5

闇を伝い赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。


その悲しそうな泣き声を聞いていると下腹部がずきずきと鈍く痛み、私は少しでも和らげようと臍の下を摩る。


…でも冷たい手では意味が無く、眠りたいのに痛みで眠れなくて私は闇を泳いで、泣いている赤ん坊の元に向かう。


そして母を求め、泣き声が発せられるその柔らかい首に手を伸ばす。


『ずっと繰り返すつもりか?』


闇と一体化した誰にも触れられない筈の私の腕を、手袋を嵌めた手が掴む。


『今ならまだ人間に戻れる…この冷たい闇から抜け出したかったら、私の所に来なさい』


仮面をつけ表情を読めないその人の声は暖かみを帯びていて、寒さに耐え切れなくなった私はその腕に縋り付いた。




「…」


懐かしい夢を見たものだ、私は寝汗をかいて気怠い体を起こしキッチンに向かい、冷蔵庫で冷やされた水をコップに注ぎゆっくりとそれを飲み干す。冷水が喉から胃へと流し込まれ渇いた体が癒される…ああ汗が気持ち悪い、私は箪笥からもう一着寝間着を取り出し、寝汗で濡れた寝間着を脱ぐ。


「…っ…」


その時視界に入った臍から股に向かって一本線に走る跡を見てしまう…空っぽだ。かつてこの皮膚の下で感じていた鼓動を再び感じる事は無い。


私が母親になれる日は永遠に訪れないのだ。


「…?」


そこで私はある違和感に気付く、隣のコタロー君の部屋の電気が全て付けられているのだ。


コタロー君は暗い部屋で眠るのが怖いからと、寝室の明かりを消さずに就寝していたのだが、今日は寝室からトイレや風呂。更には空っぽのクローゼットの中の電球まで、ホテルの部屋中の全ての電気が付けられている…私が時計を見ると現在、午前零時を過ぎていた。


部屋中の電気を点けたコタロー君は起きているのか寝ているのか…もし眠っているなら電気の無駄だ、私は体を闇に溶かしてコタロー君の部屋に向かい、ドアの隙間を摺り抜け中に入る。


「!」


すると寝室の方から声を殺しながら泣いている子供の声が聞こえてくる。私が静かに寝室に入ればベッドの上で毛布に包まり、蹲って泣いているコタロー君がいた。


「っ…ひっ…ひっく」

「コタロー君?」

「!?」


私に気付いたコタロー君は、ベッドサイドに付いている簡易テーブルの上に置いてあった帽子を慌てて被り、私の方を見る。


「お、お姉さん?どうしたの?」

「いや、貴方の方こそどうしたのですか?」


コタロー君は泣いていたのをごまかそうとして帽子を被ったつもり何でしょうけど、頬が涙でびしょ濡れで鼻が真っ赤、鼻水と共に涙を流していたのは明確であった。


「どうして泣いてるんですか?」

「えっと…これはその…」

「もしかして肩の傷が開いたんですか?もしそうなら見せて下さい」

「…っ」

「!」


私は泣いている理由を探ろうと彼に近付くと、コタロー君は私の腕を力いっぱい掴んできた。


「コタロー君?どうし「お願い!トイレに着いて来て!!」…は?」

「僕っお昼に紅菊お姉さんから、お化けの話聞いてからっトイレに行けなくって…もう漏れそうなの!」

「…」


トイレの前で待機していると、水を流す音と共にコタロー君が顔を赤くさせながらトイレから出てくる。私はコタロー君がトイレに行っている間に用意した濡れタオルで顔を拭いてやり、寝室に連れて行きコタロー君をベッドに座らせ私も隣に座った。


