前のエピソード――ただ愛するため

歩みを進めるヌアインの肩に、ぽつりと冷たい滴が落ちた。それが合図であったかのように、空から次々と雨粒が降り注ぎ始め、彼の身体を濡らしていく。冷たさも重さも、彼にとっては愛おしいものであった。この雨もまた、この世界の一部、彼が守るべき命の一つなのだ。慈しみの微笑みを浮かべながら、ヌアインはただ静かにその全てを受け入れ、両手を広げて降り注ぐ雨に身を委ねた。

「…これもまた、我の行く道を彩る友だな」

まるで雨粒一つ一つが心を持っているかのように感じながら、彼は感謝の念を抱き、冷たい雨の感触を楽しんでいた。自然の恵みを受け入れるその姿は、雨すらも彼の一部として融合しているかのように見え、周囲に静かな美しさを漂わせている。

そんな彼の静けさに反して、ふと物陰から彼をじっと見つめる小さな影があった。森の暗がりから、幼い少女のような姿が現れ、その瞳はぎらりと輝いている。彼女の目は、まるで渇望に満ちた野獣のようにヌアインを捉え、じわりじわりと近づいてきた。その小さな口からは、薄く尖った牙が覗き、口元にはよだれが光っている。

「……ふふ、なんて甘い匂い……」

雨音にかき消されそうな囁き声。ヌアインに背後から忍び寄るように、少女は一歩一歩近づき、まるで餌を狙うかのようにその距離を詰めていく。彼女の名前はアイシャ──かつての吸血一族の名残を宿すヴァンパイアの幼い少女だ。その瞳には満ち足りない渇望が宿っており、彼の気配に引き寄せられるように、無意識のままその手が伸びる。

だが、彼女の存在に気づいたヌアインが振り返ると、彼女は驚いて一瞬動きを止めた。そして、にっこりと微笑んだ彼に視線を合わせた瞬間、アイシャの渇望はますます高まり、その瞳には吸血鬼特有の紅い光が宿る。

「こんにちは。君も、この雨を楽しんでいるのかな？」

ヌアインが穏やかに声をかけると、アイシャは慌てたように口元を拭い、冷静を装うようにそっぽを向いたが、彼の血の甘い香りに抗いがたく、再び視線を戻す。そして、ついに我慢できずに、喉の奥から渇望の声が漏れ出してしまうのだった。

「……あ、あの、ちょっとだけ…あなたの血…味見させてくれない？」