海産珍味

@wlm6223

海産珍味

 東京都飯田橋にある松寿司は創業七十五年の寿司屋である。この界隈では老舗として知られており、時折遠方からの予約客も来る。

 店主の高橋は中学を卒業してすぐにこの道の修行に入った。毎日あさ早くから築地市場へ通い、当日の魚の仕入れに目を光らせている。築地場内は日本全国からの海産物が集まり、一品一品を吟味する業者たちで賑わっている。

 「高橋さん、その鮪どうですか」

 「……うちでは出せんな」

 こんなやり取りが毎日のようにある。

 この日も仕入れを済ませると店へ戻り、弟子たちと仕込みに取りかかった。黙々と包丁を振り、鮮魚をサクへと切り捌いてゆく。

 夕方、開店準備は整った。暖簾をあげ店を開けた。


    ×


 松寿司はカウンター十二席ほどの小さな店である。開店とほぼ同時に満席となり、客からの注文で賑わいだす。

 「大将、日本酒あります?」

 「春鹿なら」

 「じゃ、冷やで」

 高橋は内心、良い気がしなかった。

 酒が魚の生臭みを強めてしまい、味が落ちるというのが高橋の信念である。客には言えないが、客が注文するから仕方無しに酒も用意してあるだけなのだ。そして、川魚は香味が強すぎるため、松寿司では仕入れていない。高橋はこの道の修行に入って以来、川魚を口にしたことがない。舌が鈍ってしまうのを畏れたのである。

 「お待ち」

 高橋が客に徳利とお猪口を出した。その途端、ふらりと視界が真っ白になり、倒れてしまった。「大将!」と誰かが叫んだのが聞こえた。


    ×


 高橋が気が付くと、病院のベッドの上であった。何が起きたのか、まったく覚えていなかった。事の経緯を看護士に訊くと、店の営業中に昏倒し救急車で病院へ担ぎ込まれ、意識不明だったとのことである。診察の結果、髄膜炎であった。

 高橋も、もう六十半ばである。何があってもおかしくない年齢だ。最後まで店に立ちたい気持ちはあったが、これも潮時かもしれないとも思った。店も繁盛し、信頼できる弟子たちも育て上げた。老いには勝てない。割烹着を着て五十年、そろそろ身の持ちようを考える時が来たのだ。

 店は弟子たちに任せ、高橋は故郷の山梨県上野原の病院へ転院することにした。


    ×


 夏の上野原は東京ほどの炎暑はなく、養生するには適当だった。五十年ぶりの故郷の風は、郷愁よりも鋭気を養うのに都合がよかった。毎日三食なにも言わずとも配膳されるのが、何か不思議な感がした。寿司職人として生きてきた高橋には、あまりにも素っ気ない病院食は早々に嫌気が差していた。

 ある日、昼食にシラウオの佃煮がでた。

 「川魚は臭くて食えん」

 高橋は言下に看護士に言って、シラウオの佃煮だけを残した。舌が肥えているであろう高橋のために、病院の栄養管理士がわざわざ手配した高級食材である。

 高橋のこの言葉はすぐに院内に伝わり、さすが東京の寿司職人は一筋縄ではいなかい、という人もいたが、当の栄養管理士は違っていた。

 病院の栄養管理士といえども、元を正せば包丁人である。高橋のこの言葉が癇に障った。


    ×


 看護士が夕食の配膳にやって来た。

 「高橋さん、今日は鯖の甘露煮ですよ」

 今が旬の、鮎の甘露煮を出した。高橋はひとくち箸をつけてこう言った。

「やっぱり魚は海のものに限る」

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