第5話 幼馴染のハートマーク

 しばらく使わなさそうな冬物の服は段ボール箱のままクローゼットに押し込み、まずはすぐに使うものに絞って片付けることにした。


 側面に書いておいた内容物のメモを頼りに次々と段ボール箱を開けていき、中身が空になったはしから潰して部屋の隅に寄せていく。


 家具類は母さんが言っていた通りに予め用意されていて、机も本棚もしっかりと組み立てられて設置されている。ベッドもマットレスからシーツ、枕に掛け布団まですでにセットされて今すぐにでも寝ることができるという至れり尽くせりな状態だ。


 おかげでそこまでの大仕事になることもなく、そこそこの時間で終えることができた。


「とりあえず、こんなもんでいいか?」


 それでも二時間程度はかかっていて窓の外は真っ暗に、終盤はカーテンを閉め電気を灯して作業を行っていた。


「……今日からここが俺の部屋、なんだよなぁ」


 ひとまず生活ができそうになった部屋を見渡して、一人呟く。なにかよくわからないが、どこかしみじみとした気持ちが湧いてくる。


「にしても、疲れたな……」


 集中して休むことなく動かしていた身体はほんのりと疲労感を訴えている。このままベッドにダイブしてやろうか、そう思った時だった。


「隼くーん? 晩ごはんできたんだけど、お片付けのキリはつけられそうかなぁ?」


 ノックの音とともに部屋の外から俺を呼ぶ里桜の声がした。


 里桜は買い物に出た後、俺の部屋に顔を出すことはなかったので声を聞くのも約二時間ぶりになる。


「うん、つい今さっき終わったとこだ。ごめんな、そういやおかえりも言ってなかったよな。なんか集中しちゃってて」


 いってらっしゃいをあれだけ要求してきた里桜には必要な言葉だったんじゃないかと思ったんだ。ドアを開けて里桜の顔を見ながら言うと、嬉しそうな笑顔が返ってくる。


「私も邪魔したらいけないかなぁって思って声かけなかったからお相子だよ。私こそ遅くなってごめんね。ただいまっ、隼くん」


「ん、おかえり」


「うんうん、ちゃんと挨拶できて感心だね?」


「あんまり責めるなよ……。さっきは悪かったって……」


「別に責めてはないよ。ただね、なんとなくこういうのいいなぁって思ってるだけだから」


「こういうのって……?」


「ふふっ。懐かしいってことだよ。ほらっ、冷めないうちにご飯食べちゃお?」


 里桜の手が俺の腕を掴む。そしてそのまま部屋から連れ出された。


 部屋から出ると、リビングダイニングには美味しそうな匂いが充満していた。それだけで疲れた身体が空腹だと主張し始める。


「なんかすっげーいい匂いしてるな」


「えへへ、でしょー? 今日はね、せっかくだから私の得意料理にしてみたの。ちなみにお母さんの得意料理でもあってね、そのお母さんの直伝かつお墨付きをもらってるから期待してくれていいよ?」


「めっちゃくちゃハードル上げてくるじゃん。そんなに自信あるんだ?」


 この匂いなんだから味もいいだろうとは予想できるけどさ。


「むしろ自信しかないよ? 最初が肝心なんだから。ここでがっつり隼くんの胃袋を掴んでおかないといけないんだもん、気合も入るってものだよ」


「俺の胃袋なんて掴んでどうしようってんだよ……」


 掴むなら、将来の恋人や旦那になる人だろうに。


 ……まさか、それが俺だって言うんじゃないだろうな?


「ふふ〜ん。知りたい?」


「……まぁ、知りたい、かな」


「じゃあ教えてあげるねっ。ちょっとお耳を拝借して──」


 里桜がわずかに背伸びをして、俺の耳に口元を寄せる。肩に置かれた里桜の手の感触や、ぐっと距離が縮まったことで甘い香りが鼻をくすぐり、心臓がバクバクと音を立てそうなくらい鼓動を早める。


 ちょっ、近くね……?

 久しぶりに会った初日なのに、なんでいきなりこんな昔みたいな距離感になってるんだよ……!

 ……むしろそれ以上なんじゃないか?


 そんな動揺が伝わっているのかいないのか、里桜はゆっくりと口を開く。耳にかかる吐息に頭までクラクラしてくる。


「あのねぇ、三年間キッチンを任せてもらうんだからぁ、早いうちに実力を示しておかなきゃ、でしょっ?」


「──は?」


 全くもって密やかに言う必要のないことを囁いた里桜は、パッと俺から離れて楽しそうに笑う。


「あははっ! 隼くん、お顔が真っ赤だよ? なにを言われると思ったのかなぁ?」


「……」


 返す言葉もない。


 ……いったい俺はどんな言葉を期待してたんだ?


