何度も何度もガンガンと打ち付けた。

 周囲に適当な壁が無かったときは掌底で側頭部を何度も殴り付ける。


 ちなみに、この一連の行為は親にバレたことは一度も無かった。

 おかしいな、とは思っていたかもしれないが。

 そういうとこだぞ。


 衝動が発生していると死にたくなるから早く死ななきゃと思う。

 死ね、死ねと自分を罵倒しながら、死ねないのは僕が悪い奴だからだと絶望していた。


 いつしか僕は、自殺衝動を抑えて生き延びるための行為で、自分を殺してしまえればいいと思うようになった。

 自分が感じているこの衝動は、全部自分が悪いから起きているのだ、と思い込んだ。


 そして、僕は親が心の底から大好きになった。

 親のことを尊敬して、親の要求にはすべて従おうとしたし、親こそが最優先で尊重されるべきで、親の考えることは僕よりもはるかに正しかった。

 僕は間違っていて、親を困らせる悪い奴で、親の注意に従えない恥ずかしい奴だった。

 そんなわけあるか。


 ところで、ストックホルム症候群って知ってる?

 日常的に命の危機を感じていると加害者側を心の底から好きになってしまう、心の防衛本能なんだけど。


 いつしか、親のことは好きだけど嫌いで、愛しているのに憎いし、いつまでもいっしょにいたいのに早く死ね、と思うようになっていった。

 その状態で二十歳を過ぎて、僕は父親の仕事を手伝うようになった。

 単純肉体労働で、繁忙期は夏と年末年始。


 そこで年末に一か月間休みなく働いたら、体を壊して入院した。

 病名は忘れたが、内臓のどこかが疲れ切ってしまったようで、点滴しながら休んでいれば治る、と言われた。

 この忙しい時期に仕事を休んで申し訳なかったけど、ようやく休めてよかったとも思った。


 ずっと働き通しで、他の先輩方は休んでいるのになぜ僕だけ働かされていたのか分からなかった。


 父親は、言えば休んで良かった、という。

 僕はそうすればよかったのか! と目からうろこが落ちて、でもすぐに、それは嘘だ、この人が約束を守るわけがない、とも思いなおして、ん? となった。


 なんで自分は父親が約束を守らないと思っているんだ?

 そこで、尋ねてみたのだ。

 いつごろなら休ませてもらえるのか、と。

 絶対に休みなどもらえないし、その日になったらなんだかんだ理由を付けて仕事をさせられるに違いないと疑いながら。


 休みはもらえたし、その日だけでなくたびたび休みをくれた。


 そのうち、会社をたたむことになって寂しそうな父を見て、疑問を感じた。

 自分はなぜ、この人を信じられないのか。

 こんなに大好きで尊敬していて、愛していて、ずっと元気でいてほしいのに、どうして僕は父を信用できないんだろう?


 二十代半ば、僕は子供のころの憎悪と殺意を覚えていなかった。


 そして、父は肺がんになって、約一年の闘病生活の後、苦しみぬいて死んだ。

 葬儀のとき、これから骨と灰になろうとしている父の棺桶を見た。何も感じなかった。

 母は号泣しており、行かないで、行かないでと泣き叫んでいた。


 唐突に笑いが込み上げた。

 いい気味だ、ざまあみろ。

 肩が揺れるほど、本当におかしくてしょうがなかった。


 そして火葬に入る直前、とある人が言った、これからあの方は天国で笑って幸せに暮らすのだ、という言葉を聞き、またも唐突に思い至った。

 これで終わり?

 許さない、もっと苦しめ、もっともっと苦しんで死ね!

