第35話 何なら昔みたいに賭けてみるか

 足元の方から「なんじゃ、起きてしまったのか?」と、僕に優しく問いかける声が聞こえた。暗闇と静寂に包まれた部屋にリンの透き通った声が響いて何とも心地よい、これが1/fのゆらぎというやつか。

 リンはさらに追い打ちをかけるように、ふにふにとした肉球で僕の身体を踏みしめながら顔に近づいて来た。声だけでもギリギリだというのに、その上マッサージときた。聴覚と触覚による連続攻撃……リラックス効果は抜群だ。


「なんかしょうもないこと考えておるじゃろ? 我は夜目が効くから、そちの腑抜けた顔がバッチリクッキリと見えておるぞ?」


「腑抜けた顔とはこれまた失礼な物言いだな……」


「にゃふふ……そう拗ねるでない。出立するにはまだ少しばかり早かろう、じゃからもう少し眠っておれ。時間になったら、いつものように我が起こしてやるからの?」


「ぐずった子供を寝かしつけるような言い回し止めてくれないか……それに僕はここ最近で一番だと自負できるぐらいに、頭がスッキリしているんだ。だから、寝ようと思っても眠れそうにない。何なら昔みたいに賭けてみるか?」


「余ほど自信があるとみえる。では、一つ試してみるとするかの。一分じゃ、一分でメグルを夢の世界に誘ってやろうぞ♪」


 やってしまった、調子に乗り過ぎた……暗くてリンの表情は見れないが、声のトーンからして妖美な笑みを浮かべているのが手に取るように分かる。こうなった場合、僕はリンの策略に溺れて敗北する。まだリンが猫を演じていたあの頃から、それは変わっていない気がする。

 悪夢を見て眠れなくなった時や高熱を出して寝込んでいた時、両親が家にいなくて一人で留守番をしていた時など、いついかなる時でも傍で僕を支えてくれた。だが、今置かれている状況はその逆、不安な気持ちは一片たりともない。

 僕が負けていたのは、常に心身ともに弱っていた時だ。幸福感に満ち溢れている今の僕が、リンに敗北する要素など一ミリもないのだ。 


「僕は絶対に寝ないぞ、寝てたまるものか!」


「何をそこまで息まいておるのやら……さてと、始めるとするかの」


 リンは僕の胸元に移動すると、そこで身体を丸めて眠り始めた。湯たんぽのような温かさと、そこから伝わってくる鼓動が無情にも僕に安らぎを与えてくる。


「本人も気づかぬうちに心労というものは溜まっておるもんなんじゃぞ? メグルは良く寝たと言っておったが、そちは二時間も寝ておらん。神経が高ぶり過ぎて、熟睡したと勘違いしておるだけなのじゃぞ? そんなに張り切らんでも良いぞ。仕事も大事じゃが、それよりもギースが言ったように世界を楽しむことが最優先じゃ。そちが我のことを想ってくれておるように、我もまたメグルのことを想っておることを忘れるでないぞ? 我、この言葉を結構そちに言っていると思うのじゃが……まあそれは今は良いか……」


 リンが僕に向けて優しく語りかける、その言葉の一音一音が心に沁み込んでいく。

 その温もりを感じながら、僕の意識は自分の意志とは関係なく薄れて深みに沈んでいく……。


 リンの言うように僕は身体を休めるという点においては、確かに眠れていなかったらしい。そんな穏やかな時間の中で、僕が寝れなかった理由に気づいてしまった。


 僕は不安だから眠れなかったんじゃない、リンと一緒に世界一周旅行ができることが、楽しみでただ眠れなかっただけなのだと。


 そんなしょぼい真理にたどり着いた途端、急に眠たくなってきた……。


「おやすみ、メグル。良い……を…………肉体……に、精神……支障……か……」


 何かを考え込んでいるかのような低い声、意味ありげな単語が断片的に聞こえてくる。いまは口を動かすことも目を開けることもできそうにない。


 明日……また訊いてみるとしよう。もう無理だ……おやすみなさい。

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