黒宮怜の日記⑧「霊依姫」
病室の入口に『黒宮みさき』と書かれた名札が設置されている。ピンク色の引き戸を引っ張ると、洗面台、テレビ、そして、無機質な音を立てる機械に囲まれたベットがあった。
機械の正体には、すぐに検討がつく。
ベッドの中央に伸びているカテーテル……あれは、患者に栄養を与えるための……。
現在の彼女――ミサが、どうなっているのかは容易に想像できた。ベッドの中身を覗くのは怖い。きっと黒い髪をなびかせて走り回っていた頃の彼女は、もうどこにもいない。存在するのは枯れ木のような姿になった彼女だけ。
「みさ……」
覚悟を決めて、みさきの方へ一歩踏みだそうとする。しかし、それよりも早く八重子さんの声が響いた。
「怜君、申し訳ないんだけど、ちょっと、そっぽ向いて待っててくれない?」
病室の机で鞄を漁る八重子が呟く。
「えーと、はい」
夢を見ているように、フワフワとしていた意識が戻る。脳が状況を理解していなかったが、体の方は勝手に八重子の言われるがままに、扉側へ回っていた。
「ごめんね。これでも一応、みさきは思春期……になるはずだった年だからね。こんな姿、男の子に見せたくないと思うの」
――僕はミサがどんな姿でも気にしないけど。
胸の奥から、そんな言葉が溢れ出たが、口にするのは止めた。これは僕の言葉ではない、そう直感的に感じ取ったからだ。
「みさは、いつから、この状態に?」
「十年前よ」
黒宮本家に火の手が上がった日か。
「まさか、ミサも火災に……?」
「……そうよ。火事のこと知っているの?」
「はい、新聞で見たので」
「そう……」
罪悪感が胸を締め付け、末梢神経までも焼き尽くそうとする。
(僕が知らないところで、ミサが……そんな……)
「あれ以降、みさきは何も話してくれなくなったし、立ち上がることすらできなくなった。だから、私には、こうやって、ただ就寝と起床を繰り返すだけの娘を見守って……定期的に目やにを落としてあげる事しかできないの」
八重子がすすり泣き始める。
落ち着いていた声も、段々と震え始めた。
「就寝と起床はできるけど、話せないということは……まさか、みさは植物状態に?」
でも、植物状態にしては生きている時間が長すぎる気がする。植物状態になった人間の寿命は平均六ヶ月――長くて五年だと本で読んだことがある。
「いいえ、お医者様も最初は植物状態だと仰っていましたけど、どうやら違うみたい」
「どういうことですか……?」
「原因が分からないらしいの」
「そんな……」
「たぶん、『鬼』が、みさきを連れて行こうとして失敗したのね」
「『鬼』ですか……」
「馬鹿らしいと思う?」
「■■■■村に来る前の僕ならば、確実にそう思ったでしょう。でも、実際に『鬼』の姿を目撃してきた今なら、馬鹿らしいとは一切思いません」
みかがみ屋で出会った子供達の姿を、思い返す。見た目だけならば、二人とも、ごく普通の子供だ。結局、『鬼』というラベルは、今を生きる人間が勝手に貼ったものにすぎない。彼らが生きた人間を連れ去る理由は、怨念に駆られているから……あるいは、単に寂しいのか。
「八重子さん。僕とみさは、たぶん、幼なじみでしたよね?」
「そうね、昔からよく二人で遊んでいたわ」
背後から足音が迫ってくる。
女性の影がゆっくりと迫ってくる。
そう、よろめきながら、ゆっくりと。
「ねぇ、怜君は、みさきが意識不明になった日のことを覚えている?」
「知りません。分かりません。火事が起きた日、僕は■■■■村には居ませんでしたから。そうです……僕は何も……」
「あら、そう。私の勘違いだったみたい。ごめんねぇー」
迫ってくる影が歪に歪み始めた。
心臓の鼓動が警笛を鳴らし始める。
理由は分からない。迫ってくる黒い影が、全てを飲み込む怪物に見えてきたのだ。
「私のみさき。どこに行ったのかなぁ?」
怖い、怖い。理由は分からない。
知りたくない。見たくない。
火事なんて知らない。
みさが、倒れたのは、お前達のせいだ。
理由は思い出せない。
「みさァァ……、どこ、ねぇ、しってェェエエ工、そうよね?」
でも、悪いのは黒宮家だ。
それだけは分かる。
――誰か、助けてくれ!
