隣のカノン

るりか

第1話

『音羽カノン』


「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色。盛者必衰のなんたらかんたら」

 少女は言った。頬杖をついてレンをじっと見ている。レンは応えた。

「盛者必衰の理をあらわす。驕れる者も久しからず。ただ春の夜の……」

「もういいよ。どうでもいいけど、その唐揚げおいしそう。一つもらっていい?」

「いいよ。いいけど、君は誰?」

 レンは少し戸惑いながらきいた。

「さあ、誰でしょうね」

 レンがしばらく黙ってから、少女は口を開いた。

「ワタシは音羽カノン。あなたの同級生と言えば同級生」

「変な言い方」

「別に変ではないわ。正確に言ったまでよ」

 カノンはそう言って、レンの弁当箱から唐揚げを取って口に入れた。

「まあ仮に変だとしても構わないわ。おかしいのはお互い様でしょ? だってあなた、ここまで話して一度もワタシと目が合ってないのよ」

「言われてみれば?」

 レンは顔をあげた。カノンは大きな涙袋を持ち上げるように笑って、

「知らなかったわ。あなたそんなに綺麗な目をしてるのね」

 レンは目を見開いた。

「馬鹿なこと言わないでくれよ。僕は糸目で、斜視で、だからこうしてダラダラと前髪を下ろしてるんだ」

「だってそう言わないと、あなたずっと下を向いてるんだもの」

 レンは悔しそうにほんの少し口を尖らせた。自分がカノンに上手く乗せられているような気がしたからだ。しかし同時にレンは、その胸のうちに暖かな温度を感じとった。

「あと、あなたの横にあるそれも少し変わってるわ」

「ただのノートだよ」

「ただのノート。一見するとね。だけどほら」と言いながら、カノンは紙面に触れた。手の影に触れると、文字は形を変えた。

「何これ」

「ワタシにもわからない」

「僕もやってみるよ」

「ええ、やって見せて」

 レンはポケットから手を出した。

「ねえ早くやってみて」

 カノンは顔を少し傾けてレンを見た。レンは頷き、カノンの顔をちらっと見て、また目を逸らした。

「こうかな」

 レンは文字を撫でるようにノートに触れた。カノンはレンの隣に座ってその様子を見ていた。

「何もないよ」

 カノンの方を向きながら言う。

「私もびっくりよ」

 カノンが言うと、レンは静かに頷いた。

「まあ何でもいいよ、こんなもの」

「いいの?」

「いいんだ。別に」

「いいんだ別に、そんなことより?」

 カノンは息を含んだ声で言う。

「そんなことより、君のことが知りたい」

 少年は顔を薄く赤らめた。

 カノンはその様子を確かめて、

「よくできました」

「こんなことしたいわけじゃないんだ」

「ごめんなさいね、人のことを揶揄いたくて仕方ない性質なの。こういうのは治らない猫背のようなもので」

「変質者だ」

「そんなこと言わないで」

 カノンはかわすように軽快に言った。

「ずいぶん話が逸れちゃったみたい。確か、私は誰かって話だったわね。私にもわからないの。ほんとのほんとよ。そしてあなたのこともわからない。これもほんと」

 レンは頷いた。

「でもどういうわけか、私たちどこかで会っていたような気がするの」

「こわいね」

 レンは笑いながら言う。

「だめよ。あなたは揶揄っちゃだめ」

 カノンはレンに目を向けた。レンは目を逸らさなかった。

「ご飯粒ついてるよ」と言いながら、カノンは指で一粒つまんだ。


 ぼんやりとした光が目の前に広がっている。垂直に刺さる直射日光が背中を温め、水平方向から吹く扇風機の風が頬を冷やした。クラスメイトの声が近づいたり遠ざかったりした後に、格別はっきりと聞き取れるその声を聞く。

「神山くん、先生はずっと待ってるんですよ」

 山根先生の声だ。教科書を片手に持った山根先生は、教卓の横にある椅子に足を組みながら座っていた。

「神山くん、続きをどうぞ」

「えっとそうですね」とレンは言って、しばらく黙りこんだ。

 教室に漂うどこか気怠い空気。短い、放り出されたような時間の中で、それを塗りつぶすようにペンを転がしたり、空を見たり。

「そうだよね。寝てたら何もわかんないよね」

 先生は言いながらため息をつく。もしため息を一つのひらがなで表すことができるのなら、きっとこのため息には濁点がついていたはずだ。

「次!」と先生は大声で言った。

 椅子から立ち上がり、朗々と音読をする声が教室に響いた。レンを目の端で捉えて半笑いで話すクラスメイト。聞き取れるか聞き取れないかの絶妙なざわめきが生まれる。

 授業が終わり、クラスメイトは教室を歩き回っていた。

「お前朝からマロニエ臭えよ」

「いいや、今日はやってねえから」

 野球部の佐藤と藤田が話している。いつまで経っても同じような話ばかり。

 まだ夏にもなってないのに、マロニエなんて季節はずれもいいところだ、とレンは思った。こんな話でいつまでも笑っていられるほど、気楽ではないしおめでたい頭もしてないさ、とレンは心の中でつぶやく。

 レンは狭い教室の中を見回しながら、背もたれに寄りかかっていた。

 どこを見ても同じような顔ばかり。日焼けをした肌の上に大きなニキビが四つ五つくっついてる顔と、妙に肉付きのいい天然パーマと、あと何か。言葉にできない何か。顔だけではない。性格やら口癖やら話し方やらその他諸々。

 そして教室を抜けても、この町にいる限りは同じようなものばかり。下手くそな落書きが描かれたコンクリートの壁と味気ない並木道が続くだけ。

 ひとしきり心の中でそう呟いて、ふっとため息を吐いた。

 ふと、レンは夢の中で会ったあの少女、カノンを瞼の裏に浮かべた。そして同時に、あの幸せな夢に水を差されたことに、声に出さない苛立ちを覚えた。夢というものは、どうしていつも良いところで終わってしまうのだろう、などと時計を見ながら考えていた。チクタクチクタクと味気ない音が繰り返される度、悲しいほどに現実は戻ってくる。目を合わせる相手など誰もいない。レンは空を見上げた。それしか見るものがなかった。彼にとっては、空など晴れていても曇っていてもどちらでもよかったのだ。

 レンは延々と回り続けるメリーゴーランドのように、同じ記憶を何度も頭の中で再生した。ノイズは聞こえない。彼の中では、常に同じ音がぐるぐる回っている。

 

 あと十分で六限が終わるというところで、窓の外はぼやけ始めた。遠くの山の頂上にある一本杉は、少し前までは色も輪郭もはっきりしていたが、今となってはもう何もかもおぼつかない。

 やがてしとしと雨が降り始めた。レンは冷え始めた外気を肌で感じて、それとほぼ同時に、ブレザーと触れ合う懐の暖かさを覚えた。レンはまどろみ出す。

 ああどうして、また頭が鉛になって、とレンは思った。

 窓を叩く雨の音が、心をかき乱すように胸の奥へ潜り、流れていく。


「ねえ鏡の色って知ってる?」

 また同じ食堂の中。今度は鏡の前に立ってカノンは言った。

 レンは初めて会った時のように戸惑わなかった。半分呆れたように答える。

「銀色。鏡の色は銀色だよ」

「銀色ね、間違ってないわ。でも正確には無色透明なのよ」

「あ、そうなの」

「あまり興味無さそうね」

 カノンは言いながら歩き出した。影がショウインドウに反射している。

「そりゃ興味ないでしょ。かなりどうでもいい」

「それもそうね」

 レンは一体何がしたいのだろうという言葉を顔に浮かべた。

「思ったよりも素直なのね」

「そうかな? 言われたことがないや」

「でしょうね」

「ん? さっきからずっとつかめない会話だなぁ。遊んでるの?」

「どう思う?」

「そうだね、とにかく君はめんどうだ」

「言うじゃない」

 カノンは長いショウインドウの先にある螺旋階段を上り始めた。

「最初から思ってたけど、自分より年上の年下好きの女みたいな言葉遣いは何なんだ?」

 レンが言うと、カノンは歩幅を伸ばした。

「あなたの好みに合わせたまでよ」

「好みなんて一度も言ってないよ。というか、君の言ってること、ほとんど冗談だろう?」

「冗談なんてひと言も言ってないわ。全部本音よ」

 レンが口を開こうとすると、カノンは被せるように言い始めた。

「わかったわ。とにかくあなたはめんどうね」

 それからしばらく、沈黙が二人を横切る。

「ねえ、この階段どこまで続くの?」

「知らないわ。どこまでだって続くのよきっと。あなたの脳みそみたいにぐるぐるぐるぐる回りながらね」

「休む暇もないな」

「ええ、踊り場もなくずっとぐるぐるぐるぐる」

 ぐるぐるぐるぐる、同じような景色を回り続ける。壁には大きさも形も雑多な色のステンドガラスが不規則に張られている。そこに調和はない。べっこう飴のような、くすんだ不確かな色合いが続くばかり。

 雨が降り始めた。ガラス越しにその様子が見えた。輪郭の曖昧な景色。その中で、雨の線だけうっすらと浮かんでいる。

「何だか既視感」

 レンは小さくこぼした。

「どうして?」

「だって、寝る前も雨が降ってた」

「偶然よ」

 カノンにきっぱりと言い切られ、レンは黙るしかなかった。

「雨の日なんていくらでもあるのよ」

「まあそうだけど」 

 レンは悔しそうに言った。

「でも君は最初、鏡の色は何色かと聞いたよね」

「そうね」

「どうして聞いたの?」

「ほんの思いつき」

「ふーん」

「何よ」

「いいや、もし偶然だとしたら、あまりに都合が良すぎると思うんだよ。君が言ったこと」

 レンは足を速めてカノンの前に座った。

「僕の憶測かもしれないけど、ひょっとしたらここは鏡の世界で、僕が普段いる現実世界と線対称の関係にあるんじゃないかな」

 レンは言って、

「知ってたんでしょ?」

 雨の音が徐々に大きく甲高くなっていく。こもった鈴のような音がどこからか響いている。

「知らなかったわ。ほんとに何も。でもあなたが言いたいことはわかるわ。パラレルワールドってことだよね」

「パラレルワールドか、まだわかんないな。でも一番わかんないのは、どうして君がここにいるかなんだ」

 カノンはレンに手を出した。レンは受け取った。二人は並んで歩き出す。

「ワタシだってわからないの。あなたがどうしてここにいるかも、ワタシがどうしてここにいるかも」

 雨は秒数を重ねるごとに強くなっていく。それにつれて、ステンドグラスの色は混ざり合い、調和していく。不規則だった色合わせは次第に規則性を帯び始め、全体の色はより透明にに変わっていく。

「ねえ、向こうに光があるよ」

 カノンは言った。カノンはレンの手を強く引いて走り出した。

「祭壇?」

 鏡で囲まれた大きな六角形の部屋の真ん中には祭壇があった。吹き抜けの向こうは巨大な聖堂の尖塔のように、中心には細長い三角形のガラスの角が集まっている。光沢のある床は天井の幾何学模様をうつしていた。

 カノンとレンは祭壇の上に背中合わせに座った。

「そういえばどうして鏡の話なんてしたの?」

 レンは言った。

「今更過ぎるよ」

 カノンは笑って、

「食堂であなたと話した時、あなたの後ろにショウインドウがあったでしょ?」

「あったね」

 レンは頷く。

「その時気づいたの。あなたの姿がうつってないことに」

「!?」

「冗談じゃないのよ。ほんとよ。じゃあ今そこを見てみて」

 レンは喉を震わせて、しばらく後に言った。

「ほんとにないよ」

「ええワタシもあなたが見えない」

 レンは頷きもせず、また押し黙った。

「しかも僕の影がないんだ」


 薄暗い教室の中で、時計の音と雨の音がアンサンブルを奏でている。レンはまどろみの外に放り出され、視界もぼやけてはっきりしないまま歩き出した。胸の奥から湧き上がる感情。衝突した安堵と落胆。その狭間で、レンの心はぐらぐら揺り動かされた。

