「北で待っている」



アイシャは、ヌアインの手が自分の髪を撫でる感触に、微かな陶酔を覚えた。その手からは、かつて触れたことのないほどの優しさと温もりが伝わり、まるで全てを包み込むような慈しみの念が流れ込んでくるようだった。


「…ヌアイン、あなたって不思議な人ね。吸血鬼にこんなふうに触れてくれるなんて…」


アイシャは小声でつぶやき、ほんの少し頬を赤らめた。これまで生きてきた長い時の中で、彼女に優しく触れる者など誰もいなかった。ヴァンパイアの本性を恐れ、忌避されることが常だったからだ。けれど、ヌアインは違う。まるで、彼女が何者であるかなど意に介さず、ただ一人の人として接しているようにさえ思えた。


「…そうだな、アイシャ。どんな者でも、君も、この世界に存在する一つの命だからな」


ヌアインは穏やかに言い、柔らかな笑みを浮かべて見せた。その言葉は、アイシャの心に深く染みわたるようだった。彼の言葉と眼差しに、彼女は吸血鬼としてではなく、ただ一人の少女として受け入れられている気がしてならなかった。


「ふふっ…なんだか、あなたを少しだけ信じてみたくなったわ。でも…覚えていてね。私、いつかあなたの血を…」


アイシャは言葉を曖昧に濁しつつ、いたずらっぽく微笑んだ。彼女の目には、獲物を狙う小悪魔のような光が宿っているが、その微笑みは純粋な好奇心や憧れにも似たものを感じさせる。


「覚えておこう。でも、それまでに私も君が求める存在にならねばな」


ヌアインもまた、彼女の目を見つめ返し、穏やかにそう返した。二人の間には、ほのかな緊張感と新たな信頼の芽生えが交錯していた。それは、出会ったばかりの関係が少しずつ深まりつつある証であった。


アイシャは小さく息を吐き出し、再びヌアインをじっと見上げた。しばしの静寂の後、彼女は一歩彼から離れ、雨の滴る音の中で笑みを浮かべる。


「じゃあ…私は先に行って待ってるわ。北の国境で、また会えるわよね?」


ピンクの髪が揺れ、ふわりと軽やかに笑うアイシャは、雨の中に溶け込むようにその場を離れていく。ヌアインはそんな彼女の背中を見送りながら、静かに一つ息をついた。


「また、北で…待っているか。ふふ、面白い巡り合わせだな」


そう呟いた彼の顔には、確かな決意と、これから待ち受ける未来への静かな期待が垣間見えていた。

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