第七話  涼の恋。涼の涙。

 韓国からくにのむらじすずしの家は、古い家柄ではあったか、何故だか貧乏だ。

 婚姻の持参金は、ほぼ、用意できない。

 それでも良い、恋うたから、と言ってくれたおのこたちと、姉二人は、婚姻した。

 すずしも、十八歳で、婚姻するはずだった。

 おのこが通うようになったのである。

 おのこは、涼を優しく抱きながら、


「婚姻までもう少し待って。こっちにも準備があるんだ。」


 と言った。すずしは、素直にそれを信じ、待った。

 三年、待った。

 男は、最後の方は、通う感覚が遠くなった。

 他におみなができたのだろう。

 なんでこうなってしまったのか。

 初めての夜は、あんなに熱くさ寝してくれたのに。

 何かが、おのことは決定的に合わなかった。涼が、


「婚姻しても、月に一度は、唐語に通じた博士を家に呼んでね。」


 と気軽に言ったことがあった。


「そんな贅沢を! すごく金品がかかるだろう?!」


 それはそうだが、博士の知識を買うのだ。正統な対価だ。

 とくに言葉というのは、常に口にしていないと、正しい発音はできなくなってしまう。

 苦労して身につけた唐語を衰えさせたくなかったし、韓国からくにのむらじの家では当たり前のことだ。

 父上のそのまた父上も、ずっとそうやって知識に投資し、この韓国からくにのむらじの教養を受け継いできたのだ。


「何が持参金は用意できない、だよ!

 そうやって無駄に散財してるからじゃないか!」


 散財とは心外である。

 その時は一晩かけて、無駄ではない、と、コンコンと説明した。

 わかってもらおうと努力した。

 でも、ダメだった。


 男と女、というより、家が、あわなかったのだ………。


 おみなは、二十歳を過ぎれば、結婚適齢期を過ぎたと見られる。

 早ければ、十五歳で婚姻する女もいるのだ。


 二十一歳でおのこに捨てられ、婚姻の話がなかったことになり、すずしは落ちこんだ。


 そこで、末の弟が帰ってきて、涼を新しい世界に連れ出してくれた。

 その弟は、今、遣唐録事となり、毎日生き生きと平城京に通っている。

 心から嬉しい。

 ちなみに、遷鶯せんおう考試こうしで、弟をおとしいれようとした卑劣なおのこ壬生みぶの吉志きし黒麻呂くろまろは、遣唐使から外された。





 そして、涼の今の、一番の関心事は……。


 従者控えの間に、ふらっ、とあらわれる、海上うなかみの真人まひと見狩みかりさまだ。

 二十五歳。くるんと巻いた口ひげ、優しそうな目、品の良い立ち姿。

 それもそのはず、この人は、もとは皇族。

 若いうちに、臣籍降下しんせきこうかしたお方なのだ。

 やんごとない血筋のお方なのに、


「にゃはは〜。」


 と気さくに、愛嬌たっぷりに笑う。

 その笑顔は、


(……可愛い。)


 ああ! 年上の男に、そんなことを思ってるだなんて、口が裂けても言えない。

 見狩さまは、涼の語り物を気に入ってくださったようで、公務をサボって、よく、ここに顔をだした。

 見狩さまの従者の公勝きみかつが、


「仕事してください。」


 と言うのだが、


「にゃはは〜。もう、遣唐録事としての儀礼を教わるだけだ。退屈。私、儀礼は身につけてるしね。

 それより、大和にいれる残り少ない時間を大切にしたいのだよ。

 このような美女の語り物とかね。」


 ぱっちん。

 片目をつむる。


 ぼっ。

 涼の顔は真っ赤になる。

 冗談でも、胸がドキドキする……。


 みなもとが、見狩さまに、


遷鶯せんおう考試こうしでは、助けてくださり、ありがとうございました!

 でもなんでですか!

 なんでみん かいって名乗って酒肆しゅしにいたんですか!」


 と、くりくりした目でズバッと質問した時、


「まず名前、みん かいは、唐名だよ。大和と唐では、名前が違う。大和の名前は通じない。だから、唐風の名前をつける。

 見狩、みぃ、かり、みん かい、だよ。」

「オレも名前、つけてもらいました!

 かん げんです。」

「そのまんまだねぇ。お父上の名付けが良かったんだねぇ。

 酒肆しゅしで楽師をしていたのは、気晴らしさ。

 私を知らない民草に混じって、他愛もない話を聞いていたい。そんな時もあるのさ。

 そうそう、なんで君を助けたかだけど、酒肆しゅしで、君の、唐に行きたい、という真摯な言葉に心打たれたのだ。

 私はね、本当は、遣唐使船に乗りたくない。」


 そこで、見狩さまは、はあ、と小さいため息をついた。


「大和にいれば安全なのに、命を落とす可能性のある旅になんかでたくない。

 でも自分の将来を思うと、遣唐使船に乗っておくことは必要だ。唐から帰国したら与えられる、特別の選叙せんじょ(昇進)は魅力的だ。

 臣籍しんせき降下こうかした私は、自分の将来は自分で切り開かないといけない。

 このまま、従六位上じゅろくいのじょうで終わってなるものか。

 遣唐使船に乗るのが怖くても、辞退はできない。

 そう思って、鬱々うつうつとしていたのだ。

 みなもと、君の熱い思いは、私に必要なものだ。遣唐録事になり、私の乗る船に一緒に乗り、私を助けてほしい。

 そう思ったからさ。」

「ありがとうございます! オレで良ければ、いくらでもお助けします。

 ぜひ、一緒に乗りましょう!」

「うんうん。」


 見狩さまは、みなもとうなずいていた。


(そのような不安を抱えて。あたしで良ければ、お慰めしてさしあげたい……。)


 見狩さまのほうが身分が上であるのだ、言えるわけがない。


(そもそも、あたしは二十一歳だし、容姿はパッとしないし、衣も貧乏くさい。見狩さまをお慰めしたいなんて、だいそれた望み、言えないわ。)


 すずしはそうやって、秘めた思いを、胸にそっと閉じ込める。




     *   *   *




 すずしは、従者控えの間で語り物をする。

 みなもとの恩人の一人、三虎は静かに聞き入り、時々、無表情に、


「オレの唐語の発音、これであっているか?」


 とすずしに確認する。

 見狩さまは、頻繁にふらりとあらわれて、すずしのそばに座り、頬杖をつき、にこにことすずしを見る。


 ある時、語り物を追えたすずしに、一人のおのこ木簡もっかんを差し出した。

 三十歳ほどのそのおのこは、顔が赤く色づいている。


「オレ、箭津麻呂やつまろっていいます。

 木蘭もくらん郎女いらつめ! これを受け取ってくれ!」


 ぐるぐる巻きにされた木簡の中身は見えないが、おそらく、恋文こいぶみ……。


「えっ? ……えっ?」


 すずしは予想していなかった事態に頭が真っ白になる。

 持参金もなく、顔は普通、ガリッとした痩せ体型、やたら本の話をしたがる涼は、はっきり言ってモテなかったのである。


 そこに、見狩みかりさまが笑顔のまま、腕を伸ばし、ひょい、と箭津麻呂やつまろから木簡をとりあげた。

 そして、


「ふん!」


 両手で木簡を持ち、膝蹴りで木簡を、ばきっと真っ二つに折った。


「あ────────────!!」


 箭津麻呂やつまろは大きく叫ぶ。

 見狩さまは、後ろに控えた従者、公勝きみかつに、


「燃やせ。供養だ。」


 と、折れた木簡を渡した。


「ひでぇっすよ! ひでぇっすよ! 見狩みかりさま! なんでですか!」


 箭津麻呂やつまろは涙ちょちょ切れで恨めしそうに見狩さまを見た。


「うん? なんでかな? 何故かすごく壊したくなったんだよね。」


 見狩さまが腕を組んで首をかしげた。


見狩みかりさまが恋文を渡すでもなし、邪魔しないでくださいよ!」

「うん?」


 見狩さまがすずしを見た。

 すずしはドキッとする。


「恋文、ねぇ……。だって私、もうすぐ唐に行っちゃうしねぇ。生きて帰ってこれるかわからない私なんかが恋文なんて……。」


 すずしは、さっと目を伏せる。


(あたし、欲しい。

 見狩さまの恋文、欲しい。

 唐に旅立つまでの、短い間でも全然かまわない、愛してほしい。

 見狩さまはあたしの事、なんとも思ってないのかな。

 やっぱり、美女って言ってくれたのは、冗談だけだったんだよね。

 期待なんかしちゃ……。)


 言葉が胸の内を渦巻く。

 でも、何一つ、口にできない。

 想いは受け入れてもらえないだろう、という諦念と、このような取るに足らないあたしが何を、という恥ずかしさで、何も言葉にできない。


(語り物はこんなに滑らかに喋れるのに、肝心な時には、ちっとも、あたしの舌は動かない。)


 すずしは、息苦しくなり、身体が熱くなり、無言のまま、ポロリ、涙をこぼした。

 見狩さまが、


「あっ……。」


 と驚く。他のおのこたちもざわめき、


 ───泣かせた。

 ───泣かせたぞ。


 とひそひそささやく。

 見狩さまが、涼の正面の倚子に座りなおした。


木蘭もくらん郎女いらつめ? ……私が文を贈ったら、受け取る気はあるかい?」


 涼は、はっ、と顔をあげ、想いをこめて、こくり、と頷いた。


 ───おお〜。


 まわりの男たちがどよめく。


「ふ……。」


 見狩さまは優しく微笑み、懐から鳳凰ほうおうの刺繍された錦の手布てぬのをとりだし、すずしの手首に巻いた。


「他のおのこから恋文を渡されそうになったら、これを見せて、受け取れません、と答えなさい。」

「はい。」


 涼は真っ赤になりながら返事をする。


(嬉しい。想いは、届いたの……?)


 見狩さまは倚子を立ち、


「帰る。そこの君、こういう事だから諦めたまえ。」


 箭津麻呂やつまろを、びし、と指差し、見狩さまは従者控えの間をあとにした。


 長らく無言だった箭津麻呂やつまろは、すずしの手首に巻かれた錦の手布を、悲しそうに見た。


「オレには、こんな立派な手布を用意できない。

 ……涼、お幸せに……。」


 箭津麻呂やつまろは、やっとそれだけ言うと、切ない目ですずしを見た。

 三虎が、


すずし。今日はもう帰れ。」


 と無表情のままに言った。







 その一刻あと。


 見狩さまから、あふち栴檀せんだん)の木の枝にくくりつけられた、紙の恋文が届き、涼の屋敷は、てんやわんやの大騒ぎとなった。






 ───吾妹子尓  相市乃花波  落不過  今咲有如  有与奴香聞───


我妹子あぎもこに あふちの花は 散り過ぎず 今咲けるごと ありこせぬかも。


 あなたと逢瀬します。あふちの花のように美しいあなた。どうか可憐さを散らさないで、いじらしく花咲いた今のまま、いつまでもいてください。)








 すずしは恋文を見て、うっとりとため息をつく。


(なんて素敵な墨跡ぼくせき。)


 まさに雲烟飛動うんえんひどう(雲やモヤが、飛ぶように生き生き動く。文字うまい)のおもむきである。

 涼は教養の高い男にひかれてしまう。

 涼を捨てた男などとは比べ物にならないくらい、見狩さまは高い教養を身につけた男だった。


 恋文を持ってきた従者の公勝きみかつが、


「何……?! この屋敷には料理人がいない、だと……?!」


 と愕然がくぜんとし、


「料理人、食材、今宵は全てこちらが手配する!」


 と、いきなり豪華な夕餉を仕切りだした。

 夕刻、見狩さまがいらして、涼と二人きりで部屋で夕餉をとることになった。


「私は、三人の妻がいた。二人、えやみで黄泉渡りをした。

 今は、一人だ。私のいもだ。」


 いもとは、運命の女、おのこの生涯でただ一人のおみなのことだ。

 つまり、涼がどう頑張っても、一番の女、いもにはなれないということだ。

 ひたひたと悲しみが押し寄せる。


(……それでもかまわない。)


「私は財貨に困っていないし、この身体は、たしかに遠く敏達天皇びだつてんのうの血をひくが、私自身は、従六位上じゅろくいのじょう、五位でもないのだよ?」

「かまいません。」

「もう一人の妻を尊重し、いさかいなくやっていけるかい?」

「はい。」

「私はもうすぐ唐に行く。それでも……。」

「かまいません。離れ離れの間は、ずっと、見狩さまを想い、お帰りを待ちます。」


 涼は、強い想いをこめて、見狩さまを見た。

 見狩さまは微笑んだ。


「どうやら、自分でも気が付かないうちに、そなたに強く心惹かれていたらしい。

 私は、そなたの語り物を語る、生き生きとした顔が好きだ。

 語ってくれ。手枕をしながら、幾千の夜に、寝物語を……。」





 涼は、波をかぶり、渇くことのない海辺の大岩のように、快楽くわいらくで身体を濡らした。





(ああ、愛しい。恋しい。見狩さま……。)





 果てたあと、見狩さまは、はだかの胸に涼を抱き寄せ、


「そなたを妻とする。婚姻の儀を早めにり行おう。大切にするとうけひする、すずし。」


 と言ってくださった。


「嬉しい……。」


 涼は、嬉し涙を、ぽろり、とこぼした。見狩さまは、優しく涙をぬぐってくださった。






 言葉通り、唐に旅立つ前に、見狩みかりさまは正式にすずしを妻としてくださった。

 見狩さまには、毛止豆女もとつめ(正妻)がいる。すずしは、自分の屋敷、両親のもとで、見狩さまが通うのを待つ妻となった。


 すずしは、愛情深い自分の家族が大好きだったし、父親が定期的に呼ぶ博士から、趣味である唐語の勉強を好きなだけ続けられた。


 頻繁に訪れるつまに、すずしは好きなだけ本の知識を披露し、博士とおさらいした趣味の唐語を披露した。

 幼少は見狩王と呼ばれ、皇族として過ごしたすずしつまは、すずし以上の教養を身につけていて、


「うんうん。すずしは勉強が好きなんだねぇ。唐語を語ってるすずしは生き生きしてて、かわいいよ。にゃはは〜。」


 と、柔和で愛嬌あいきょうのある笑顔で、すずしの頭を撫でてくれるのだった。

 すずしはこの日々に、心から幸せを感じた。





    *   *   *





(※注一)……万葉集、作者不詳。

 上の本文に記したのは、意訳。もっと直接的に現代語訳すると、 

 ───我妹子あぎもこに逢う。あふちの花よ。散り去ってしまわず、今のように花咲いたままでいてほしいなぁ───

 となる。


 ※逢う、と、ちを掛けている和歌。





↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093088975679104

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