 死んで逃げるなんて、許さない、と。


 母親の無様な姿への愉快さは消え去り、今度は壮絶な怒りと憎悪で息が詰まる。歯を食いしばり、こぶしを握り締めた。

 怒りはしばらく持続し、骨を壺に収めるのときも怒っていたように思うが、しかし、涙をぼろぼろとこぼしている母親が笑えてしょうがなくて、いつしか怒りは消えた。

 父親の骨壺と遺影と、位牌を家に持って帰って神棚に収めて、終わり。


 僕は子供のころの、憎悪と殺意を思い出した。

 けれど、それは風化していて、単なる記録になり果てていた。


 一年間、父の死を悼んだ。

 当然のように、大好きだった父を大好きな母と二人で悲しんだ。

 そのうち、母が不思議なことを言うようになった。


 夕方になるとそこの木の表面を見たこともない虫が這うよ、そこに虎のように大きい猫が潜んでいる、住宅街で花火大会ってできるもんなんだねえ、パンダがいる、あそこの家で結婚式を挙げたんだよ、きれいな青いウェディングドレスでさ、きれいだったなあ、不審者が家の中に入ってきた、でもどこにもいないんだ、どこから出て行ったんだろう、医者? いいよ大丈夫だよ、なんともないよ。


 母親は認知症になった。

 幻覚が見え、幻聴が聞こえるようになるレビー小体型認知症。

 母にははっきり見えて聞こえる幻は、他の人には見えも聞こえもしない。


 皮肉なことに、認知症になってから母親はおとなしくなった。

 ほぼ毎日続いていた数時間の愚痴と説教は、認知症になってから数日に一回、ひどくきついのが来るだけになった。

 でも耐え切れた。

 母親のことは誰よりも大事だったし、認知症が治らなくても大好きな家族であることは変わらなかったからだ。


 そのころの僕は、ちょうどブラック企業をうつ病で乗り越えられなくなってやめようと考えていた。

 ほぼ毎日やってくる絶望と希死念慮に対処することに疲れ切っていても、躁状態が来れば誰よりも働けた。


 幼いころから感じていた自殺衝動は、おそらく実際には希死念慮という状態で、特に理由もなく漠然と死を願っている状態だそうだ。

 それを止めるために自傷行為を行ってアドレナリンで対処しようとしていたが、このころは頭をコンクリートの壁に十数回打ち付けても衝動は収まらず、自傷はついに行きつくところまで行こうとしていた。


 こういう自傷行為はエスカレートしきったら、効果を失うのだ。

 そしてもっと過激な方法に手を出そうとしたところで、ふと気づいた。


 このままだと死ぬな。

 死にたくないな。

 じゃあやめようか、仕事。

 よし、やめよう!


 実際はもっといろいろ細々した理由はあったけれど、母親の認知症を理由にして職場をやめた。

 そして救いを求めて、半分は自分の不思議な体験を解明したくて、オカルトやスピリチュアル、占いに手を出し始めた。


 詳しく調べる中で、奇妙な共通点も見つけた。

 自身の親の特徴とパワハラ上司の特徴がそっくりそのまま同じ、ということだ。


 自己中心的、完璧主義、根性論、他責思考、他力本願、視野狭窄、言ってることがコロコロ変わるなどがパワハラ上司の特徴で、そこに極端な過保護と極端な過干渉がスパイスでくわえられたのが自分の親のようだった。

 自分の親はパワハラ上司だった、と考えるのがしっくり来ていた。


 このころの母親は幻へ何の対処もできない僕に呆れ、顔を合わせれば怒った。

 親の愚痴や説教は認知症によって延々とループし、三時間以上の間、親は常に新鮮な悪感情を僕に押し付けてこれたが、僕は疲れ切っていた。

 親がこちらをにらみ、愚痴や説教を話しだすと、わずか数分で僕の全身がまるで鉛になったかのように重くなり、どんどん空気が薄くなって呼吸は困難に、立っていることすらままならなくなって座り込み、座っていることすら困難になって倒れこんでしまうようになった。そうすると親は怒り、そうなってしまうのはお前が悪いからだと騒ぎ、気が済むまでなじると用を言いつけて去る。