心の中で、甲高い悲鳴が響く。
湧き出る感情を抑えられない。
すると、その刹那――視界を眩い光が包んだ。同時にリュックサックの中から、ガラスが割れるような音が響きわたる。
何が起きたのか、分からなかった。
おそるおそる鞄を開いてみれば、中にはスマホ、ハンカチ、充電器、そして、二つの鈴と、かつて鈴であった金属の破片が飛び散っていた。
鈴を取り出し中身を確認しようとする。
ザシュッ。
巨大な刃物が、空を切る音が響いた。
背後からだ。
ごろり。
一瞬だった。
まあるい物体が床に落ちる。
同時に、生暖かい液体が飛び散った。
あれは、八重子の……。
「――ッ!」
逃げないと、早く。
見つかる前に逃げないと。
病室の扉を開け、廊下に出る。
持ち手に触れたとき、真っ赤な液体の粘着いた感覚がまとわりついた。
鈴が割れたということは、八重子さんを切り裂いたのは『くねくね君』だ。
僕ではない。僕は犯人じゃない。
廊下へ出ると、異様な風景が広がっていた。視界が全てモノクロなのだ。これは比喩ではなく、本当に目に映る景色が全て、白と黒で構成されていた。
明るい場所は黒く、影が差す場所は白い。
普通の白黒写真とは真逆になっていた。
よくよく見てみれば、壁に掛けられたポスターや、写真は全て鏡合わせに反転している。
もう、どこに逃げればいいのか分からなくなって、ひとまず病室の出口へ向かうことにした。
カン、カン、カン。
背後から鉄を、地面に打ち付ける音が聞こえてくる。音は、走れば走るほど、段々と小さくなってきた。
カンカンカンカンカン。
音の主が、遠ざかったのか?
否、逆だ。
ここは、あべこべの世界。
音が小さくなったということは、背後から脅威が、着実に迫ってきている証だ。
息を切らしながら前方を見る。
すると、そこには見覚えのある存在がこちらを睨みつけていた。
め、はな、くちびる、かみのけ。
女の子、女の子が立っている。
座敷牢で出会った女の子。
黒い衣の上にまとった袴は、彼岸花みたいに鮮やかな赤色であった。
「お前は誰だ?」
笑ってる。
女は笑って、こちらを凝視している。
そのまま、一歩、一歩、迫ってきて……。
「やめろ、こっちにくるなァ!」
背後から迫る音が極限に小さくなった。
脳が情報を理解しきるより先に、体が勝手にしゃがみこんでいた。頭上をシュッと、鋭い塊が風をなぶっていった。
『えー、なんで逃げちゃうの?』
頭上から声がする。
女子の声だ。
『おにぃーさん、僕と遊ぼうよぉー』
背後から迫る女の声が、どんどん小さくなった。このまま僕は死ぬのか。覚悟を決めた、その時――。
「レイに……触らないで!」
着物の女が叫ぶ。
助けてくれたのか?
どうして水鏡神が僕を?
ぐにゃりと視界が飴のように歪んだ。
遠のく意識の中で、着物の少女が呟く声だけが脳内に響き渡った。
あいしてる、あいしてる。
だいすきだよ。
*
目を見開く。
傾き始めた太陽が照らすのは、無機質な機械に囲まれった純白のベッド。
無事に現実世界に戻ってこれたようだ。
喉の奥に詰まっていた息を吐き出し、深呼吸する。そして、異変がないか周囲を見渡した途端――。
女の人。
床に女の人が倒れてる。
上品な着物をまとった、お下げ髪の人。
「やっ……八重子さん!」
うつ伏せに倒れている八重子に駆け寄る。
話しかけても返事がない。
手首に触れ脈を確認する。
異常はない。
彼女の心臓は、問題なく血液を全身に送り続けている。とはいえ、このまま放っておくわけにもいかない。
とりあえず医者でも呼んでくるか。
ここ病院だし。
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