「誰もいない」

 その言葉は向かう相手もいないまま空気に吸われた。

 外は土砂降りの雨。窓は叩かれ一定のリズムで音を鳴らし続けている。垂れた水滴が景色を溶かし、世界は絵の具でぐちゃぐちゃに彩られた絵画のようになっていた。

 レンは明かりをつけた。蛍光灯が教室内を照らせば、廊下の向こうもその光の名残りで明るみはじめた。

「寒いね」

 レンは空気に言葉を投げた。

 なに詩人ぶってるのよ、と笑いながら言うカノンの声が脳裏に流れた。

 レンは学生バックを肩に背負って、引き出しの中に手を突っ込んだ。湿ったノートがそこにあった。レンは取り出して机の上に置き、濡れて表紙の赤いインクが染み込んだページを一枚ずつ丁寧にめくった。滲んだボールペンの線が擦れ、字はミミズのようにくねくね曲がりくねっている。レンはその字を撫でるように触れた。

「そんなわけないよね」

 レンはここにいないカノンに言って、そのままタオルでノートの水を吸い取って巻きつけ学生バックの中に入れた。

 昇降口、降り出してしばらく経ったであろう大雨の様子を眺めながら、レンは帰れるだろうかとつぶやいた。帰れることは知っていた。しかし帰りたくない心のもう半分が、レンに問いかけていた。

 アナウンスが聞こえる。

《現在午後六時をお知らせいたします。本日午後四時より、暴風警報が発令されています。不要不急の外出は避け、直ちに安全な建物の中に避難してください》

 遠くから鐘の音が聞こえる。音は風に煽られ、波打つように進みながらレンの耳に届いた。

「『祇園精舎の鐘の声』」

 記憶をたぐり寄せて、レンはあの声をなぞるようにこぼした。風は強く吹き、その声を散り散りにしようとしていた。

「ねえ、そこに傘あるでしょ。差してよそれ」

 カノンは後ろからレンを呼んだ。

 レンは振り返って、カノンの指が指した場所を見た。地べたに伏したビニール傘が一つ。

「どうしたの? ずっとそこにいて、風邪ひくわよ」

 レンはあっけに取られて、カノンの顔をしげしげと見つめた。

「ワタシにヒゲなんてついてないわよ」

 レンは黙ったまま首を振った。

「いや、ほんとにいたんだ」

「いるに決まってるわ。だって同級生だもの」

「とにかく差してよ。濡れちゃうわ」

 レンは頷いて傘を差した。それからカノンに気づかれないようにその横顔を見ては目を逸らし、目を逸らしては見た。

「ねえ、今日はあなたの家にお邪魔してもいい?」

「いきなりだね」

「そう、いきなりなの。こんないきなりのわがまま、あなたは聞き入れてくれるかしら」

 レンは少し笑った。

「いいよ。いくらでも付き合うよ。君のわがままだから」

 一つ傘の下、薄明かりを切り裂くように進む二つの影。

「ちょっとカッコつけてたでしょ」

「いいや、どうだろうね」

 レンはカノンの知らない横顔で微笑んだ。

「狙ってる?」

「いいや、どうだろうね」

「同じ返事ばかり」

 レンは会話を終わらせる気がなかった。向かう場所のない会話を、向かう場所もないまま延々と旅するように続けたいとレンは思った。

「そんなこと言ったら、僕らの話なんて、ずっと同じところを回り続けてるじゃないか」

「あの螺旋階段みたいにね」

「君の話には踊り場がない」

「なにそれカウンター?」

 話はまた振り出しに戻った。

 しばらく間が空いて、レンはくしゃみをした。

「風邪ひいちゃった?」

「君のせいだ。全部君のせい」

「いきなりのわがまま」

 カノンは言った。

 レンは口を尖らせて、そのまま口笛を吹く。

「ワタシたち、なんだか鏡みたいね」

「無色、無職、夢色、夢触」

「くだらない」

「でもさ、鏡が無色ってことはもし仮に二つの鏡を合わせたらどうなるんだろうね」

「知らないわ」

 カノンは言ってくしゃみをした。

「お揃いだ」

「お揃いだね。癪だけど」

 カノンは言葉を置いてしばらく考えた。

「消えちゃうんじゃない? 影もカタチもなく」

 二人は信号待ちで止まった。夜に溶けて、影は消えていた。

「狙ってた?」

「ちょっとね」

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