 全身の力を振り絞って僕は安全な場所に這ってたどり着くと、十数分間横になって体を休める。するとだんだんと活力が戻ってきてゆっくり動けるようになる。

 不思議なほど疲れ切っている心と体は、一時間もたてばさっきの疲れなど忘れたように元気いっぱいになるのだ。


 すでに限界だったと思う。

 早急に何らかの対処をしなければ親の怒りで殺されそうだった。


 救いが欲しかった。

 それかもう死んでしまいたかった。

 ここまで耐えてきたけどもう無理だと思った。


 あるとき、とある毒親系の情報でこんなものがあった。親のことを、まず許せ、と。

 はっとした。

 子供のころの憎悪と殺意、苦しかったころの自分を思い出した。


 僕はそういう情報に触れる中で、親を許そうと思った。

 昔の風化した憎悪と殺意は捨てて、許してしまえば親への悪感情がすべてなくなって、親の愚痴や説教も喜んで受け入れられるようになるはずだ、と。


 だから、親を許してしまおう。

 そうすればこの苦しみも無くなるはずだ。

 この期に及んでも、まだ僕は母親を愛していた。心の底から、大事な家族として接したかった。


 親に誠心誠意謝れば、きっとわかってくれるはずだ。

 僕が悪いけど、でも、親なんだから、僕を家族として許してくれるはずだ、と。


 説教中に実行した。

 ごめんなさい、許してください、僕が悪かったです、僕もお母さんに悪感情を持ちましたが、けれど、全部許します、だからお母さんも許してください。

 ずっと謝った。謝罪した。そのうち、母親の気分がよくなってきたのか、ふーんまあ、そんなに言われたんじゃねえ、まあこれから気を付ければいいよ、と言ったのだ。にやにやと、悦に入ったように笑いながら。


 僕は親を許した。つらく苦しいことをされたけど、でも許したんだ。

 達成感でいっぱいになったとき。

 直後、親はとてもいやなことをした。


 ペットとして飼っていた猫が母親にすり寄ったとき、その子をにやにや笑いながら蹴り飛ばして、これがしつけだ、と言った。

 その光景を呆然と見ながら、自分の心が嫌悪と怒りでいっぱいになった。

 なんで? と思いつつ、あの子がされたのは、自分がされたことだ、と思った。

 こいつが嫌いだ、と気づいた。


 子供のころの憎悪と殺意が実感を伴う形で蘇る。

 こいつが憎い、殺してやりたい、でも好きだ、愛している。


 嫌いだ、憎い、死ね、殺す。

 愛してる、大事にしたい、治らなくてもいいから穏やかに過ごしてほしい、許したい。

 心が二つに分かれてしまったかのようだった。


 一年ほどしばらくその状態に苦しんだが、親の愚痴と説教はわざわざ受け止めずに適当な理由を付けて回避できるようになった。親の説教が始まったら適当な用事があると言って逃げ出せるようになったのだ。

 望んでいた状態とは異なるが、それでも多少は楽になった。


 母親の愚痴や説教をうまくかわせるようになっても、僕は親のことが好きだった。ずっと好きだった、はずだ。そのはずだ、けれど昔から、親の行動は変わっていなかったはずなのに、どうして自分はこんなに親を愛せるのだろうか。

 子供のころはあんなに嫌いだったのに、いつこんな風になったんだろう。


 まさか、ストックホルム症候群? でも、自分で判別がつかないなんて、ありえないだろう。

 だが、ストックホルム症候群は自分じゃわからないものだった。

 それに気づいたのは、両親への愛情がすり減って、完全になくなったとき。母親が亡くなってから訪れた父親の命日の前日だった。つまり、数日前だ。


 今は当時感じていた自分の不自然な家族愛が、心の防衛本能によって作り上げられたものだと知っている。

 だが、当時はストックホルム症候群というものは知っていても、自分がそれだったとはまったくわからなかった。

 たしかに、長期間の命の危険は感じていたが、そんなに極限状態じゃない、とも思っていた。


 ストックホルム症候群は、心の底から加害者を好きになって愛することで、自分は危険じゃないですよ、と相手に勘違いさせるための防衛機構らしい。

 たしかに当時はそうだった。心の底から家族愛を感じ、自分たちより仲のいい親子関係なんて無いとすら思っていた。


 ある日突然、母親への怒りがあふれて止まらなくなった。


 過去からもたらされたすべての怒りが母親にぶちまけられる。

 一年間ほどずーっと怒って、怒って、怒って、怒って、怒った。顔を合わせれば怒り、声を聞けば怒り、足音を聞けば怒った。ただ、暴力だけは振るえなかった。殴ったら痛いだろうな、と思ったら怒りに満ちていてもそれだけはできなかった。母親は容赦なく殴ってきたけど。

 そしてその状態でも、母親のことは大切で、愛していて、本気で心配し、心の安寧を祈った。


 そうしてすべての怒りをぶちまけた後、ようやく、母親を改めて許せた。

 もはや母親は自分にとっては他人に等しかった。

 同じ家に同居している、近所のボケばあさんぐらいの温度感だった。

 怒りとともに、母親を大事に思う心もすべて抜け落ちたかのようだった。


 よく、愛と憎しみは表裏一体と言う。愛の反対は無関心、ともいわれる。

 まったくその通りで、母親への怒りをすべて発散しきって、怒りが抜け落ちた後には、母親はただ単なる生物学上の母でしかなく、家族としては無関心で、他人ぐらいには大事だった。


 そして、そうなって良かったのだと思う。


 ただ、困ったことに、怒りをすべて無くす前、まだ母親が家族として大事だったころにデイサービスを頼んでいて、これからその世話をしなければならなくなってしまっていた。

 もはや母親は自分の内側では他人に等しいが、まあ、世間的にはまだ母親だろう。


 しぶしぶまだ一週間に一回だけのデイサービスを始めたが、めちゃくちゃ大変だった。時間的には数か月ぐらいだったけど、母親がまったく協力的じゃないし、僕側の負担も大きかったしで。

 細かい内容は端折るけど。


 父の闘病生活は一年と短かったが、母親の闘病生活は七年と長く続いた。


 2024年の夏、とても暑かった日、締め切った部屋で熱中症と合併症で死亡。

 窓を開ければ風も吹いて涼しかったろうが、母親は幻覚によって窓を開けることを心底恐れていた。家のどこかから不審者が入り込んできている、という幻が恐ろしくてしょうがなかったらしい。一時期は家のすべての窓や扉を釘や分厚いガムテープでふさいでしまおうとしていた。不便だったし、中を確認したくてもすぐできなかったからやめたけど。


 部屋に転がっている母親を見ても、僕は落ち着いていた。

 来る日が来ただけだった。


 一応、万が一に備えて救急車を呼んだが、やはり死んでいた。救急側が警察に連絡してくれた。

 僕は親戚とデイサービスの人に連絡し、到着を待った。

 親が死んでも悲しくなかったし、親戚が動揺しているのを見ると不思議に思えた。


 そういう態度が良くなかったのだろうか、僕は少し、警察の態度が不自然に思えた。疑っているようだった。親と仲が悪いということを説明したのだが、最後の方まで疑っているような態度を取られた。でも、当然だと思う。僕は落ち着き払っていて、動揺もなく、母親は不自然な状態で死んでいる。

 長く世話をした親を殺した、とか疑われてそうだな、と思った。口には出さなかったが、最近は介護疲れで配偶者や親を殺してしまう事件も多いし。

 死体は解剖され、何事もなく死亡診断書が書かれ、葬儀が成立した。


 客観的にみると、ミステリー小説の導入のようだが、事実として、僕は親と仲がすごく悪かった。殺してしまうのを直前に思いとどまり続けただけだ。殺人事件に発展する前に、親は長くないと自分を慰めながら数年耐え続けただけなのだ。

 ん? なんか、本当に殺人事件になる寸前だったのでは? 今気づく衝撃の新事実。


 殺人事件には愛憎が必要だろうが、それはもうなくなっちゃったから。


 さて、葬儀が終わって二か月ぐらい、僕は何にもできずにぐでーっとしていた。

 人生の大半をささげようとしていた介護へのモチベーションが消え、何をしていいのかもわからなくなり、何をするにもやる気が起きなくなって、気づけば食事は二日に一回。やることが分からなくなって、暇だから自殺しようかと本気で悩んだ。


 そして唐突に思い至った。

 今、自殺したら、母親が死んだからそれを苦にして、とかなんとか難癖付けられると。

 今、自殺したら、やっぱり母親が亡くなって悲しかったのね、とか邪推されるぞ、と。


 ふざけるな。

 あれだけ発散した母への怒りが再び沸き上がった。

 あんな奴のために死ぬわけないだろうが!


