ブーケと薬指

@wlm6223

ブーケと薬指

 葉月は朝の通勤電車のなかでうつらうつらしていた。毎日決まった規則的な生活をしているにも拘わらず、時折、自分が自分でないような妙な感覚に襲われるときがある。それは電車内でのうたた寝で夢を見ているような、そんなときに不意に立ち現れてくるのだ。それは飲酒による酩酊状態に近いかも知れない。だが勿論飲酒などしていない。

 それは以前なら月に一度か二度の事であったが、最近は毎日のように自分が別人に入れ代わるように思われるのだ。

 「思われる」というのは、葉月に自覚がないからである。確かに自分がとった行動と、そうではない、夢の中にいる自分との境界が曖昧になり、自分が眠っているのか起きているのか判然としない状態が続くのである。

 葉月が半覚醒の状態であることは本人も思い当たる節があった。自宅アパートに何故か三角コーンがあったり、身に覚えのないネット通販の商品が届けられることがあるのだ。が、半覚醒の時の行動が曖昧模糊として掴めない。「私は何をやっているのだろう。本当に私がやったことなのだろうか」という事例が最近は増えてきたのだ。

 葉月は会社の最寄り駅で目を醒まし、いつもの通り出社した。

 葉月は鞄を入れようと自分のロッカーを開けた。

 ロッカーの中にはブーケが入っていた。

 普段、葉月はロッカーの中に置き傘としと折りたたみ式の傘を一本入れているだけである。どこからブーケが出てきたのだろうか? 不思議に思ったがブーケに纏わる記憶がないでもなかった。

 それは数日前、夢の中で親戚の結婚式で花嫁のブーケトスを勝ち取ったことである。

 さて、それが現実に親戚の結婚式へ参列したものか、ただの夢であったのか分からない。葉月は自分のスケジュール帳を確認すると、結婚式参加の予定が書き込まれていない。それでもただ、確かにロッカーの中にブーケがある。これだけは事実だ。

 葉月はブーケをそっと取り出し、誰にも見付からないように社内のゴミ箱へ棄てた。

 それから退社時間までの間、葉月は何事もなく仕事をこなした。葉月にとって、勤務時間はあっという間に過ぎていった。

 実は、葉月は勤務時間中の事を思い出せないでいた。記憶の欠落は既に日常茶飯事だったのでいまさら驚くことはなかった。ただ他の社員と同様にパソコンに向かい、何かをしていたのは確かなのだが、子細になると何も思い出せない。

 葉月は不審に思いながら、それを誰にも悟られまいと振る舞った。

 脳の活性状態を知るために、何日前までの食事を思い出せるか、というのがある。葉月は食事のメニューを懸命に思い出そうとしたが、今日のランチですら思い出せなかった。

 葉月は自分の脳や神経の病気を疑いはじめていた。今のところ、通常生活に問題は起きていないので大丈夫なのだが、いつ、何があるか分かったもんじゃない。さて、本当に病院へ行ってみようかと思うとその勇気が出ない。ただ毎日繰り返される同じような日常に慣れ親しみ過ぎて、どの日も同じに思えるだけなんじゃないかとさえ考えた。

 その夜、葉月は職場を後にすると行きつけのバーへ寄り道した。

 バーテンへ葉月の身に起こっている事柄を相談すると「健忘症かもしれませんよ」と言われた。

「私、まだ三十一ですよ。そんなことあるんですか」

「私は医者じゃないから詳しいことは分かりませんが、何か体調に異常があったら医者と相談するのがいいんじゃないでしょうか」

 その夜、葉月は不思議な夢を見た。

 殺風景な診察室の中で葉月は医者と対面している。医者は「会社に行くの辛いですか」と訊いてきたので「私、そんなんじゃないです」と答えた。医者は平静を保ったまま葉月にいくつかの質問をした。それは葉月にとって不愉快なものばかりで、医者は最後に「もっと専門的な治療を受けた方が良いでしょう。紹介状を書いておきます」と言った。それを聞いた葉月は何故か激怒し、医者に掴みかかり、医者の左手の薬指を結婚指輪ごと咬み切ったのだ。

 夢はそこで終わり、葉月はいつもの自宅アパートで目を醒ました。

 その日、いつも通り葉月は出社し、ロッカーに鞄を入れようとすると、ロッカーの中に食いちぎられた薬指が転がっていた。

 葉月はいやに冷静になり、その薬指を見詰めた。これは夢なんじゃないか、幻視なんじゃないかと思ったが、その指の切り口からの血の滴りでこれが現実だと認識するに至った。

 そんなことがあっても葉月は自分の認識と夢との交錯を受け入れるのに躊躇した。

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