第55話 契約

 目の前で確かに見ていたはずなのに、九条には何が起きたのかまるで理解ができなかった。


 化物のような巨大なモンスターを、さらなる化物が葬った。

 奴の一撃はモンスターはおろかダンジョンそのものを切り裂き、日の光が差し込むほどの亀裂を作り出している。


 あり得ない。馬鹿げている。これは夢か……?


 震えながら、けれど、じわりと浮かぶ涙と喉の締め付けに、九条はこれが現実であると否が応にも理解させられる。

 ……こんなことが。

 こんなことが、現実にあるのか。

 この男は何者だ。本当に人間なのか――


「さて」

「ひっ……!」


 そんな思考は、男に睨まれた瞬間すべて消し飛んだ。


 ……この男が本物のモンスターか、人間のふりをした化物かは分からない。

 そんなこと、今はどちらでも関係ない。

 確かなのは。

 この男は間違いなく、逆らってはいけない相手だったという事実――


「ゆ、許してくれ。僕が、僕が悪かった……だ、だから殺さないでくれ!」


 世界を平等にしたかった。

 己にふりかかる理不尽を打ち払い、才能ある自分が正しく評価される世界をめざし――だから配信業を始めた。


 が、そんな矜持はどうでもいい。

 死にたくない。

 ただただ、死にたくない――膝をつき、涙を流しながら九条は頭を下げる。


「頼む、悪気はなかったんだ! その、僕は恵まれない立場の人間で、お、お金にも困ってて居場所がなくて……だから一発逆転するにはこれしか方法が、」

「いま必要なのは、言い訳ではないと思いますが? 何ならまだ、改善点でも上げたほうがマシというものですが」

「っ……!」


 そんなことが言えるのは……お前が持てる側、選ばれた人間だから口に出来ることだろう。

 いつもいつも、上から目線で言いやがって――!


 ぶわっと沸いた苛立ちに、しかし奥歯を噛みしめ口を閉ざす。

 正義が自分にあることは疑う余地がないものの、感情的に言い返してはならない。感情に塗れた馬鹿は、死んだ八崎や深六だけで十分。ボクは違う。


 ……慌てるな。落ち着け。冷静になれ。

 幸いヤツは九条との対話に応じている。力はあれど所詮は凡人、この場で九条の口を封じるためすぐに始末するような発想はないらしい。

 その甘さに、つけ込む……!


 九条は油汗を流し、苦悶の表情を演出する。


「今後は……ダンジョンに一切、立ち入らない。それで、どうだ」

「ふむ」

「配信業も、いや、そもそもダンジョンに関連する行為をすべてやめる。その上で君達の前に二度と顔は出さないし、迷惑もかけない」

「…………」

「本当だ! 絶対に守る! 僕にとってそれは、とても辛く苦しい罰なんだ……」


 配信家業の廃止は、己のアイデンティティ全てを奪われるのに等しい。

 高校時代から落ちぶれ、大学でも何者にもなれずふらふらし就活から逃げ親に小言を言われながら生活する日々――そんな九条の存在理由こそ、配信業だった。


 大きな収益を出せた訳ではない。

 生活を維持できる程でもない。

 けれど配信をしていると、自分には価値がある。社会の役立たずではないのだ、というプライドを保つことが出来るのだ。


 そんな自分が、配信を止める。途方もない苦痛だ。


「分かるだろう? 狩人が、ダンジョンに入ることを止める。それが、どれほど辛いことか。君も同じ狩人なら、理解出来るだろう?」


 事件の責任を取り狩人業務を引退する。二度と迷惑をかけることはない。

 それほどの厳罰を受けるのであれば、当然……ボクは許されてしかるべき、だろう?



 ――もちろん、全部嘘だけど。



 ほとぼりが冷めたら、配信業は再開する。

 いまの日本において、偽名を用いてライセンスを再習得するのは然程難しいことではない。狩人家業は慢性的な人手不足なため、田舎にいけば管理がずさんな地域も案外あるのだ。


 もちろん、こんな化物がいる地域に留まるつもりはない。

 頃合いをみて他県に高飛び。ついでに面倒な母親とも縁を切る。

 金は親の口座からちょろまかせば良いだろうし、真に才能ある九条であれば新天地でも良縁に恵まれるだろう。可能性はきわめて高い。


 八崎や悪七、深六のような低俗な連中ではない、真の仲間に巡り会える可能性もあるだろう。

 そして今度こそ、九条は正当な評価をうけ平等な世界に羽ばたくのだ……!


「っ……だから、頼む。お願いだ、命だけは……!」


 口車で乗り切れば、後はどうとでも。

 そのためなら、靴を舐めることも厭わない――


 ふむ、と影一が考える。


「確かに、今後ダンジョンに関わらないのであれば、私の迷惑になる可能性は低いですね。それに反省の弁も述べている。一考の価値はあるでしょうか」

「っ……!」


 かかった。

 引っかかった、引っかかった。馬鹿な奴め。

 しょせんお前はその程度の平凡な男――


「ただし、条件があります」

「っ……な、何でも飲む。言ってくれ」

「まずは当然の話を、幾つか」


 それから男の提示した条件は、九条にとって容易いものばかりだった。

 一つ目は、レコーダーの破棄。

 八崎と深六のレコーダーも含めて全てと言われ、九条は遠慮なくその場で捨てた。


 二つ目は、影一達の存在を口外しないこと。

 その条件はむしろこちらが望みたい。こんな男に関わるなど二度と御免だ。


 三つ目は、今後――

 社会に迷惑をかけないこと。


「罪の意識を背負いながら生きろ、とまでは言いません。ただし健全な大人として、私の価値観に基づいた社会模範に則り行動すること。……約束できますか?」

「わ、分かった。必ず守る。約束する!」


 はは。ぬるい。何とぬるい条件だ、と内心笑わずにいられない。

 レコーダーの映像は残念だが、影一のことを口外しない、社会に迷惑をかけないなど条件として成立しないにも程がある。

 ……後々こっそり、迷宮庁にこの化物のことを報告してやろう。


 そして時間はかかるが、九条は必ずダンジョン界隈で再起してみせる――!


「畏まりました。では……今の話に合意したことを示すため、こちらの契約書にサインを頂けますでしょうか?」


 と、影一がインベントリを呼び、黒ペンと羊皮紙のような紙を取り出した。

 ……?

 気のせいか。

 背広男が紙を取り出したとき、何か――ざざ、と歪に魔力が揺れたような……?


 眉を寄せる九条に、男がバインダーつきの契約書を差し出した。

 受け取った九条は、……なぜか。

 奇妙な程に、ぞわり、と背筋に寒気を覚えて息を飲む。


 ……契約書の内容自体に、不自然なところはない。

 だというのに、九条の額にじっとりと油汗が浮かぶのは……ありふれたA4サイズの用紙の契約書から、黒い魔力を感じるからだ。


 ……ただの紙切れなのに、なぜか。

 植物の根。或いは牢獄の鎖のようなものが、自分の心臓を絡め取らんと待ちかまえているかのような。

 深淵の底より巨大な魚が口を開け、こちらを見つめているような……。


 本能が訴える。――危険だ。

 根拠はない。理屈もない。

 にも関わらず九条の心が警鐘を鳴らし、今すぐ逃げろ、これに名を刻んではならない、と強烈な警鐘をもって訴える。


 ……ベヒモスに相対した時。

 あるいはそれ以上の、生存本能に基づく直感――


「どうかしましたか? 内容は先程お伝えしたものと、変わりないはずですが」

「っ……い、いやその、な、内容をきちんと確かめよう、と……」

「確かに確認は重要です。ですが、あなたがそれにサインをしないようであれば、残念ながら消えて頂くしかありませんが……」

「っ……!」


 酷い違和感と、吐き気はあったが――九条は慌ててサインした。

 考えている暇はない。

 そもそも男の気を削いでしまえば命が危ういのだ。それを、気が乗らない――などという曖昧な理由で断れるはずもない。


 九条は慌ててフルネームを印し、影一に突き返す。


「結構。では最後にもう一度だけ確認します」


 ひとつ、あなたの所持するレコーダーを破棄すること。

 ひとつ、影一普通および綺羅星善子の存在を口外しないこと。

 ひとつ、私の価値観に基づき社会に迷惑をかけないこと。


 再三にわたる確認に、もちろんだと九条は首を振る。

 分かった。もう分かったから、早くどこかに消えてくれ。


 祈る九条の前で、背広男がそっと溜息をつく。

 そして全てに興味を失ったように、連れの女子高生とともに螺旋階段を上がっていった。



 …………。


 男達の姿が消え、残された九条は――喜びのあまり、涙した。


 助かった。助かった。助かった!

 ああ。本当に死ぬかと思ったが、あの男が気まぐれなバカで助かった。

 これは天命。いや、これぞ真の平等。


 そもそも九条ほどの男が、こんなところで死ぬはずがない。

 そして最大の苦難乗り越えた今、次こそ本当の幸福が訪れるに違いない。


 すがすがしい気持ちすら覚え、立ち上がる。

 見てるがいい。必ず、成し遂げてやる。

 九条の人生は、本番は、これから始まるのだ――


*


「先生。良かったんですか? あれで」

「ええ。彼が心から反省しているのであれば、今後二度と、私と会うことはないでしょう」

「……とても、反省してるようには見えませんでしたけど……」

「いけませんよ綺羅星さん。人を頭から疑っては。……確かに、現時点ではどうしようもない社会のゴミであっても、きちんと反省の弁を口にするなら、一度くらいチャンスを与えるのが大人というものです」


 影一の語りは、社会人としては実にもっともらしい。

 ……が、綺羅星はヘンだなとも思う。


 綺羅星が知る先生は、間違っても、慈悲など与えないはずだが――


「もっとも。約束を破るようなら、死ぬより酷い目に会うでしょうけれども、ね」

「え」

「覚えておいてください、綺羅星さん。ダンジョン界隈には”神威の剣”のように、常軌を逸したアイテムが稀にあります。例えば……相手の行動を、強制的に縛ってしまう呪いのアイテム等、ですね」


 影一が薄く笑い、ぼそり、と綺羅星にも僅かに聞こえる薄暗い声で呟く。


「そういうものに迂闊にサインをすると、――死ぬより酷い目に遭いますよ」

「っ……それって……」

「彼が約束を守れば、何事もなく平穏に過ごせるでしょう。が、もし約束を破るようなら、彼の人生はきっと死ぬより辛い目に遭うでしょうね」


 そして是非とも彼には、私を怒らせたぶんの罪を償って頂きたい。

 私の進む人生とは、正反対。

 危険と不安に苛まれる、ストレスフルな生涯を過ごして頂きたい。


「私も人間ですので。苛立った相手が落ちぶれる様を想像することもまた、良いストレス解消になるのですよ」


 影一が笑い、参考にしてみますか? と問われ。

 綺羅星はぶるりと震えながら、でもやはり彼は私の先生だ、と認識を改め――




 その後。

 影一と綺羅星が、九条信の姿を目にすることは、二度となかった。




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