心模様 空模様

母が倒れた。

心労が溜まっていたのだろうとのことだった。

どこでもヒステリックな母だから精神を病んでいるとだれもが想っていたのだろう。

父が戦地に行ってしまってから人が変わったようだった。

覚悟していたはずだろうに。

当たり散らして。

馬鹿らしい。

呼吸ができなくなるらしい。

そのまま息の根が止まってしまえばいいのに。

今ですら学校も上がらず働きながら弟の面倒をみ、家事全般をやっているのだ。

殴られたりする無駄がなくなるだけだ。


まさに今、布団の中で呼吸を荒くしている母の姿をただ眺めている鈴の姿がそこにあった。

最初は背中をさすろうとしたりした。

だが、その手ははねのけられた。

私に触れられたくないらしかった。

悲しくなどない。

何もしなくていいなら楽だと思った。

だからそれから、ただ苦しむ母を眺めている。

一応、大事になりそうなら医者を呼ぶためだ。


「いたっ。」


枕が飛んできた。

ハァハァと呼吸が苦しそうな母は鈴を睨みつけ続ける。

なにがそんなに気に食わないのか。

私が苦しまずに生きているからだろうか。

どうしてこんなに母に憎まれているのか、正直なところ鈴には見当もつかなかった。

成績だって別段悪かったわけじゃない。

言うことは聞いてきたはずだ。

…。

考えても仕方ない。

私は母ではない。

母の気持ちなどわかりたくもない。

正直、枕を投げ返してやりたい気持ちがあったが、発作がおさまり、普通の状態に戻った時のヒステリーレベルがあがるのは目に見えている。

無駄が増えるだけだ。

自分を睨みつける瞳を真っ直ぐ見つめ続ける鈴。

鈴のほうがよっぽど心を病んでいただろう。


鈴はあれから弟を連れ、近所の農家を手伝っていた。

鈴の事情をなんとなく察している大人は多い。

ただ、なるべく気にはかけてくれるが、いかんせん鈴母のモンスターっぷりがなかなかに面倒なので、入り込んでくる人間はいなかった。

いや、晴男の母は違ったか。

たまに顔を出しては、母の話し相手となり、鈴に自由な時間をくれた。

だが、その後きまって母は暴れたから、鈴にとってはプラスマイナスゼロだった。

いまだ気にかけられる鈴が気に食わないらしい。

面倒な女だ。


「ねぇね、おなかすいた。」


弟が鈴の服のすそをひっぱる。

ハッとした。

意識が体から抜けていたようだ。

いつのまにか母の呼吸が落ち着きはじめていた。

弟はこんな中で育ったから空気を読んで声をかけてくる子に育ってしまっていた。

今が一番母が静かなタイミングなのを体で察していた。


「すぐに夕飯の準備するね。ごめんね。」


鈴は指をくわえる弟の頭を撫でる。


「グズが…。」


母は悪態がつけるほどにまでなった。

もう放っておいて大丈夫である。


弟が母に枕を運んでいく。


「賢いね。ありがとねぇ。」


母は弟を抱きしめる。

今が抜け出すチャンスだ。

鈴もやっとお腹の底から呼吸ができた気がした。





その日は朝から雨だった。

雨の日でもお手伝い出来ることはある。

ただ、弟を雨の中に連れ出すのはさすがに気の毒だったので、今日だけは母に弟の面倒をみるのを頼んだ。

数時間のことである。

母は弟には甘いので、雨で外に出すつもりだったのか!と逆に怒られた。

理不尽だが、速やかにいってむしろ良かったと思えた。


雨の中、農家さん家に走る。

傘を使うと叱られるので、ずぶ濡れで走っていた。


「原田!」


懐かしい声がした。

蔭山だった。

蔭山もまた就職組だった。

出勤中だったのだろう。


「お前、傘は…って、そうか…。いつも小田の馬鹿の傘にいれてもらっていたな。」


幸子に対してひどい言い草である。

鈴の脳内で怒って反論する幸子が再生された。

久しぶりの蔭山は相変わらずだった。


「傘…貸しても叱られるんだよな。これかぶっていけよ。」


鈴は黙ったままだったが、蔭山はぶら下げた鞄から手拭を手に取り差し出してきた。

懐かしい。

あの日のキュウリを取り出したのもこの鞄だった気がする。


鈴は手に取らない。

頭の中でこの手拭が母にバレた時の反応を導き出していた。


「あぁ…もう。」


と、蔭山はため息を吐きさしていた傘を投げ出し、その手拭で無理やり鈴の頭を包み、ほっかむりのように結んだ。

黙ったままの鈴が色々考えているからなのがわかっているから、無理に頭に巻きつけたのだ。


「ありが…とう…。」


鈴はなすがままにされ、ちょっと困りもしたがその気持ちだけはありがたかったのでお礼は伝えた。

知らない家の匂いがする。


「うむ。」


蔭山は満足そうに鈴を眺めている。


「…なに?」


鈴は単純に疑問だった。


「いや…。……。」


珍しく言葉に困る蔭山。

あちこち宙に視線をやり、何か伝えたそうには見えるが。


「原田。」


急に名前を呼ばれて、鈴はちょっとだけビクッとなった。


「なんか困ったことがあったらいつでもウチを頼れ。俺ん家はお前ん家のことちゃんとわかってるから。力になれると思う。」


蔭山は頬を少し赤く染めながら、目を合わせてはそらしながら鈴に思いを伝えた。

ずっと鈴のことが気にかかっていた。

田舎は情報が回るのがはやい。

鈴の母が倒れたこともちゃんと耳に入っていた。


「蔭山は本当は優しいよね。知ってたよ。ありがとう。でも私は大丈夫だから。」


蔭山がずっと自分を気にかけていてくれたことはわかっていた。

ちょっかいをかけてきながら自分の様子をうかがっていることも。

本当にありがたいことだ。

鈴はそう思ってはいたが、蔭山のお世話になることは一生ないだろうと思っていた。

母のヒステリーは異常すぎる。

それに誰かを巻き込むことはしたくなかった。

いつまでも話してるわけにはいかないから、鈴は言葉を伝えるとすぐに踵を返した。

その姿にちょっと蔭山の胸が痛んだが、鈴はあの手拭を絶対に返しに来るから、またその時にでもゆっくり話ができると思った。

鈴の後ろ姿を見送る。


「また痩せたな。」


蔭山はそう思った。





午後。

ビショビショで鈴が自宅に戻ると、珍しく母が料理をしてくれたらしく、弟は食卓で昼ごはんを食べていた。

母の姿はない。

疲れて眠ってしまったのだろうか?

帰宅の挨拶をすませるために体を拭きながら母の寝床へ向かう。

母は布団に入り、座った状態でなにやら手紙を読んでいるようだった。

母に手紙など珍しい。

…。

そう思ってハッとした。

もしかして自分への手紙ではないだろうかと直感的に思ったからだ。

そして相手は一人しかいない。


「お母さん!」


鈴の声で、鈴母は意識が手紙から戻された。


「お手紙…もしかして私のではないですか…?」


恐る恐る母のもつ手紙に手を伸ばす。

勘違いだとはどうしても思えなかった。


「原田鈴様。」


母は手紙を読み上げる。


「あれからお変わりありませんか?ずっと手紙がないので心配しています。約束を破った俺が鈴ちゃんの心配をするなんておこがましいかもしれないけど、たまにはどうしてるか教えていただけるとありがたいです。」


「やめて!」


晴男から自分への大切な言葉を母に汚されているような気分がした。

母は手紙を鈴に渡す気はない。

手を伸ばす鈴を払いのける。


「あんた、神様に振られたんだね。ざまぁないね。」


母が高笑いをする。

その声が鈴の脳内で大きく響く。


「あんたがそもそも一緒になれる相手じゃないのよ。ああー可笑しい。これで遠慮なくあんたを売りに出せるね。まぁ、もうしばらくここで働いてもらうけど。」


実母の言葉とはとても思わなかった。


「返して!」


自分の手が怒りで震えるのがわかった。

母に掴みかからんとする心を必死に抑えて、静かに手紙に手を伸ばす鈴。

嘲笑う母の両手が手紙にかけられる。


ビリッ


手紙は簡単に真っ二つになった。


ビリッビリッ


母は笑い声をあげながら、晴男からの手紙を細かく細かくしていく。


吐き気がする。

体から意識を抜け出しそうに感じる。

体が鉛のように重い。

ヒラヒラと舞う晴男の書いた文字だけが鈴の瞳にうつる。

拳を振り上げたい気持ちがあるのに体が言うことを聞かなかった。


久しぶりの晴ちゃんからの手紙だったのに…。


そう思うと鈴の意識は一瞬でそこで途絶えた。





「返事ないな。」


晴男は雨がしとしと降り落ちてくる空をゆっくりと眺めていた。

季節はずれの長雨。

雨の飛行はなかなかに簡単には行かなかったが、最近は飛行訓練の結果に一喜一憂しながらも、空を飛べる幸せを毎日噛み締めていた。

ただ、雨の日はいつも鈴が思い出された。


「鈴ちゃん、泣いてないかな…。」


鈴が泣いているから雨が降ってるのかもしれないと思えたからだ。

今年は変なタイミングで雨が降ることが多かった。

朝は晴天だったのに夜にはどしゃ降りだったり。

そんな時は鈴に何かあったのかもしれないと胸がざわついて仕方なかった。

鈴への気持ちを無くしたわけではないのだ。

今でも大切な大切な存在だ。


先日久しぶりに書いた手紙の最後の一文を思い出し口にする。


「鈴ちゃんの幸せをずっと願ってるよ。」


雨空は泣き続けるばかりだった。

晴男がこの言葉が鈴に届けられなかったことを知る由もない。

手紙を読んで、少し微笑む鈴を思い浮かべては心が癒されたように感じた。

勝手なものである。

自分でもそう思った。

だが、この笑顔の鈴が晴男の背中を毎日押してくれていた。

晴男の心に生きる鈴はいつも笑っていた。





鈴はあの日の記憶を一切失ってしまっていたが…。

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