第七話 涼の恋。涼の涙。
婚姻の持参金は、ほぼ、用意できない。
それでも良い、恋うたから、と言ってくれた
「婚姻までもう少し待って。こっちにも準備があるんだ。」
と言った。
三年、待った。
男は、最後の方は、通う感覚が遠くなった。
他に
なんでこうなってしまったのか。
初めての夜は、あんなに熱くさ寝してくれたのに。
何かが、
「婚姻しても、月に一度は、唐語に通じた博士を家に呼んでね。」
と気軽に言ったことがあった。
「そんな贅沢を! すごく金品がかかるだろう?!」
それはそうだが、博士の知識を買うのだ。正統な対価だ。
とくに言葉というのは、常に口にしていないと、正しい発音はできなくなってしまう。
苦労して身につけた唐語を衰えさせたくなかったし、
父上のそのまた父上も、ずっとそうやって知識に投資し、この
「何が持参金は用意できない、だよ!
そうやって無駄に散財してるからじゃないか!」
散財とは心外である。
その時は一晩かけて、無駄ではない、と、コンコンと説明した。
わかってもらおうと努力した。
でも、ダメだった。
男と女、というより、家が、あわなかったのだ………。
早ければ、十五歳で婚姻する女もいるのだ。
二十一歳で
そこで、末の弟が帰ってきて、涼を新しい世界に連れ出してくれた。
その弟は、今、遣唐録事となり、毎日生き生きと平城京に通っている。
心から嬉しい。
ちなみに、
そして、涼の今の、一番の関心事は……。
従者控えの間に、ふらっ、とあらわれる、
二十五歳。くるんと巻いた口ひげ、優しそうな目、品の良い立ち姿。
それもそのはず、この人は、もとは皇族。
若いうちに、
やんごとない血筋のお方なのに、
「にゃはは〜。」
と気さくに、愛嬌たっぷりに笑う。
その笑顔は、
(……可愛い。)
ああ! 年上の男に、そんなことを思ってるだなんて、口が裂けても言えない。
見狩さまは、涼の語り物を気に入ってくださったようで、公務をサボって、よく、ここに顔をだした。
見狩さまの従者の
「仕事してください。」
と言うのだが、
「にゃはは〜。もう、遣唐録事としての儀礼を教わるだけだ。退屈。私、儀礼は身につけてるしね。
それより、大和にいれる残り少ない時間を大切にしたいのだよ。
このような美女の語り物とかね。」
ぱっちん。
片目をつむる。
ぼっ。
涼の顔は真っ赤になる。
冗談でも、胸がドキドキする……。
「
でもなんでですか!
なんで
と、くりくりした目でズバッと質問した時、
「まず名前、
見狩、みぃ、かり、
「オレも名前、つけてもらいました!
「そのまんまだねぇ。お父上の名付けが良かったんだねぇ。
私を知らない民草に混じって、他愛もない話を聞いていたい。そんな時もあるのさ。
そうそう、なんで君を助けたかだけど、
私はね、本当は、遣唐使船に乗りたくない。」
そこで、見狩さまは、はあ、と小さいため息をついた。
「大和にいれば安全なのに、命を落とす可能性のある旅になんかでたくない。
でも自分の将来を思うと、遣唐使船に乗っておくことは必要だ。唐から帰国したら与えられる、特別の
このまま、
遣唐使船に乗るのが怖くても、辞退はできない。
そう思って、
そう思ったからさ。」
「ありがとうございます! オレで良ければ、いくらでもお助けします。
ぜひ、一緒に乗りましょう!」
「うんうん。」
見狩さまは、
(そのような不安を抱えて。あたしで良ければ、お慰めしてさしあげたい……。)
見狩さまのほうが身分が上であるのだ、言えるわけがない。
(そもそも、あたしは二十一歳だし、容姿はパッとしないし、衣も貧乏くさい。見狩さまをお慰めしたいなんて、だいそれた望み、言えないわ。)
* * *
「オレの唐語の発音、これであっているか?」
と
見狩さまは、頻繁にふらりとあらわれて、
ある時、語り物を追えた
三十歳ほどのその
「オレ、
ぐるぐる巻きにされた木簡の中身は見えないが、おそらく、
「えっ? ……えっ?」
持参金もなく、顔は普通、ガリッとした痩せ体型、やたら本の話をしたがる涼は、はっきり言ってモテなかったのである。
そこに、
そして、
「ふん!」
両手で木簡を持ち、膝蹴りで木簡を、ばきっと真っ二つに折った。
「あ────────────!!」
見狩さまは、後ろに控えた従者、
「燃やせ。供養だ。」
と、折れた木簡を渡した。
「ひでぇっすよ! ひでぇっすよ!
「うん? なんでかな? 何故かすごく壊したくなったんだよね。」
見狩さまが腕を組んで首をかしげた。
「
「うん?」
見狩さまが
「恋文、ねぇ……。だって私、もうすぐ唐に行っちゃうしねぇ。生きて帰ってこれるかわからない私なんかが恋文なんて……。」
(あたし、欲しい。
見狩さまの恋文、欲しい。
唐に旅立つまでの、短い間でも全然かまわない、愛してほしい。
見狩さまはあたしの事、なんとも思ってないのかな。
やっぱり、美女って言ってくれたのは、冗談だけだったんだよね。
期待なんかしちゃ……。)
言葉が胸の内を渦巻く。
でも、何一つ、口にできない。
想いは受け入れてもらえないだろう、という諦念と、このような取るに足らないあたしが何を、という恥ずかしさで、何も言葉にできない。
(語り物はこんなに滑らかに喋れるのに、肝心な時には、ちっとも、あたしの舌は動かない。)
見狩さまが、
「あっ……。」
と驚く。他の
───泣かせた。
───泣かせたぞ。
とひそひそ
見狩さまが、涼の正面の倚子に座りなおした。
「
涼は、はっ、と顔をあげ、想いをこめて、こくり、と頷いた。
───おお〜。
まわりの男たちがどよめく。
「ふ……。」
見狩さまは優しく微笑み、懐から
「他の
「はい。」
涼は真っ赤になりながら返事をする。
(嬉しい。想いは、届いたの……?)
見狩さまは倚子を立ち、
「帰る。そこの君、こういう事だから諦めたまえ。」
長らく無言だった
「オレには、こんな立派な手布を用意できない。
……涼、お幸せに……。」
三虎が、
「
と無表情のままに言った。
その一刻あと。
見狩さまから、
───吾妹子尓 相市乃花波 落不過 今咲有如 有与奴香聞───
(
あなたと逢瀬します。あふちの花のように美しいあなた。どうか可憐さを散らさないで、いじらしく花咲いた今のまま、いつまでもいてください。)
(なんて素敵な
まさに
涼は教養の高い男にひかれてしまう。
涼を捨てた男などとは比べ物にならないくらい、見狩さまは高い教養を身につけた男だった。
恋文を持ってきた従者の
「何……?! この屋敷には料理人がいない、だと……?!」
と
「料理人、食材、今宵は全てこちらが手配する!」
と、いきなり豪華な夕餉を仕切りだした。
夕刻、見狩さまがいらして、涼と二人きりで部屋で夕餉をとることになった。
「私は、三人の妻がいた。二人、
今は、一人だ。私の
つまり、涼がどう頑張っても、一番の女、
ひたひたと悲しみが押し寄せる。
(……それでもかまわない。)
「私は財貨に困っていないし、この身体は、たしかに遠く
「かまいません。」
「もう一人の妻を尊重し、
「はい。」
「私はもうすぐ唐に行く。それでも……。」
「かまいません。離れ離れの間は、ずっと、見狩さまを想い、お帰りを待ちます。」
涼は、強い想いをこめて、見狩さまを見た。
見狩さまは微笑んだ。
「どうやら、自分でも気が付かないうちに、そなたに強く心惹かれていたらしい。
私は、そなたの語り物を語る、生き生きとした顔が好きだ。
語ってくれ。手枕をしながら、幾千の夜に、寝物語を……。」
涼は、波をかぶり、渇くことのない海辺の大岩のように、
(ああ、愛しい。恋しい。見狩さま……。)
果てたあと、見狩さまは、はだかの胸に涼を抱き寄せ、
「そなたを妻とする。婚姻の儀を早めに
と言ってくださった。
「嬉しい……。」
涼は、嬉し涙を、ぽろり、とこぼした。見狩さまは、優しく涙をぬぐってくださった。
言葉通り、唐に旅立つ前に、
見狩さまには、
頻繁に訪れる
幼少は見狩王と呼ばれ、皇族として過ごした
「うんうん。
と、柔和で
* * *
(※注一)……万葉集、作者不詳。
上の本文に記したのは、意訳。もっと直接的に現代語訳すると、
───
となる。
※逢う、と、あふちを掛けている和歌。
↓挿絵です。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093088975679104
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます