三面鏡

@wlm6223

三面鏡

 私がまだ幼い頃、実家に大きな三面鏡があった。まだ子供時分だったから大きく見えただけかも知れないが、当時の私の身長よりも高さがあった。その三面鏡はいやに古く、蝶番には錆が少々ういていたものの、鏡面は全体ぴかぴかで、触るとうっすらと指紋がついた。たぶん母が嫁入り道具として持ってきたものだろう。下段にある引き出しの角は欠けがあった。引き出しの中には少々の化粧品がごろごろと転がっていた。幼い私はそれが何なのかあまり気を取られることがなかった。私の興味を惹いたのは鏡そのものだった。その三面鏡は狭い居室の一番すみに置かれていた。

 なにかの折に家人がいなくなると(理由は思い出せないが、そういう事がたびたびあった)その三面鏡に向かい、暫くじっとしてみた。鏡の中に真正面の自分の姿が映った。左右の鏡にはそれぞれ右顔、左顔が映った。私が口を開けると三面とも口を開けた。それぞれの顔の向きは異なるが、どれも同じ口を開けた私の顔である。目だけを動かして右側の鏡を見ると、鏡像の私と目が合った。左の鏡像も同様。私は何か違和感を感じ、さっと顔を三面鏡から引っ込めると、鏡像も全く同時に瞬時に顔を引っ込めた。正面の鏡像だけが映り、左右の鏡からは私の顔がいなくなった。私はなんとなく不気味に思った。

 左の鏡を半分閉じると、万華鏡のように鏡像の中に鏡像が映し出される。鏡に映り込んだ室内が延々と続くのである。その中央に人差し指をゆっくり近づけると、鏡像のあらゆるところから人差し指が現れて、ついには一点に指先が集まる。私には指でつくったヒトデに見えた。その指先は他の指先と接触しているようにも見えたが、感触は冷たいガラスであった。その接点をよく見ると、鏡面と指先の間にガラスの分だけの隙間がある。鏡像の世界と現実の世界とは、このガラス一枚で区切られているんだと私は得心した。指先を曲げてみると、鏡像はうねうねと動きだし、瀕死の身悶えする生物のように見えた。こうなると自分の指先が、それ自身、私とは別の生物であるかのように見えた。私は不気味に思い、指先を三面鏡から離して自分の目でその指を確認した。試しにさきほどと同じように指先を動かしてみたが、なんてことはない、いつもの自分の指である。

 鏡面の世界で何が起こっているのか不思議に思った。不気味ではあるが鏡に映るのは現実とまったく同じものの筈だ。それをなぜ畏れる必要があるのだろうか。

 私は思い切って左手を三面鏡の境界に押し当ててみた。鏡像の中で同じく手が集合し、百合の蕾になった。指の付け根を曲げると蕾は膨れ上がり、五本の指すべてをを徐々に広げるとイソギンチャクになった。親指から小指へと規則正しく動かしてゆくと、イソギンチャクの触手は幾何学的に揺れ始めた。指をうまく動かしてゆくと、穏やかな海流にそよいでいるように見えた。今度は左手の付け根を押しつけて、指をめいっぱい広げた。私の左手がつくった鏡像は時計草になった。掌や指の指紋がまったく同じように開いた花弁は、どこか無機質だった。死体から手首を切り落として鏡に映したかのように、生気がなく不気味だった。鏡像の静物は幼い私を不安にさせた。現実の世界はこんなにグロテスクではない筈だ。三面鏡を通した世界は本当に現実と全く同じなのであろうか? いや、同じなのである。どんな物でも見え方によって物の捉え方が変わるのである。幼い私は三面鏡の、その手腕に戦いた。

 私は思い切って、半開きの三面鏡に顔を突っ込んでみた。四方八方から顔が突き出てきた。勿論、どれもみな自分の顔である。が、みな向きがばらばらで、目を合わせようとすると鏡像の顔はその度に目を逸らしてしまう。鏡像の向こうを見ると、自分の後ろ姿まで見てとれる。三面鏡はそこまで映せるものなのか、と幼い私は不思議に思った。自分の容姿は大体分かっていた積もりでいたが、まざまざと見せつけられたのは新たな発見だった。知っていた筈の自分が人からはこう見える、という具体的な証拠を突きつけられた訳だ。幾重にも映る鏡像のうち、どれか一つぐらい全然違うポーズをとっている者がいないか探してみたが、そんな者はいる筈もなかった。鏡像全体、どこを見ても自分の顔しかないのは少々不気味だった。なぜなら、左手首の時計草同様、生きている筈なのに無機質に見えたからだ。

 

 幼い頃、こんな遊びを繰り返していたせいか、帰納するものと再帰するものに神秘を感じるようになった。どちらも数学的に重要な概念であるから、それらを幼いうちから概念的に理解できたのは幸運だったと思う。

 だが、今でも三面鏡を見るのが不気味で仕方ない。

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