「大丈夫ですか?」

「…うん」

「お化けが怖くて、部屋中の電気付けてたんですか?」

「…うん」

「そんなんで良く1人で暮らせてましたね」


私がそう溜息を吐くとコタロー君がまた泣きそうになりながら、だってと言葉を紡ぐ。


「だっていつもなら家に帰る前にトイレ行って、家だとなるべく水飲まない様にしてたの。…どうしてもトイレ行きたくなったらお守り握り締めて、目を瞑りながらトイレに行ってたの。…でも、ここにはお守りも無いし、お化けいっぱいいるって聞いて明るくしてても怖くて、トイレ行けなかったの」

「コタロー君…貴方そんなに怖がりなのに、何故大人を頼らなかったんですか?叔母さんが面倒見てくれない事を、ちゃんと先生に言ったんですよね?」

「…先生はI組の子の話なんて聞いてくれないもん」

「それはコタロー君が天才である事を隠していたからでしょう?何故そこまで意地張ってI組に留まり続けたのですか?」

「………プリンがね、不味かったの」

「プリン?」

「テストが返された日に僕のお盆にだけデザートが乗っててね、先生がまた良いテストとれたらもっと食べられる様になるって言ってたの」


でも変わりに今まで一緒に給食を食べてくれたお友達が離れていっちゃって、その日から僕1人で給食を食べる事になったの。それでそのお盆に乗ったプリンを1口食べたら、すっごく不味かった。


口に入れたら甘いのに苦い味が広がって、胸が痞えて吐き出したくなるくらい不味いプリンだった。


「給食は残したら駄目だからって、頑張って食べたんだけどその日はずっと胸が重くて苦しくて…天才になってこんな不味い物を食べるくらいだったら、僕は馬鹿のままでいたかったなって思ったの」

「…」

「今日は迷惑かけてごめんなさい、紅菊お姉さん」

「え?」


何故コタロー君が謝るのだろう?コタロー君は濡れタオルで必死に涙と鼻水で汚れた顔を乱暴に拭う。


「最近色んな事有りすぎて、頭の中がパニックになって沢山泣いちゃった。でも明日からは怖くてもトイレに行ける偉い子になるよ」

「何でですか?」

「だって紅菊お姉さん、僕が泣くの嫌何でしょ?」

「!」

「今日はこのホテルの話聞いて怖くなってトイレに行けなくて、泣いちゃったの…うん、大丈夫、僕は大丈夫…今日は失敗しちゃったけど、今まで1人でトイレに行けたから明日からはもう泣かないよ。泣かない偉い子になるよ」




だから僕を独りにしないで




「…ならなくて良いです」

「え?」

「偉い子にならなくてもコタロー君を独りにしません。泣きたかったら泣いて良いです」

「何で?お姉さん泣くの嫌い何でしょ?」

「確かに嫌いです、ですがそんな追い詰められてる子供に笑う事を強要してまで、嫌いな訳ではありません」


私は最低な人間ですね、泣き声が嫌いだからってずっと独りにされていっぱいいっぱいだった子供から、泣く事すら奪おうとしていた何て…自分って結構、嫌な女だったんだなと自己嫌悪に陥る。


「私が悪かったです、泣きたい時は泣いて良いですよ」

「…良いの?僕、すっごく泣き虫だよ?」

「ええ、涙だろうが鼻水だろうが好きなだけ垂らせば良いんです。私がちゃんと拭いてあげます」

「…僕と一緒にいてくれる?」

「一緒にいます」

「…ありがとう、お姉さん」


…泣いて良いと言ったのに笑顔で礼を言われてしまった、コタロー君に張り付いたいい子のお面を剥がすのは苦労しそうですね。


「…コタロー君、枕を持って着いて来なさい」

「え?」

「怖い話聞かせた詫びに一緒に寝てあげます。枕変わると寝づらいので私の布団で寝ますよ」

「えっ!?良いの?僕中訓練生だよ?」

「変な所さえ触らなけりゃ構いません、ほら早くなさい」

「変な所って?」

「…」


これから長い付き合いとなるのだ、この子がちゃんと育つ様にゆっくりと剥がしていこう。

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