懐かしい人々
@wlm6223
懐かしい人々
津川良次は朝六時に目を醒ますと日課のストレッチを終え、ソファに深く座り込み、朝食のトーストをゆっくりと楽しんでいた。
定年退職後二年、津川は悠々自適の生活をおくることができていた。四月の空は雲一つない好天である。津川の心に去来するのは五年前に先立たれてしまった妻のことと、わずか八歳で交通事故で逝ってしまった娘のことだけである。それらの悲しみも時間とともに受け入れられるようになり、これからは一老人として喜びも悲しみもない老境の孤独をすぎ越してゆくのみと考えていた。
津川は自宅マンションのベランダへ出て、煙草を一服つけた。駅方向へ流れてゆく通勤の人々を見下ろすと、かつての自分もこの中だったのかと思いを巡らした。津川は少々寂しくも悲しくも思った。
×
ある日曜日、部屋のインターフォンが鳴った。
「隣の七一三号室に引っ越してきた者です。ちょっとご挨拶でも」
津川は玄関に立ち、扉を開けた。男が引っ越し蕎麦を持って立っていた。
「こんにちは。津川と申します。三十年前のあなたです」
「なに?」
「いやあ、信じていただけないとは思いますが、私は昔のあなたです。これどうぞ」
男は引っ越し蕎麦を津川へ渡した。
「長いお付き合いになると思いますんで、どうぞよろしくお願いします」
男はそれだけ言うと去ってしまった。
確かに男は三十年前の津川の人相・背格好そのものだった。ぱっと見ただけでは気が付かなかったが、三七歳の津川そのものだった。津川は挨拶に来た男を思い返すと、ただただ混乱するだけだった。三十年前の自分? あのころは京子と結婚もし、娘の京香も二歳になっている筈だ。
まさか、そんな事がおきる筈がない。
津川は自分の痴呆症やアルツハイマーを疑ってみた。いや、しかし、早急な判断は自分でしないほうがいい。津川はとにかく暫くの間は、隣家との付き合いはしないほうがいいと思った。
×
一晩明け、津川は日課にしている散歩から帰ってきた。マンション一階でエレベーターを待っていると、後から手をつないだ親子連れが来た。
「あら、こんにちは」
母親が津川に挨拶をしてきた。
「こんにちは……」
津川は驚きを隠せなかった。そこにいたのは三十年前の京子と、まだ年端もいかない京香だった。
「お隣の津川さんですよね」
「……ええ……」
「うちの人も三十年経つと、こんなお爺ちゃんになるのね」
「私の事を知っているんですか」
「いやあねえ、夫婦ですもの。時が経っても分かるわよ」
京子はケラケラと笑いだした。京香は津川の顔を見てポカンとしている。
「……じゃあ、この子は……」
「京香に決まってるじゃない」
津川は涙ぐんだ。この二人を今すぐにでも抱きしめてやりたかった。京子は笑みを浮かべながら津川に言った。
「今度の週末にうちで夕飯でもどうですか。引っ越し祝いも兼ねて」
「ぜひ」
×
次の土曜日の夜、津川の隣家から食事の誘いに来たのは京子だった。
「さあ、どうぞ」
ささやかなホームパーティーが始まった。津川は久しぶりに一家団欒の居ごごちを味わった。酒も飲んだ。三十年前の自分にこれから起こる事を滔々と告げた。ところが「ええ、知ってますよ。全部」と言われてしまった。津川もだいぶ酔いがまわってきた。酔いにまかせて寝入ってしまう直前、津川は三十年前の自分に訊いた。
「……君たちは、本当は何者なんだ」
「ドッペルゲンガーとか死神とか呼ばれてます」
懐かしい人々 @wlm6223
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます