お目出度う

@wlm6223

お目出度う

 いつの頃からかはっきり覚えていないが、私は人の顔に幕が掛かっているのがはっきり見えるようになっていた。

 私は会社員なので、会社と家の往復が日常であり、通りすがる人々の多くは私と同じく勤め人である。そうなると、大体幕の色や濃さも皆同じようなものになるのが分かる。

 通勤電車の中では誰も彼も黒か灰色の濃い幕が垂れていた。会社に着くと、おはようの挨拶をしてくる女子社員も、また濃い灰色の幕の向こうに笑顔を作っているのが分かる。朝の会社員はみな不機嫌な色の幕を顔の前に垂らしているが、昼休みになるとその幕は喜色を示し、あからさまに色が薄くなる。

 幕の色は感情を表し、色の濃淡は他者を受け入れるかどうかで決まってくるのが経験則で分かっている。

 午後の仕事に取りかかり、もうすぐ定時となると社員たちの幕は少しずつ明るい色になり、色も薄くなっていった。残業もそこそこに、いざ退社となると疲れの色と漸く自由の時間を得る喜びの色が見えた。だが、それらの色とは裏腹に、皆いつもの通り何のことはない、という態度を示した。そんな態度をとっても私には幕が見えるのだ。皆が思っている事はお見通しなのだよ。

 私は同僚と会社近くの立ち飲み屋で一杯引っ掛けていくことにした。立ち飲み屋は、まあ、我々おじさん達しかいない。客達はみな上機嫌で幕も殆ど色を無くし、本心から和気藹々としているのが見えた。我々は互いに家庭を持つ身の上、早々に家路に就いた。

 私は京浜東北線に乗り、乗客達を見回すと、みな色とりどりの幕を顔の前に垂らしていた。他人から私を見ると、私の幕はどのように見えるのだろうか? 車窓に映る自分の顔を見たが、幕はない。不思議なことだが、何故か自分の幕は見えないのだ。

 私はほろ酔いで帰宅すると、妻の京子が出迎えた。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 京子の幕は少々濃い紫色をしている。口には出さないがお冠なのが分かった。

 京子と結婚して十五年。幕など見なくても大体の機嫌が分かるので幕を一々見なくても京子がどう思っているのかは分かる。私は少々酒臭い息のままリビングへ入ると、今年で小学四年生になる娘の葉月がテレビを観ていた。

「あ、パパ、お帰り」

 葉月の幕は殆ど無色透明で、今日もご機嫌なのが分かる。葉月は今年で十歳だ。これから難しい年頃になるのだから、この私の幕が見える特技が今後多いに活躍するのだろう。

 葉月に限らず年が若いほど、特に幼児にはこの幕がほぼ明るい色で透明に近いことは経験で分かっている。なんせ幼児である。世間の憂さや杞憂などなく、すくすく素直に育っている子のが多かったのだ。

 葉月が幼稚園生のころ、参観日に出席したことがある。子供達の幕は無色透明か明るい色をしていた。ただ二三人、暗い影をした幕を持つ子がいた。京子のママ友の話によると、大抵そんな子の家庭は貧困か離婚話が進んでいる場合だった。幼くして娑婆苦の辛酸を舐め、心に重しを持っている子供達の心情を思うと、私の心は苦しんた。翻って、葉月は産まれてからこの方、暗い濃い幕をすることはなかった。真っ直ぐ育ってくれているのが何より親として嬉しかった。

 私の日常は幕が見えることを除いて、至ってごく普通の会社員生活を送ることが出来た。むしろ幕が見えることで仕事に優位に働くこともあった。取引先との折衝の際、相手がどんな心持ちでいるかを見ることが出来るので、交渉事には優位に立つことが出来た。つまり相手の心を見透かすことが出来るのである。これは仕事で多いに役立った。

 ある日、いつも通り帰宅すると私たち一家は揃って夕飯を摂ることにした。まあ、普段の日常風景である。

 ところが、葉月の幕が赤黒く、かなり色濃くなっているのが見えた。葉月の幕がこんな色を見せたのは初めてだ。京子は朗らかに夕食の準備を進めていた。何事かあったのは間違いない。だが急いて事情を問い質すのは得策ではない。これは私の交渉術から得た方策だ。

 京子は夕飯の支度を済ますとダイニングテーブルにつき「さ、いただきましょ」と、いつも通り言った。「いただきます」と私達は一緒に言った。今日はいつもの白米ではなく赤飯だった。

 ああ、そういうことか。私が帰宅するまでの間、京子と葉月の女同士で何が話し合われたのか、大体予想がついた。男親から切り出すような話ではないことは重々承知している。葉月、お目出度う。私はただ思うだけに留め、普段通りを装って一家揃っての食事についた。

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