 というか、なんで俺はいきなりこんなに振り回されてるんだよ。


「なーんてねっ? からかってごめんね。でも味の方は本当に保証するから。とにかく座って座って」


「……ったく、わかったよ」


 腹が減っているのは事実、そのうえ匂いまで嗅がされたら我慢なんてできやしない。里桜の後についてダイニングテーブルのところまでいくと、見るからに美味しそうな料理が並んでいた。


 まず一番存在感を放っているのはオムライス。オムレツという可能性もないことはないが、主食であるご飯が置かれていないことから考えてオムライスで間違いないだろう。その表面は余計な焼き色が付いていたりせず、美しい黄金色だ。


 そしてその横で湯気を立てているのが、栄養バランスを考慮しているのか、野菜たっぷりのスープ。じっくりと煮込まれて、具材がトロトロになっているのが見ただけでわかった。


「うわっ、もうこれだけで美味そうなんだけど……」


「んふふ〜。でもまだ完成じゃないんだなぁ」


「これ以上なにかする必要あるのか?」


 正直、今すぐにでも口いっぱいに頬張りたいところなんだが。


「最後の仕上げがまだだからね。あとちょっとだけ待ってね」


 そう言いながら里桜が冷蔵庫から取り出したのはケチャップのボトルだった。


「あぁ、そういうことか」


 確かにオムライスなら表面にケチャップがかかっているのが一般的か。たぶん綺麗に焼き上がった玉子の色でも見せたかったってところだろうな。


 そう思って眺めていたのだが──


「うん、そういうことだよ。これをこうしてー」


 里桜は手元に俺の分と思われるオムライスを引き寄せて、真剣な表情でケチャップのボトルを器用に動かしなにやら描いていく。


「はーいっ、かーんせいっ! どうぞ、召し上がれ?」


 手元に戻ってきたオムライスを見て、俺は言葉を失った。スプーンに伸ばしかけていた手も宙を彷徨う。


「あれ? 食べてくれないの?」


「いや、そういうわけじゃ……。でも、これ……」


 俺が固まってしまった理由、それは里桜がオムライスに描いたものにあった。


 丁寧な字で『しゅんくん』と書かれているのはまぁいい。問題は俺の名前を取り囲むように、オムライスのサイズいっぱいぎりぎりに描かれたハートマークだ。


 ただ、そんなことを気にしているのは俺だけなようで、里桜はいたって普通の顔をしている。


「なにか変だったかな?」


「変っていうか、なんで、ハート……?」


「……えっ? オムライスってハートを描くものじゃないの? うちのオムライスはいつもこうだよ?」


「そうなの……?」


 里桜がさも当然のように言うので、おかしいのは俺の方なのかと疑いたくなってくる。


「うん。お母さんが作ってくれる時はね、お父さんの分にはこれよりもっと大きなハートを描いてるし」


「そ、そっか……。そういうもんなのか……」


 そりゃそうだろうよ!

 だってそれ夫婦だからじゃん!


 里桜があまりにもしれっと言うせいで実際の声と心の声が食い違ってしまった。


「あっ、もしかして隼くん。ハートの意味、考えちゃったのかなぁ?」


「……」


 ぐっ……またか……。


 からかうように笑う里桜に心臓を掴まれているような気分だ。


「ハートって言ってもいろいろあると思うよ? 恋愛感情って意味もあるんだろうけど、他に家族への愛情も、友達同士も、もちろん幼馴染への親愛も。もしかしたら単に形が可愛いから好きとかね」


 里桜が言うことはもっともだ。それなのに無意識に俺はその意味を求めてしまっていた。


「じゃあ……これはどういう……?」


「ふふっ。じゃあここは、なーいしょっ、てことにしておこうかな?」


 里桜ははっきりと明言はしなかった。唇の前に人差し指を立て、ただいたずらに笑い、俺の心をかき乱すだけ。


「ほらほら、食べないと冷めちゃうよ? せっかくの自信作なんだから、美味しいうちに食べてほしいなぁ」


「……わかった。でもその前に」


「ん、なぁに?」


「ケチャップ、貸せ。俺もやってやる」


 里桜からケチャップのボトルを奪い取り、里桜の分のオムライスに同じように名前とハートを描いた。里桜が描いたのよりも不格好だけど、まぁこんなもんだろう。


 里桜にも俺と同じ気持ちを味わってもらおう、そう思ったのに、


「へへっ、やったぁ! 隼くんにハート描いてもらっちゃった」


 なんでそんなに嬉しそうなんだよ……。


「幼馴染、だからな……。これくらいはいいだろ……」


 ひとまずは里桜があげた意味の中から無難なものを選択しておいた。自分が完全に逃げに徹しているのは、もちろんわかってるさ。ただこうなると、幼馴染っていったいなんなんだ、そんなことを考えさせられるはめに。


「あれ? 隼くん、自分でやっておいて照れてるの? かーわいっ!」


「うるさいっ。とにかく食うぞ。冷める前にって言ったのは里桜なんだからな」


「それもそうだね。それじゃあ、いただきまーすっ」


 行儀よく手を合わせた里桜に俺も倣う。


「……いただきます」


 スプーンを手にオムライスを一すくい、ケチャップは塗り潰してしまうのがもったいないような気がして、そのまま端から少しずつ崩していくことに。


 口に入れれば、内側がほんのりと半熟の玉子とチキンライスが絡み合う絶妙な味加減で、


「うわ、美味っ……!」


 自然とそんな言葉がこぼれていた。

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