 生きなければならない。

 少なくとも、今は死ねない。


 生きなければならなくなったけど、それでもやる気を出すには二週間以上はかかった。

 そして、最後の疑問も解消したかった。


 疑問、なぜ僕は父親も憎かったのか? 父の葬儀のときのあの怒りはなんだったのか? なぜ父親への信用が無かったのか?


 そう、僕はいまだに父親を家族として愛していた。

 大好きだったはずなのに、父親は自分の唯一の味方だったはずなのに、どうして父への憎悪があったのか。

 それがどうしてもわからなかった。


 考えるべきは僕の記憶と母の父への態度。

 自分の目から見える客観的事実のみを考察する。


 母は父が好きだった。お見合いで結婚した二人は、互いを家族として信頼し、めったにケンカしているところは見なかった。

 母親がいらいらしているときは、息子である僕に対して怒りを発散していた。

 不満なども僕に愚痴ったり怒ったりいびったりですっきりしていた。


 そう、母親のストレスは父には向かわなかったのだ。

 そして、父は母親が僕に怒っていても我関せずで黙り込み、見て見ぬふりでやり過ごした。

 父が母に、僕への態度を改めろ、と言っている場面は一切見たことがなかった。

 夫婦仲は常に円満だったのだ。


 それは、両親が怒っているときはコンビネーション説教をしてきたことからもわかる。

 母親主導で僕が悪いと言われ続けたときも、父親は母親を一切否定せず、無言のままに肯定して僕をにらみつけた。

 父親が母親へ苦言を呈したところを見たことが無い。


 けれど、父は僕の味方だった。そういう風に思っていた。

 では、具体的にいつ味方されたのか? わからない、覚えていない。

 そんなわけあるか? 本当に覚えていない。母親の説教には便乗して責められるか、無関心を貫いているかの姿しか見ていない。


 じゃあ、本当は父親は母親の味方だったのでは?


 そんなわけない! と声が出た。

 でも、そんな、ああ、どうして、なぜ。

 過呼吸になってしまったので必死に抑えた。過呼吸になったときは口を抑えて空気の流入量を少なくしてやればいい。じきに治まる。

 涙も出た。


 これが真実だった。

 昔から、父親は何もしない人だとわかっていたのに、僕の味方だと思っていたなんて、そんな馬鹿なことあるか?

 そこで連想されたのが、ストックホルム症候群だった。


 詳しく調べてみると、ストックホルム症候群の最中にある人は自分の気持ちが防衛本能によるものだとわからないらしい。

 僕も分からなかった。

 家族愛が双方にあるものだと、心の底から信じていた。


 今ならわかる。

 家族愛などなかった。

 家族の絆など無く、家族は僕の敵だった。

 あの家に、僕の味方はいなかったんだ!


 涙が出るほどうれしかった。

 疑問は氷解し、僕の憎悪と殺意にも報いが与えられた。

 あなたたちが僕の敵でいてくれて、こんなにもうれしい。

 ありがとう。






 いくつかの事項における補足説明。


・5歳で死にたくなったのはなぜ?

 わかんないです。覚えてないので。おぼろげな記憶と主観的事実によってこの物語は描かれています。客観的視点は後編で書きます。


・子供時代短くない?

 細かいことは覚えてないんです。思い出したくもない。いくつかあるトラウマエピソードを後で書くのでそれで満足してください。


・平熱34度っておかしくない?

 今は36.5度が平熱ですが、当時はそれぐらい低かったんです。なので病院に行くと必ず、この子は34度が平熱なので、36度は熱が2度もあるんです、という母親の説明がありました。

 父親の持論で、肉を食べるのは健康に悪いから野菜を食べろ、というのがあって、肉をほとんど食べられなかったのも原因の一つかな、と思います。父親はお刺身が嫌いで、母と自分はお刺身が好きだったので、生魚の切り身ぐらいは週一で食べられました。


・葬儀で笑ったんですか?

 必死で隠しました。涙を必死にこらえているような様子に見えていればいいなあと思ってます。

 身バレするとこの行動もバレちゃうので、親戚一同には温情を期待したいです。


・自傷行為に関して。

 29歳ぐらいでいったん終息。

 それからはどうしても我慢できないときに側頭部を何回か殴りつけることになりました。これは対処療法なのでどんどん耐性が付いて、効かなくなる時が必ずやってきます。

 ドラマとかでよくやってるリストカットなどでの自殺行為はエスカレートしきった結果としてああなってるのだと思います。効かないからもっと過激になって、結局自殺のような形になってしまいますが、元は脳内麻薬の力で生き残るためにやるものだということをお忘れなく。


・不思議な体験について。

 昔から変なことがよく起こっていました。今ももちろん起こってます。この半生にはほぼ関係ないので全カットしました。


・毒親はパワハラ上司?

 個人の主観です。インターネットでパワハラ上司の特徴などを検索すると、自分の母親の状態にすごく近かったんです。元は職場の先輩および上司の行動に既視感を感じて、何に似ているのかを突き詰めて考えたら、これ母親じゃあん、ってなったので一応言っておくことにしました。

 四字熟語はすべて、「パワハラ上司 特徴」で検索したときに出てきたものをコピーしました。使いやすかったので。


・あなたの精神的な病気は治ったんですか?

 わかんないです。なにせストックホルム症候群を自覚したのは数日前なので。後で行きたくなったら病院行きます。

 うつ病に関してもわかんないです。なにせ当時は病院に行ける状態のときは躁状態で頭ハッピーなときしかなかったので。鬱状態はほぼ常に希死念慮で動けなかったため行けませんでした。後、たぶん当時に病院行ってたら、母親に全部白状しちゃいそうだったので、行くに行けませんでした。


・この質問は誰が考えてるの?

 僕です。説明不足だろうな、と思ってやってます。


・最後唐突じゃない?

 数日前のことだから情報が少ないのと、後編の客観的視点による補足が無いとわかりにくいです。


・なんで感謝してるの?

 感謝は二つの理由で紐解かれます。

 一つ目。僕の持っていた憎悪と殺意は果たして正しいことだったのか? という自らへの猜疑心が解消されたことによるものです。両親は本当にこんなに恨まれる価値があったのかを僕自身疑い続けていたんですが、それは父親が自身の味方であったなら、という前提のもとに生まれた疑義です。父親は僕の敵に等しく、僕の憎悪と殺意は正しかった、という結論に達しました。文字通り、憎悪と殺意に報いが与えられたのです。

 二つ目。両親への関心が他人と同レベルになることにより、過去の行為をすんなりと許すことができたことによるものです。文字通り他人事になりました。どうでもいい人にはいつまでも感情を保てませんよね。

 これ入れると冗長になると思ってカットしましたが、分かりにくかったとは思います。


・長いよね?

 だからツイ……Xに投稿できませんでした。

 なんでアカウント消しにかこつけてやってるのに、投稿数が増えるんだと思いました。


・親はどうしてストレスを溜めていたのか。

 後編で説明します。これから書きます。





 前編のあとがき。


 最初は元ツイッターことXで書き始めました。

 ストックホルム症候群による認知のゆがみが無くなってテンション上がってこれを始めて、今後悔しています。

 途中で面倒になってやめたくなったし、こんな量書いても誰もこんな暗い半生見たくもないだろうし、ツイ……Xのアカウント消す予定だしでなんかもう投稿したくなくなってしまいました。

 もうやる、って言っちゃった後だし、やるか、と思ったけど、詳しく書こうとするととんでもない量になっちゃったからどうしようと悩んで、結局カクヨムに投稿することになりました。

 書いてる途中で、これ絶対中二病抜けきって無い人だよ、って思って、なんか……今年35歳のおじさんが何書いてるんだようって情けなくなったりしました。


 これでも前編。

 後編で、主に母親がなんであんなに追い詰められていたのかを説明します。

 それから、短編のような形で自分のトラウマエピソードを書きます。


 身バレこわいなあ。

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