仮面としての名前
@wlm6223
仮面としての名前
私にはいくつかの名前がある。いや、正確には本名が一つで、呼び名・あだ名が複数ある。こういったことは誰にでもあることで何も変わったことじゃない。ごくごく一般的なことだ。
ところが、その名前によって人格や立場が変貌し、まるで別人のように振る舞うのが普通になってしまっているのだ。
私は特段それを意識することなく、ごく平凡な日常を送っている。誰だっていくつかのの社会的地位を持っており、その場その場に応じて、自分が果たすべき役割を担うため、名前という「仮面」を付け替えているのだ。何も差し障りは起きていない。自分でも知らず知らずのうちに、その呼び名によって人格が変わるのだ。
朝、私は起きると「パパ」と呼ばれる。そして「パパ」の仮面を付ける。
ダイニングには朝食が用意されており、八歳の娘と妻は私のことを「パパ」と呼ぶ。
私は無意識にその「パパ」を一時間ほど演じ、会社への通勤電車に乗って通勤していく。
さて、と会社へ到着すると今度は「部長」と呼ばれる。
私は「部長」の仮面へ付け替え、部下たちの仕事を監督し、会議へ出席し、日常些事をこなしていく。職場にいる○○君や××君も仕事場での仮面を付け、黙々と職務をこなしていく。もちろん名前と顔は覚えているが、それは便宜上のことであって、どんな名前であっても、どんな顔であっても一向かまわないのだ。ときおり雑談はするものの、それは仮面を通しての言葉であって、彼ら個人の内側から発する言葉ではない。彼らもそういう前提で雑談をしているはずだ。
こうして日中を職場でやり過ごし、私は電車で帰宅する。
また電車だ。電車は街と街を繋いで行く。
私にとって我が家と職場は陸続きとは思えない。この狭くて窮屈な通勤電車が私の日常の仮面を付け替える場所だ。ここは誰の本性をも露わにしない無言の揺り籠なのだ。それぞれがみな他人であり、お互いの顔など覚える気もない。パーソナルスペースなんてものはない。ただ揺られて目的地へ行くだけ。それでいいのだ。そのほうがいいのだ。最も他人に気を使わず平穏に過ごすには、何もせずただ電車の揺れにのっていればいいのだ。
私はときどき仕事後の帰路、一人でバーへ行き一杯飲むことがある。
そこでは私は「ヨシオカサン」と呼ばれている。
私は「ヨシオカサン」の仮面をかぶり、お気に入りのカクテル「サイドカー」を飲む。いや、気に入ってるわけじゃない。「ヨシオカサン」の仮面がこの酒を欲しているだけなのだ。
たまたま隣り合わせた、私と同じように仮面をかぶった酔い客と雑談をする。当たり障りのない、そつない会話は内面の私を直撃することはない。こういう飲み方ができるのが「大人」の証のように見られるのだが、内心、誰が胸の内でどう思っているなんて分かったもんじゃない。私は仮面を通して言葉を口にするよう心がけている。いくら飲んでも本当に酔うことなどないのだ。
私はバーで三十分から一時間ほど腰を据えると、いい加減「ヨシオカサン」の仮面に飽きてくる。そんなときはバーテンに「チェックで」と言ってバーを後にする。
そして電車に乗り(また電車だ!)家族の待つ自宅へ帰る。
朝と同じように私は「パパ」の仮面をかぶり、愛する家族との時間を過ごす。
愛する? いや、「パパ」の仮面が家族を愛しているのであって、私の内面から零れ出す愛は微塵もない。
シャワーを浴びてから家族で夕食を摂り、娘とテレビを観る。そして娘を寝かしつけてから妻との時間を過ごし、就寝の準備をする。
私の日常は仮面なしでは成立しない。ときおりすべての仮面を放擲してしまおうという欲求が私の内面からふつふつと湧き上がるが、本当に仮面を投げ捨ててしまうと、私にはなにも残らないことをよく知っている。だから私は仮面を手放さない。この仮面こそが私の社会生活の基盤となっているからだ。
私は寝室に入り、眠る前の二三時間を過ごす。
ようやく全ての仮面を剥ぎ取り、名前のない本性の自分と向き合うことが出来る時間だ。
私はこの時間が来るのがとても怖い。というのも、仮面のない、無名の私は、顔がただれ、目もまともに開けず、言葉を発することすら出来ないからだ。妻からは「夜にあなたの寝室から物音がする」と言われている。それもそうだろう。私の本当の、本性の名前は「倒錯者」なのだから。
知らないままのほうがいい。それでいいのだ。そのほうがいいのだ。
仮面としての名前 @wlm6223
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